それから一緒に夕食の片づけをしてから結月に泊まると連絡をし、先に風呂をもらって今は香里奈が出てくるのを待っている。
時刻は夜の十一時を回った。
(……さすがに、気になる時間になってきたな)
リビングで紅茶と夜食を摘まみながら時計を見上げて思う。
玲菜がこの家に着いた時はまだ九時前で社会人からすれば遅いというような時間でもなかったかもしれないが、もう日付が回る時間だ。
この時間まで連絡もなしということは普通に考えたらありえないことだろう。
香里奈も同じように思っているのかみるみる元気がなくなり、風呂に行くときにも明らかに沈んだ顔をしていた。
「お」
ただ心配や原因を考えることはできても結局は待つ以外のことはできないということを自覚し、歯がゆい気持ちでいるとパジャマ姿の香里奈がリビングに現れた。
「ほぉ、そういうのを着るのか」
「え……あ、う、うん」
現れた香里奈の姿は予想とは違うものだった。薄ピンクのワンピース型の寝間着。フリルもついており少女趣味である。はっきり言わせてもらえば、香里奈のように背の高い人間にはあまり似合わないもののような気もする。
「変、かな? お姉ちゃんがこういうの好きだから」
「……いや、少し意外ではあったが。変ではないさ」
(お姉ちゃんが、か)
ここでもというより、自然と香里奈との会話ではその名前が出ることは多い。それはもちろん、大切な相手だからということもあるだろうが。
(……それだけではないんだろうな)
そんなことを考えながら香里奈にお茶を淹れる。
「…………」
ありがとうと礼をいい香里奈は紅茶に口をつけるが、表情では不安を隠せていない。
「……お姉ちゃん、帰ってくるよね?」
ぽつりとつぶやいた、おそらく声に出したくなかった言葉。
「当たり前だろう。お前を置いてどこかにいくものか」
「……うん」
(……………)
頷きながらも不安を隠せずにいる香里奈の表情。それが玲菜にあることを思い出させる。
「………………………………」
そこに小さな自分を見た気がするから。
大きな家で一人、戻ってくるはずの大切な相手を待つ。
それは絶望的な気分だ。
玲菜も香里奈もその絶望を経験している。
(……守ってやらなくてはな)
それは同じ痛みを知る自分の責務であり、
(………意志、だろうか)
この自分より大きな少女の心を守りたいと思うのはエゴかもしれない。自分と同じように親を失った相手を救うことで過去の自分を救いたいという誰のためでもない我がまま、そしてそんな自分を慕ってくれる可愛い後輩を守りたいという庇護欲。
「……帰ってくるさ」
自分の中の想いを自覚した玲菜は隣に座る香里奈を抱き寄せ根拠もなくそう言い切った。
そして、気づけば十二時を回る。
二人とも変わらずソファに並びながら時計や窓の外を見つめている。
「ふぁ……あ」
普段この時間には起きていないのか香里奈は時折あくびをして眠そうな態度をする。
「眠いのなら少し寝てもいいんじゃないか?」
「……ううん、起きてる」
「そうか」
明らかに香里奈は眠たげな眼をしているが本人がそういうならと玲菜はそれ以上何も言わなかった。
「……………」
交わす言葉は少なく、何度目かの眠気覚ましのコーヒー淹れ直してきた玲菜は
「………っ」
香里奈の泣きそうな顔を見てしまう。
(不安、だよな)
香里奈が感じているのはただの不安ではない。また大切な人が帰ってこないのではないかという絶望的な不安。
それを二度味わうなど……
「帰ってくるに決まっているだろう、そんな不安な顔をするな」
コーヒーを置きながら玲菜は軽はずみにそう言ってしまうと。
「ぶちょーになにがわかるの!」
玲菜の無責任に聞こえる言葉に張りつめていた糸が切れたのか香里奈はついテーブルを叩いてしまい
「っ……」
その衝撃で玲菜がさしだそうとしていたコーヒーをこぼしてしまう。
「あっ……ご、ごめんなさい」
「いや、大丈夫だ」
テーブルにこぼれてしまっただけでなく手にも火傷しそうな程の熱湯がかかったが玲菜は笑顔で返した。
余計な心労をかけさせるわけにはいかない。
手元にあったタオルを取り、平然とテーブルを拭こうとすると香里奈はまだ動転しているのか自分のハンカチでテーブルに手を伸ばすと
「あ………」
ふと、二人の指が触れ合う。女の子らしい柔らかさと暖かさを感じる肌の感触。
「……あ、ぶちょー」
互いに互いの感触につい手を止めてしまっていると香里奈が玲菜の手が赤くなっていることに気づく。
