「そういうことですから、桜坂先生以後気をつけてくださいね」

 夕暮れの職員室。くたびれた蛍光灯に照らされた一角に絵梨子と壮年の女性教師が立っている。

 女性教師が不機嫌そうな顔で絵梨子を叱責すると、絵梨子は明らかに悔しそうな顔をしながらも、唇をかみ締めどうにかそれを抑えようとしていた。

「…………はい」

 出来うる限り感情を抑えた絵梨子の声が絵梨子の心を余すことなく表しているが、頭を下げ、目を伏せ、雌伏に耐える。

「では、もういって結構です」

「……はい、失礼、します」

 今にもその皺のよった横顔にビンタを食らわせたい気持ちを我慢して絵梨子は回れ右をすると、自分の席に戻る気分にはなれずに大きな音を立てて職員室を出て行った。

「なによ!

 乱暴にドアを閉めると誰かに聞こえるかもしれないということをわかりながらも絵梨子は大きくもらした。

「……やってらんないっ」

 胸に渦巻くムカムカした気持ちをどう処理していいのかわからず、どこに向かうのでもなく校舎の中を歩きだした。

(なによ、なによなによなによ!

 理不尽な叱責による、やり場のない怒り。それが社会人としてもしかしたら当たり前かもしれなく、仕方ないことなのかもしれない。だが、だからといってその不満を飲み込んで生きていくことをよしとするわけにはいかない。

 そんな風に流されていて生きていくなど矜持が許さない。

 そう思っていればいるほど、今の出来事が悔しくてたまらず絵梨子は【器】が徐々に溢れていくのを感じていた。

「…………やってらんない」

 職員室から出たときとは対照的に小さくつぶやくと、疲れたように絵梨子は壁に寄りかかった。

(……………泣きそ)

 こんなことで泣きそうな自分が悔しくてさらに涙の器に雫が溜まっていく。

(あ………)

 涙にぼやけた視界で廊下を見つめていた絵梨子は正面から迫ってくる生徒に気づいて思わず目を背けた。

 しかし、それが余計だった。

 もし気づかれたくないのであれば、何食わぬ顔をしてすれ違うべきだったかもしれない。だが、絵梨子はそんなことに頭が回ることなくこの姿を見られたくないという一心でそうしてしまった。

「桜坂先生?」

 その妙な様子に気づいたときなが傍に寄って、俯いている顔を覗き込んできた。

(何で、この子は困ってるときに私の前に現れるのかな……)

 ときなに泣いている顔を見られぬようにしながら絵梨子はそう思っていた。

「…………………」

 だが、ときなは一度そうされるだけでそれ以上顔を覗き込もうとはせず、また何も言ってくることはなかった。

 ただ、慈悲のこもった瞳で絵梨子を見つめるとそのまま絵梨子の横に立った。

「…………………」

 少しの間絵梨子のどうしていいのかわからず沈黙が流れたがそれを破ったのはときなだった。

「こっち、来てください」

 ときなはそういうと絵梨子の手を取って歩きだした。

 絵梨子は驚いたが、振り払う気にはなれず力強く自分を引っ張っていくときなの背中に目を奪われる。

 どこに向かっているのかはわからないが階段を二つ上った。そのまま廊下をつかつかと歩いていく。

 そして、少しすると止まってどこかのドアを開けると教室に入っていった。

(ここは……)

 なじみのある規則的に並ぶ机を見てどこだか察したが、それを口にする前に鍵をかけたときなが口を開いた。

「私の教室です、鍵は私が持ってますから誰もきませんよ」

「……そ、う」

 ときなはそれだけを言うと絵梨子から一歩距離をとってここからは遠い窓を見つめた。

 閑静な夕暮れの教室。

 絵梨子はそこでクールに自分を扱うときなを陶然と見つめる。

「聞いて、くれないんだ……」

「私のことは気にしないで、存分に泣いてください」

「……何も知らない人の前でなんか泣けないわよ」

「なら、話してください」

 ここにつれて来たのは結局、二人きりで話しやすい場所につれてきただけなのかもしれない。

「…………いつもいじわるね、あなたは」

 無理矢理に唇の端を吊り上げて笑う絵梨子は、ときながつくづく変な生徒だと思った。というよりも今年一年生になったばかりの生徒とはとても思えない。

「……怒られちゃってたの」

 弱音を吐きたかったわけではないが、今ここで聞いてくれる人がいる。

 そのことにありがたさを感じながら絵梨子は小さく話し始めた。

 普段なら、怒られたくらいで泣くなとときなは言ってくるだろうがこの時は、その奥にあるものに探すかのように黙ったままだった。

「ちょっとね、生徒同士のトラブルがあってさ、それで相談されて、それの仲介したらバカな保護者が文句言ってきて、それはむかついたけど、こういうこともあるってわかってからいいわよ。けど、何でそれで余計なことするななんて怒られなきゃいけないわけ!?

