ピンクのシーツのベッド。漫画や雑誌、小説が雑多に詰められた本棚。あまり整頓されていない勉強机に、クローゼット。
必要なものがそろった部屋の中央で一人座る玲菜は居心地の悪さを感じていた。
「……………」
部屋がどうというわけではない。ここに呼ばれた理由を思ってのことだ。
大した理由はないのかもしれない。単純に二人きりになるためやもっと自分を知ってもらうために呼んだだけかもしれない。
そうは考えられるが、何せ今の天音は通常の状態ではない。
恋人を家に呼ぶという行為。
その意味を考えずにはいられず、玲菜はどうすればよいかを思案していた。
「お待たせしました」
考えても答えは玲菜の中にはなく、飲み物とお菓子を用意すると言っていた天音が戻ってくる。
「あぁ、ありがとう」
こじんまりとした天音の部屋にはテーブルを置くスペースはなく、床に紅茶とクッキーを広げてまずは玲菜の心配をよそに他愛のない話をした。
(……杞憂、なのか?)
季節の話や、勉強の話、最近読んだ本の話などが話題の中心になる中玲菜はそう思う。
だが、天音は妙に落ち着かない様子で、自ら話題を切り出してもそれに集中できていないことは玲菜にもわかった。
「…………」
そして、すぐに沈黙が訪れてしまう。
「天音……」
「…………」
天音がなんらかの意図をもって玲菜をここに誘ったのは間違いない。それはおそらく天音自身が迷い、悩み、そして、罪に思っていることだろう。
だから天音は踏み出せずにいるのだ。
「…………」
今であれば引き返すことができるかもしれない。何事もなくこの部屋を去ることができるのかもしれない。
(それで……いいのか?)
自分の事だけを考えるのであればそれでいいかもしれない。おそらくではあるが、ここで何事もなければ天音とは終わりになるような気がする。
それは……玲菜の望んでいたことのはず、だが。
自分の【恋人】はどうなのだろう。
この強がりで、しかし脆い年相応でしかない好きという気持ちに歪んでしまった少女は……
意図したわけではないが、自分が彼女を変えてしまったことは事実。その責任を取る必要はあるのではないだろうか。
自分などのために彼女の未来を曇らせてしまうことなど許されるのだろうか。
玲菜は決して天音が求めてはいない思考をめぐらせ
「天音、私は君の恋人だ。私にできることなら君に応えるよ」
優しさを見せてしまった。
時には優しさこそが心のない言葉や暴力よりも残酷なことに気づかずに。
「っ…………」
瞬間、天音の心に渦巻いた感情には様々なものがあった。
惨めにもなったし、申し訳なくも思った。そして、わずかではあっても喜びを感じる自分に辟易し……そして、それを
「…………なら、キスをしてください」
玲菜と自分への怒りに変えた。
それは玲菜への抵抗も含んでいたが。
「……あぁ」
「っ!!?」
あっさりと了承をされてしまい、要求をした天音の方が混乱してしまう。
「玲菜、先輩……」
天音は結月と玲菜の関係を知らない。
キスをしろというのは、天音にとってはとてつもない要求だった。付き合えと脅迫した時と同じようにむしろ望んでいたのは拒絶をされることだったのかもしれない。
だが、二人の意識の差に天音は気づけずに
「……っ」
いつの間にか目の前に迫っていた玲菜に心も瞳も奪われた。
そのしなやかな腕が背中に周りぐっと引き寄せられる。
「目を、閉じてくれ」
十センチも離れていない距離で、甘く囁かれる言葉。
「……ん、っく」
大好きな人に抱かれ、迫られているという事実と目の前にある玲菜の顔に生唾を飲み込む。
(うそ……ほん、とうに?)