「大丈夫だ。すぐに冷やしてくるさ」
「あ……う、うん」
心から申し訳なさそうな顔をする香里奈にここは任せていいかと、タオルと手渡すと水道に向かい手を冷やす。
「……………ぶちょー、ごめんなさい」
テーブルを拭き終えた香里奈が玲菜の背中に声をそう声をかける。
「気にするなと言っているだろう。コーヒーは淹れ直す。座って待っていろ」
自分でも不思議なほどに超然的な態度を取る玲菜は自分がするという香里奈をなだめ、もう一度コーヒーを持っていく。
「今度はこぼすなよ」
と、ソファに腰掛けながら軽口を叩いてみるも香里奈の表情は暗い。
(………ふむ)
心の中で頷きながら玲菜は目の前の少女の心配をする。
香里奈は自分が悪いと思っているかもしれないが、無責任な言葉を吐いたのは自分だという自覚が玲菜にはある。そしてそれは香里奈にはわからないものだ。
「……………………香里奈」
姉の心配をする相手に余計なことを言うべきでないかもしれないと迷いはしたが玲菜はあることを香里奈に告げることを決意していた。
「さっきは無責任なことを言って済まなかった」
「そ、そんなこと……」
「私にはお前の気持ちがわかるはずなのにな」
「?」
多分それは香里奈の神経を逆なでする言葉だろう。わかるはずがない、と。
だから玲菜は誰にも告げるつもりのなかった秘密を告げることにした。
「私も、親がいないんだ。もっとも私の場合は死別ではなく………捨てられたということだがな」
「えっ………?」
信じられないという表情をする香里奈に玲菜は自分が結月に家にやってきたいきさつを話していた。
「だから、さっきの言葉がお前をむやみに傷つけてしまったとわかる。すまなかった」
「あ……………う、ん」
いきなり想像もしていなかった玲菜の過去を処理し切れていないのか香里奈は呆けた顔で頷く。
と、何かに気づいたように玲菜を見つめ返した。
「どうして……話してくれたの?」
「私だけお前の事情を知っているのはフェアでないと思ったからな」
それが玲菜にとっては理由のほとんど。いや、話す前はそれが全てだったかもしれない。
ただ話し終えた今は
「……お前には知っておいてもらいたかったのかもしれないな」
その気持ちも確かに存在していた。
「…………ありがとう」
「……?」
その言葉の意味を把握し切れなかったが、どことなく納得もしていて玲菜はあぁといながら肩を預けてくる香里奈に自分の体を預けた。
そして、再び言葉のないまま時間が経つ。
時計の針が進む音だけが鳴り響き、そろそろ一時になろうというところで
「……お姉ちゃんはね」
ポツリと香里奈がつぶやく。
「いつも優しくて、私のことだけを考えてくれてて………自分のすることよりもいつも私のことばっかりで……お姉ちゃんは全部私のためになんでもしてくれてた」
口調は穏やかで、普段の香里奈からは考えられないような表情。思い出話をしているようでもあり、どこか悲しそうである。
「本当にいつもお姉ちゃんは私のことばっかりだったんだ。それって……すごく嬉しいけど………でも…………」
話は終わっていないはずだが香里奈はそこで言葉を区切り、玲菜の服の裾を掴むと
「………帰って、来るよね」
何度も何度も問いかけた言葉を口にする。
「……あぁ」
「……うん」
何を言っても気休めにしかならない。それでも玲菜は香里奈を安心させるために頷き肩を抱き寄せる。
一時を、回る。
「…………………」
(考えてはいけないこと、だが……)
もし、万が一帰ってこないとしたら香里奈はどうなるのだろう。どうするのだろう。
この子供であり、子供でない少女を一人この家に住まわせるのか?
誰も戻ってこないこの家に一人で。
「………………」
「っ。ぶちょー?」
それはできないと強く思った瞬間、玲菜は香里奈のことを強く引き寄せその顔を見つめる。
(守ってやりたい)
この天真爛漫な少女の笑顔を失わせるわけにはいかない。
「……なぁ、香里奈?」
「な、なぁに?」
「もし……このまま帰ってこなかったら」
それは絶対に口にしてはいけないはずの言葉だったが、香里奈は激情することなく玲菜の真剣な眼差しを受け止める。
「……私が、この家に……す」
と、言葉を続けようとした瞬間。
外から聞き覚えのあるエンジン音が聞こえてきて
「あっ!!」
香里奈は心の底から安心した笑顔を見せて、玲菜はその言葉の続きを口にする機会を失っていた。