「……………」

「私に相談してくれた子は、勇気を出して私に相談してくれたのに……助けてあげたかっただけなのに……あんなバカな親はともかくさ、何で身内にまで怒られないといけないのよ! 余計なトラブルを持ち込むな!? っざけんな!!!

 おそらく一人だったら、絵梨子はここまで言うことはしなかったかもしれない。だが、ときなが聞いてくれているということがその心の堤防を低くさせ、気持ちを素直に吐き出させていた。

 ときなは黙ったまま優しく絵梨子の肩を抱き寄せた。

 ただそうする。

 慰めの言葉を投げかけることもなく、絵梨子に寄り添う。

「………………何も、いってくれないのね」

「話はいくらでも聞きますよ? でも、何もいえません。私じゃ先生の気持ちを本当の意味でわかってあげるなんてきっとできませんから」

「…………………………」

 それは正論だった。ここで下手に同情めいたことを言われようとも、それは絵梨子の感情を少なからず逆なでする。慰めてくれることへの感謝はあっても、その気持ちは完全にぬぐいきることはできない。

 痛みはその人間の痛みであり、それは本人にしかわかりようがないものだ。

 まして、絵梨子の苦しみはときなにはわかりようがない。教師と生徒という格差には決して埋めようのない溝があった。

 どんな言葉を述べようが、たとえときなが正確に絵梨子の気持ちをわかってあげられたとしても、絵梨子からすればそれは対岸の火事を見ている人間からの発言になってしまうのは事実だった。

 だから、ときなは無言だった。

「……………いじわる」

 絵梨子はいじけたように言うと、肩を抱いていてくれるときなへコツンと頭と頭をぶつけた。

「はい」

 だが、一見冷たくも感じるときなの態度は絵梨子の火事を弱めてくれる。

(……この子は私のことわかってくれてるんだ)

 その想いを強く抱いて、絵梨子はときなへ体と心を寄せるのだった。

 

 

 それはある休日の昼下がり、絵梨子は学院でのある用事の中、少しの休憩時間を利用して学院からすぐの寮へと向かっていた。

 大きな両開きのドアを開けて中に入ると、挨拶してくれる生徒に笑顔で答えながらも早足に目的の三階へと向かっていく。

「あ、いたいた」

 幾度か訪れたこともある自室に向かおうと想っていたのだが、三階を上がったところのロビーに目的の人物を発見して声を上げる。

 目的の人物、ときなは絵梨子が来たことには気づいていないようで何か本を読んでいた。

(…………綺麗)

 ソファに座って時折髪をかきあげながら、一心に読書をする姿は一枚の絵のようで絵梨子を魅了するには十分な光景だった。

 しばらくその姿に見惚れてしまっていた絵梨子だったがここに来た目的を思い出して絵の中に入っていく。

「朝比奈さん」

「ん、あぁ桜坂先生」

 声をかけるとときなはすぐに読んでいた本をパタンと閉じて絵梨子を見上げた。

「何ですか、こんなところまで来て」

「ね、今学校見学の係りやってたんだけどさ、朝比奈さんって妹いる?」

「…………」

 絵梨子を笑顔で来迎していたときなだったが、その一言に目に寂しそうな色を宿らせる。

「はい、いますよ」

 だが、それは一瞬でときながそれを取り繕ったので絵梨子はそれを気のせいなのだと思った。

「あぁ、じゃあやっぱり、朝比奈せつなって朝比奈さんの妹さん?」

「…………はい。そうですよ」

(………?)

 妹の名前を出すと明らかにときなは陰りを見せる。それが何故だかわからず絵梨子は首をかしげるしかないが、ときなの様子にある想像をする。

「仲、よくないの?」

「いいえ、そんなことはありませんよ。…………そう、あの子やっぱり来たの」

 それは絵梨子に言ったのではなく、独白のようだった。

 その様子に他人が軽い気持ちで立ち入っていいことではないのだと悟る。と、同時に自分がときなのことをあまり知らないのだと気づいた。

 絵梨子が知っているのは、容姿端麗で成績優秀。少しいじわるだけど、困っているときにはきちんと助けてくれる優しさをもっていること。他の生徒と比べて接する機会は多いのにほかにはほとんど知らない。

(あんまり自分のこと話してくれないしな)

「会いにいってあげないの?」

 複雑な事情があるのかもしれないが、教師としても個人としても話を聞いてあげたかった。

「いえ、見学が終わったらここに来る予定なので」

「……そう」

 仲が悪くないといった言葉に嘘があるようには見えなかった。しかし、少なくても妹の到来を快く思っていないのだということだけはわかった。

「用はそれだけですか?」

「あ、えと、うん」

「じゃあ、私はこれで失礼します」

「え、あ、朝比奈さん!?

 ときなは珍しく冷たく言い放つと、長い髪を揺らして早足に去っていった。

 強引に話を打ち切った姿に、なんだか余計なことをしてしまったかなと思うのと一緒に、何故妹に対してあんな態度を取るのかということを疑問に思ったのだった。

 だが、絵梨子がそれを知るの機会はだいぶあとのことになる。

夏2/

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