結局、なずなちゃんは了承してくれて一緒に夕飯を作るところから初めて同じ食卓に並んで夕食を取って、片づけをしてなんてやっているとすぐに件の八時となってしまう。

 もう服も乾いていて帰ることもできたけど、ここまでお邪魔してしまった以上何にも挨拶をしないというわけには行かずあたしはなずなちゃんと一緒にその時を待った。

 なずなちゃんは八時と言ったけれど、それよりは少し遅れて半を過ぎた頃。

(来た……)

 玄関のドアが開いた音に緊張を走らせた。

 リビングでなずなちゃんと一緒にテレビを見ていたあたしは、「それじゃあ、ご挨拶させてもらうね」となずなちゃんと一緒に玄関へと向かう。

(……やれやれ行きずりの女の子の家でいきなりお母さんにご挨拶か)

 さすがに気が重いよ。

 なんて暗い顔をしていたのを気づかれたのか、隣を歩くなずなちゃんは

「ん?」

 あたしの手をぎゅっと握ってきた。

 それの意図はわからないけれど少なくてもあたしのためだということは理解してそのまま玄関へとたどり着く。

「お母さん、おかえりなさい」

「お邪魔しています」

 出迎えの言葉に続いてそう告げる。

(綺麗なお母さん、だな)

 なずなちゃんの年齢を考えれば若くても三十前半だろうけれど、あたしよりも小柄なこともあってからまだ二十半ばに見える。

 服装は落ち着いていて、若く感じるのと同時に大人の雰囲気を感じさせるけれど

(……見られてるねぇ)

 当たり前だけど。

「なずな、ただいま。……そちらの方は?」

 不審者を見る目、とまでは言わないけれど怪訝な視線を送られている。

 本音を言えばやはり気まずいけれど、こっちも子供じゃないんだからと名乗ろうとする前に

「彩音お姉ちゃん」

「彩音、さん……?」

「うん。今日、傘を無くしちゃって困ってたら傘を貸してくれたの。あと、車に轢かれそうな時にもかばってくれたの」

(……ん? 轢かれそうにはなってなかったはずだけど)

「それでお姉ちゃんのお洋服がぬれちゃってから、私がお風呂に入っていってくださいって言ったの」

(もしかして、気を使ってくれてるのかな)

 確かに五年生ともなれば自分の行為がまともじゃないし、あたしがまずい立場になりかねないということくらいは想像できるだろう。

「それは……娘の危ないところを助けてくれてありがとう」

「い、いえ……」

 まさかここで本当のことを言うわけにも行かず素直に頭を下げてくれるお母さんに謙遜を返す。

「あとね、宿題もみてくれたしごはんも一緒に作ってくれたんだよ」

「そう。わかったわ。彩音さん、本当に娘がお世話になったそうね」

「いえ、大したことをしたわけじゃ……」

 やはりあたしもまだまだ小娘でこの場でどう振る舞えばいいのかわからない。

 一番いいのはここで適当に話を切り上げて帰ってしまうことだけど、

「彩音さん、お話をさせてもらっていいかしら?」

(まぁ、こうなるよね)

 そのまま再びリビングに戻って、お母さんが家用の身支度を整えている間、再びなずなちゃんと二人で待っていたのだけれど

「なずな、少し二人で話をさせて」

 となずなちゃんはあえなく追い出されて、リビングのテーブルの前で正座をしながら前に対面に腰を下ろしたお母さんと向き合う。

「そうだわ、自己紹介をさせてもらうわね」

 と、お母さんはあたしを落ち着いた表情で見つめると凜とした空気をまとう。

「森川千尋よ」

「水梨彩音、です」

 千尋さんは名乗り返すあたしにそう、と小さく返すとその切れ長の瞳を細め何か含むようにあたしを見抜いてきた。

「いくつか聞きたいことがあるのだけど」

(当然だよねぇ)

 声の調子はさっきなずなちゃんに話していた時とは違ってワイヤーでも張ったかのようなピンと張り詰めた声で、あたしは少し怯んでしまう。

「まず、どうして私が帰って来るまでいたの? 服が濡れたからってなずなは言っていたけれど、あの子と一緒に来たのならもういる必要はなかったんじゃないの?」

(最初が、それなんだ)

 ちょっと意外だな。なずなちゃんが言ったことを確かめるのでもなくなぜ今までいたか、か。

「一つはその方がなずなちゃんのためだと思ったからです」

「見ず知らずの貴女と一緒にいることが?」

「ここに来てしまった以上、お母さんに……」

「千尋でいいわ」

「千尋、さんに挨拶もしないで帰るのはなずなちゃんのためにも千尋さんの為にもならない気がしたので」

「なるほどね、確かに知らない人一緒に居たっていうことよりも、こうして話す機会があるのは私にとっても好都合ではあるわ」

 千尋さんはあたしの分も用意してくれたお茶に口をつけて、間を置く。

「一つ、って言ったけれど他にもあるの?」

「あとは……大した理由じゃないです」

「いいから聞かせて」

「……なずなちゃんみたいなかわいい子が一人でご飯を食べるのが嫌だってっていうだけです」

 あたしとしてはむしろこっちの方が本命だけどそれを素直に口にするのは心象に悪い気はした。

 のだけれど

「っく。っくっく、っく」

 と千尋さんは年齢に似つかわしくない品のない笑いをした。

 知的で大人だと思わせた印象を覆させるような笑い。

「なるほどね、最初の理由は陳腐だけど二つ目の理由は気に入ったわ」

 破顔したその顔は、嬉しそうというよりも楽しそうで、あたしは混乱はするものの嫌な感じは受けずにその姿を眺めていた。

「車に轢かれそうになった云々の話はどこまで信じていいのかはわからないけれど、勉強を見てくれたり、傘を貸してくれたりしたのは本当なんでしょう? 道であっただけの小学生にそこまでするなんて中々面白い子ね貴女」

「あんなに可愛い子が困ってたら、誰だって助けようって思いますよ」

「くく、なるほどなるほど。なずなが随分なついてたみたいだけど、私も貴女のこと気に入ったわ」

「それは……ありがとうございます」

 気に入ったと言ってもらえるのは悪い気はしない。ただ、この距離感には少し戸惑いを覚えてしまって、あたしもお茶を飲みながらこの特異な状況にどうすればいいのかと視線を散らす。

 そんな落ち着かないあたしに

「彩音、一つ貴女にお願いがあるのだけど」

「はい……? なんでしょうか」

「私に雇われるつもりはない?」

 千尋さんは不可思議な提案をしてくるのだった。

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