それを望み、要求したのは確かに天音だ。
しかし、受け入れられるなど思っていなかった。無責任な優しさを見せる玲菜に対する意趣返し、覚悟もないくせに優しいふりをしているだけを決めつけた自分の甘さ。
「………は、い」
逡巡後天音は言われたとおりに瞳を閉じ、
「んっ………」
初めてのキスを受け入れていた。
(……これ、が……キス)
玲菜の唇はグミのように柔らかく、少し熱く………なにより
(……すごい)
天音の中に今感じたことを適切に表現する言葉はなく陳腐にそう思うしかない。
さらにキスの中玲菜は天音を抱く腕に力を込め強く唇を重ねる。
玲菜の腕、胸、手、唇、匂い、熱。
(玲菜……先輩)
好きな人からそれだけのものを感じ天音の思考がとけていく。
戸惑いもあった、罪悪感も持っている、キスを本当に望んでいたのかすらわからない。
だが、実際にされるとそれらの感情は吹き飛び玲菜とのキスの感触に酔いしれる以外にはなかった。
「………まね、天音」
「っ、は、はい!?」
気づくと玲菜の唇は離れており、恍惚に我を忘れていた天音は玲菜に呼ばれてようやく自分を取り戻す。
「あ、え、えと……その……ありがとう、ござい、ます」
何を言うべきかもわからない天音は黙ればいいところをわざわざそんなことを言ってしまう。
というよりもキスのことに頭を奪われてまともに考えられていないのだ。
「ありがとうと、いうのは何か違う気がするがな」
「あ、そ、そうですよね。何言ってるんだろう、私」
キスをされることをある意味屈辱のように感じていた。しかし、された今となってはその極上の感触に心を奪われていた。
「君のためなら、この程度大したことではないさ」
玲菜が余計な事さえ言わなければ。
「っ………」
(この、程度?)
それって、何? キスのこと? キスを、私の初めてのキスをこの程度って言ったの?
玲菜がずれている、のは知っていた。リストカットのことを関係なしに玲菜が普通とは違う感覚を持っていることはわかっていた。
(…………わかって、いたけど)
玲菜は決して自分に対し純粋な好意を持っているわけではないことを知っていた。玲菜は不器用な優しさを向けてくれているにすぎないと。
(でも……こんなの………)
嬉しかった。例え、脅迫をしたのだとしても好きな人からのキスは嬉しかった。
(……わかってた、わかってたけど……)
このままの関係を続けていても、自分の望むものは得られないと。
玲菜の恋人になることはできないと。
(そんなの、わかってたけど)
「あ、天音? どうか、したのか?」
「え……?」
玲菜が驚いたように自分のことを呼び天音は自らの体に起こった変化に気づいた。
涙が、零れていた。
望まない現実に心が悲鳴をあげている。
「っ………」
理由を説明なんてできるわけもないが、ごまかすこと言葉も思いつけず天音は沈黙すると
「っ!!!」
涙をぬぐわれてから、強く抱きしめられた。
「……泣かないでくれ。私にできることなら何でもする……だから」
玲菜は基本的に優しい人間なんだろう。人を故意に傷つけたりすることはありえない。だが、それ故に残酷。
玲菜の言葉は、行為は優しく甘美だ。望みながら諦めていたもの。それが嬉しくないはずはなく天音の心を満たしていく。
しかし。
同時にそれは猛毒となって天音に襲い掛かり
「……帰って」
その痛みに耐えきれずに毒を吐き出した。
「ん?」
「帰って、ください……」
「あま、ね?」
「離して! 私に触らないで、優しくしないで!!」
「ど、どうしたんだ天音?」
「これ以上私を惨めにしないでください。貴女は私のためにって思ってるのかもしれないけど、優しくされる方の痛みをわかってるんですか? 貴女が私のためにって何かをするたびに私がどれだけ惨めになるかわかってるんですか?」
「何を、いって、いる……?」
玲菜の戸惑いはもっともだろう。何故いきなり拒絶をされるのかわかるはずもない。そんなものが理解できるのなら初めからこんなことにはなっていない。
「……………」
玲菜は戸惑いながらも抱きしめる腕を解いて、体も離した。
天音はそんな玲菜のことを先ほどとは違う涙に顔を濡らしながら見つめて
「………もう、恋人ごっこは終わりです」
「え?」
「………帰って、ください」
「天音……?」
「そして………」
どこで、何を間違ったのか天音にもわからない。
だが、はっきりしているのはこれ以上は無理だということ。これ以上この人と付き合っていたら心が持たなくなってしまう。
だから
「二度と……私に話しかけないで」
別れを告げるしかなかった。