「……ひぐ……っ……」
「あいつのことが、好きだからよ」
ひとしきり泣いたあと望はすでに暗くなった部屋の中で、玲の言葉を反芻させていた。 今日一日であまりに多くのことがありまともに頭が働く状態ではないが、それでも考えることをやめられない。 沙羅のことを好き。 そんなのは今更確認するまでもなく好きだ。大好きだ。 だが、好きに対し一つの意味しか持てていない望であっても、玲が言った好きと自分の持っている好きが別の意味を持つのだということはわかった。 いや、わかってしまった。 矛盾もあるかもしれないが、望は好きに対し一つの意味しかもてていなくとも、好きに込められる気持ちや意味が一つでないことを頭では理解している。 だが、 「わかんない、よぁ……」 また泣き出しそうな望は震える声で何かにすがるようにそう口にした。 頭の中でまるで整理されていかない。 沙羅がしてきたこと、沙羅にしてきたこと、沙羅を傷つけたこと、玲にされたこと、玲に沙羅を好きだといわれたこと。 それらは本来つながっているはずだが、おそらくそれを関係する三人すべてがその一部分しか見えておらず、まして中心にいる望はすべてを点でしか見れていない。 その点を繋ぐ何かを見えないというより、気づけない望はその中心でこうして小さくなるしかないのだった。 「……ぅあ……」 泣き出してしまいそうな自分の気持ちをどうにか押しとどめようとするが、いつもなら自分から心の支えにしていた沙羅も、また陰から望を守ってくれていた玲も今は手の届かないところにいることを思い出しては、その心細さに体を抱く。 何にもわからなくて、頼りたい誰にも頼れなくて、どうすればいいのかわからなくて。 一人で底の見えない穴に沈んでしまうような圧倒的な絶望が望を襲う。 それでも 「……………さ、らぁ……」 無意識か、意識的が自分ではっきりしないまま傷つけ、傷つけられた相手の名を呼ぶ行為は、まだ自分では自覚できない、沙羅を大好きな証でもあった。
どんなに悲しくても、つらくても、泣いていても、必ず朝は来てしまう。 教室で沙羅に言われたこと、部屋で玲からされたこと。自分が沙羅を好きだということ、どれだけ考えても答えらしきものすら出ることはなく、いつの間にか眠ってしまっていた望は朝を迎えていた。 何一つ、解決も好転もしていない朝を。 明けない夜はないのかもしれないが、迎えた朝は望に何ももたらしてはくれない。それどころか、何もできずに時間だけが経ってしまったという自覚だけがあり、それすら望の中では負担となる。 どれだけ悩んでいたとしても、お腹は減るもので朝食をとりに来た望だが 「あ…………」 「望……」 そこで、玲と鉢合わせしてしまった。 部活動の練習でもあるのか、休みの日だというのに運動着姿で望を視界に入れるとその場で硬直してしまった。 「っ……」 一方望は、表情を悲痛に歪ませ、身震いをすると一瞬で玲から顔を背け逃げるように玲から遠ざかった。 そして、食堂の隅っこに席を取ると、もう玲のほうは見れずに、玲も金縛りから開放されても望に近付こうとはしなかった。 (玲……) 六人がけのテーブルに一人で座りながら望は、親友の姿にまた震えを覚える。 ほとんど何も進まなかった悩みと、わからないと終始続けた思考の中で、理解したうちの数少ない一つ。 玲がキスをしてきたことと、その後にしようとしたことは玲の本心ではなく演技であったであろうことだ。 望に対し、二心があったわけではなくキスをすることで望に考えさせようとしたのだということはおぼろげではあるが理解をした。 (のに………) 玲が自分を傷つけようとしたわけではないということを理解はした。したのに、実際に玲の姿を写したら、昨日の恐怖がよみがえってしまった。 怖かったのだ。 玲の本心はある程度わかったつもりなのに、されてしまったことは怖くてたまらなかった。今でもはっきり怖くて、顔もまともに見ることが出来なかった。 玲が指摘したとおり、沙羅に対してはそうではなかった。恐怖も感じても次の日あったときには自分から話すことが出来たというのに。 (それって、つまり……)
「あいつのことが、好きだからよ」
何度も何度も頭をかける玲の【告白】。 そして、その言葉がめぐるたび (わかんないよ……) 反射のようにそれを思ってしまっていた。
少し遅めの朝ごはんを食べた望はそのまま部屋には戻らず、校舎のほうへ足を運んでいた。 向かうのは自分の教室。 昨日あまりにいろんなことがありすぎた教室。 昨日まで、一人で沙羅を待ち続けた教室。 「……………」 一部、部活動のため校舎が解放されているとはいえ、静まり返った校舎はあまりにも音がなくどこかせつなさと一緒に不安を駆りたてる。 もっとも、そう思うのは望自身が不安を胸に抱いているからだろう。 ドクンドクンドクン リノリウムの床に音を立て、教室が近づいていくたびそれに比例して心臓がうるさいほどに鳴り響く。 「は……はぁ」 自然に息も荒くなり、自分が今向かう場所をどう思っているのか体で思い知らされていた。 それでも望は一度も立ち止ることも、速度も緩めることなくそこにたどり着いてドアを開けた。 「……………」 当然人っ子一人いない教室は、それだけで普段よりも広く心細く感じるが、この数日でそれに慣れている望は、【その場所】に立った。 沙羅に、押し倒された場所に。 「……怖かった………」 それは確かなことだった。 怖いとは思った。やめても欲しかった。 (だけど…………) 昨日、もう一人の親友である玲にされたときのような心の底から湧きあがってしまうような拒絶感はなかった。 それもまた事実ではあった。 沙羅にされた時と玲にされた時では【差】がある。 それがどんな差であるかは望自身はっきりとは理解していない。 ただ、その【差】が玲の言おうとしていたことなのではという予感が、先ほど玲を見ておびえて、しまったときから望の胸にふつふつとわいていた。 「沙羅、どうしてるの……?」 さらには玲のことはほとんど考えられなかったくせに、沙羅のことは頭から離れることはない。
どれだけ、私を傷つけてたかわかる?
