憎たらしい町並みが、光と共に流れていく。
昼間に乗ったバスとは異なる視点で同じ町を見つめる。
紫苑はそれに辟易し、隣の、この車を運転している瑞樹を見つめた。
「ん、どうかした?」
瑞樹は運転しているくせにそれにするどく気づいて声をかけてくる。
「別に、なんでもありません」
「そ。でも、連れ出しておいてなんだけどほんとによかったの?」
「いいんじゃないんですか?」
「いや、そんな風に言われても……」
「就寝前の点呼に間に合えば、問題ないですよ。どうせ、私のことなんて誰も気にしないでしょうし」
「…………そんなことはないと思うけどな」
「それに、まずいのは三条さんのほうじゃないんですか? 私の態度しだいじゃ誘拐ですよ?」
「え、あ、あは……点呼には間に合うようにするからその辺は口裏合わせてね」
二人の会話の通り、紫苑は瑞樹に誘拐されていた。
正確には誘拐ではなく旅館にやってきた瑞樹に連れて行きたい場所があるといわれ、旅館に居場所のなかった紫苑はそれを承諾し こっそりと旅館を抜け出してきた。
瑞樹のことをどちらかといえば嫌っていたはずの紫苑だったが、同時に興味も抱いており抵抗感は少なかった。
「で、どこに連れて行くつもりですか?」
とはいえ、目的地もわからずに車を走らされればさすがに不安もあり紫苑は素直に問いかける。
「ん、もう少し」
「…………」
もしかして、自分はこの人にだまされているのではないだろうか。先ほどまでは町の光があったが気づけば人口の光はポツン、ポツンとある街灯だけになり、明らかに人気のないところへ向かっている。
このまま本当に誘拐されてしまうのでは。
と、紫苑は不安を増大させていくが、瑞樹の言葉の通りそれからすぐに車が止まる。
「はい、ここからはちょっと歩きね」
瑞樹がそういって車を降りると紫苑もそれに続いたが、車を降りるとその光景にさすがに背筋を冷たくする。
一見したところ周りに人家はなく、夜の闇の中、星と月だけが照らす場所だった。
さらには虫の声や、せせらぎが聞こえてきて、夏だというのに体を震わせてしまう。
「あの……」
「こっちこっち」
だが、瑞樹はそんな紫苑の不安などお構いなしに紫苑の手を引いて歩きだした。
せせらぎや、歩くときに足を掠める草の感触からおそらく川原であるということはわかるがそれがわかったところでこれから自分がどうなるかという予測にはならない。
恐怖も感じたが、ここで瑞樹を振り払おうとこんなところでは逃げようもない。
星明りの下、草むらを書き分けて進む。
どんどんせせらぎの音が近づいてくる、どうやら川に向かっているらしい。
「あ、少しだけ目瞑って」
「はい?」
「いいから」
(……………)
不安はある。恐怖すらある。
しかし、瑞樹の態度が計略や策謀とは一切無縁、というよりも子供が何かを楽しみにしているようなわくわくしているという感じが、紫苑の不安を雲散させた。
そして、紫苑は瑞樹に言われたとおりに目を閉じた。
変わらず草むらを行く。目をつぶって歩くというのは確かに不安だった。だが、手を引いてくれる瑞樹の力強さに不思議とついていきたいと思えるようになった。
そして、
「はい、もう目を開けていいよ」
すぐそばにまでせせらぎを感じたとき、瑞樹の言葉が聞こえた。
言われたとおりに紫苑は瞳を開けると、
「っわ、ぁ……」
思わず、声を上げた。
草の生い茂る小川の中、淡い光が飛び交っていた。
星空を落としたようなその幻想的な光景は紫苑の琴線に触れるには十分すぎる程の美しい光景だった。
数十ではきかないほどの蛍が目の前を舞い、あるいは草の先に止まり、光を囁きあう。川原を埋め尽くす蛍の群れは綺麗という言葉以外には言葉のでない光景だった。
不安とか、恐怖とか、この町にいるという嫌悪すら忘れて紫苑はこのまるで現実とは思えない光景に酔いしれた。
「どう? すごいでしょ」
「はい……」
「へへー、あたしここが一番好きなんだー。悩みとかあってもこれ見るだけで吹っ飛んじゃう」
「…………」
わかる、いやわかる気がする。確かに、ここにいるだけでまるで絵本の中にでも入ったような幻想的な気分なってしまう。
「あ、今笑った?」
「っ」
紫苑にその自覚はなかった。だが、瑞樹は宝物を発見したような声を出した。
「可愛い、ふふ、嬉しい」
何が、嬉しいのか。と、また軽く頬を緩めてしまう紫苑。だが、瑞樹の次の一言にその表情を一片させた。
「よかった。思い出あげられたみたい。修学旅行中、ずっとあんな顔してたなんて悲しいもんね」
「っ…………」
わざとなのか天然なのか。それが、絵本に入っていた紫苑を現実に引き戻した。
光から目を背けて、代わりにここではないどこか遠くを見つめる。