「っ……」 不意に頭によぎる声は昨日とは印象が違っている。 昨日はただ、わけがわからなくて、でもそれが現実だっていうことだけはわかって怖くて、つらくて、悲しくて、何も考えられなかった。 傷つけたという現実におびえ、震えるだけだった。 でも、今は………
「あいつのことが、好きだからよ」
沙羅の言葉と同様に頭に響く、玲の言葉。それが、今まで気づかなかった、気づこうとしなかった場所を薄く照らしているような気がしていた。 今まで盲目的に自分の見たい沙羅だけを見てきた望に別の何かをもたらしてくれていた。 「……好きだよ。沙羅のこと………」 それは今まで望が無責任に言ってきた好きとは違う響きを持っていた。 まだまだ、沙羅の望む好きでも、玲が伝えようとして好きでもないだろうが、それでもこれまでただ沙羅を傷つけてきた【好き】とは違っていた。 「………沙羅」 自分でも、今までと違う好きを口にしたことを感じた望は踵を返し教室を出ていく。 一晩中考えても何もわからないと思っていた。何も変わらないと思っていた。 しかし、玲のぶつけてきた想いは確実に望の背中を押している。 それは赤ん坊が初めて歩き出したような速度かもしれないが、確実に前へとは進んでいた。
前に進みはしたものの、急激な変化など望むべくもなく気づけば週があけ学校に行かなければならない曜日になっていた。 いつも通りに起床した望はいつも通りに身支度を整え、朝食をとり、いつも通り遅刻ギリギリに登校をした。 あんなことがあってから初めての学校だというのに、そうできていた。 おそらく、いや、間違いなくそれは玲のおかげなのだろう。玲が、望を立たせてくれなければ望はいつまでも同じところで、わけのわからないままうずくまって、泣いて震えて二度と立ち上がることだってできなかったかもしれない。 まだ、あれから一度も玲と会話をしたことはなくとも心の奥底ではそう考えていた。 「あ…………」 それほど集中できていなかった一時間目の授業を終えた望は、移動教室から戻る途中、学年の人間であれば誰もが通る廊下で沙羅を見かけてしまった。 (さ、ら………) そこにいたのはこれまでとは違う、沙羅だった。 見た目ではなく、何かそう雰囲気が違う。 悲しみも怒りも、嬉しさもない。そんな感情を一切感じさせない沙羅。 まして、すべてをさらけ出していた【あの時】とは。 (っ!!) 途端に【その時】を思い出し、体が震える。心では【沙羅】の存在そのものを否定しているはずはないのに表に出る心と体は素直な反応を見せた。 沙羅ははっきり望を見ているわけでも、明らかにそらしているわけでもなくまっすぐに望の方角へと向かっていく。 (あ、あ……あ) 一方望は、その場に立ちすくんだまま自然にノートを持つ手に力をこめ、沙羅の接近を待つしかなかった。 そして、沙羅が望の目の前まできて 「あっ……………」 一瞥もなく通り過ぎて行った。 無視をされたということに反射的に振り返っても沙羅はまるで気にした様子を見せずそのまま歩いて行って、自分の教室に入っていった。 「……………」 緊張で握り締めていたノートから手を離し、胸の前でぎゅっとこぶしを作る。 今胸に去来したものを確かめるかのように。 沙羅が自分を無視した意味。その理由。 立ち上がった今なら、それに手が伸ばせるような気がした。