瑞樹はしばらく黙ってその姿を見ていたが、やがて一人語りをするかのように口を開いた。
「あたし、この町が大好き。子供のころからずっと住んでて、学校もずっとここだったから離れたことすらほとんどない。だから、そこら中に思い出がしみこんでる。楽しいことだけじゃなくて辛いこと、いっぱい、いっぱいね。だけど、そういうものまとめてみんな大好き。愛してるよこの町のこと。だから一人でも多くの人に、この町が素敵だっていうのわかってもらいたいの。紹介したい。……紫苑ちゃんにもね」
「っ……わたしは……」
「紫苑ちゃんがこの町のこと嫌いなんだってわかってるつもり。だけどね。嫌いでも、それだけじゃないんだって思ってもらいたい。素敵なところもあるんだって、紫苑ちゃんにわかってもらいたいんだ」
「あ……」
ずるい、笑顔だった。無邪気で子供のようなのに、まるで太陽のように大きくて暖かな笑顔だった。
その太陽は紫苑の心の中までも照らしてくる。
「……私、は、この町、嫌いです。大嫌い」
その響きには嘘はなかったが、今まで時たま感じていた憎しみが薄れているのも同時に感じ、瑞樹の心を痛ませることはなかった。
「私、小さいころこの町に住んでたんです」
「そう、なんだ」
と、いうよりそうでもなければこれだけ敵意をもつことはできないだろう。
「親の仕事の関係で引っ越すことが多くて、ここにも仕事で引っ越してきました。私は、引っ越すのって嫌いじゃなくて楽しかったけど、母はそうじゃなかったみたいで。この町に来てからずっと、喧嘩ばっかりしてました。子供の頃は理由なんてわかんなかったけど、たぶん限界だったんですよね。そういう生活に。毎日、毎日家じゃ喧嘩ばっかり。別のこの町が悪いんじゃないってわかってますけど、ついには離婚までして……。そんなわけで私はこの町が、大嫌いなんです」
人は自分にとって辛いことを話すときあえてなんともない風に話してしまうことがある。紫苑は明るいというほどではなかったが、それを気にしている風には話さなかった。
しかし、瑞樹の目にはそれが悲痛なものに映った。
「本当はわかってるつもりなんですよね。そんなの今さらなんだから気にせず修学旅行を楽しめばいいんだって。でも、頭じゃそう思っても……ここに来るんだって思ったら……やっぱり、耐えられなくて……無邪気にはしゃいでる友達が、うらやましくて……ねたましくて……一方的に敵意振りまいて、バカみたいですよね、私」
ただ自虐に浸るのではなく紫苑は同意を求めた。
バカだといわれたほうが楽になれるときもある。
「……そうかもね」
それをわかっていたわけではないだろうが瑞樹は少なくても言葉だけでは同意を見せた。
「でも、それでもいいんだって思うよ。自分の心に嘘をつくとどこかでツケが回ってくるもん。お友達は悲しかったかもしれない。でも、それはちゃんと謝ればいいだけの話。心配してくれてる子だっているでしょ? ちゃんとごめんなさいって言えばきっとわかってくれるよ。何か理由があったんだってわかってくれない子の方がひどい」
「……………そうですか?」
随分勝手な言い分なようなが気がするが……
「そうよ」
はっきりと返されてしまった。
「三条さんって……」
「何?」
「勝手な人なんですね」
紫苑としては皮肉をこめたほめ言葉だったのだが。
「そうかも。紫苑ちゃんをここに連れてきたのだってあたしの勝手だし」
瑞樹には通じずまともに受け止められてしまった。
(しかも……ちょっと変)
紫苑は瑞樹に気づかれないように笑いながら、蛍の群れを見つめた。
(綺麗……)
どんなに町を嫌っていてもこの現実の前にはそんな感情は無意味だった。
それが、真実。
「あーあ、なんかすっきりしちゃいました。今まで誰にも話せなかったし。片親っていうのは引け目だったし……なんか恥ずかしくて。たぶん、誰にも話さないんだろうって思ってたのに、今は妙に気分がいいんです」
「紫苑ちゃん」
瑞樹は暖かな声で紫苑を呼ぶと、後ろから紫苑を抱きしめた。
「な、なにしてるんですか?」
紫苑は頬を撫でる髪から漂うフローラルな優しい香りに包まれながらも、瑞樹の体に抱きしめられているという事実に動揺する。
「ん〜、なんとなく。やだ?」
「子供じゃありませんよ。もう……」
ブスっとしながらそう言うが、逆に甘えるように首に巻かれた腕に抱きついた。瑞樹もそれを甘受して二人は前を見つめる。
夏の星空の下、地上にも蛍の光。せせらぎの音と虫たちの音色。
それは一つの劇場のようでもあった。
二人だけの秘密の劇場。二人だけの世界だった。
「さて、と。そろそろもどろっか?」
「はい」
そうして、紫苑は最悪な町に一つのいい思い出と、芽生えた想いを抱きその場を後にした。