「……はぁ……」
香里奈はこの日家に帰ってきたから何度目のため息をつく。
普段は姉の邪魔にならぬように家では部屋にこもることも多いが、この日はリビングのソファで何をすることもなくクッションを抱きながらため息をついている。
その顔には憂いもあれば、どこか少女というより女を感じさせるような大人びた表情もまざり何の悩みかということが言葉を発せずともわかりそうなものだ。
「どうかしたの? 香里奈ちゃん」
ましてこの世で誰よりも香里奈を知る人物ならなおさら。
「っ!? お、お姉ちゃん! い、いつからいたの?」
「ん? さっき。ちょっと飲み物取りに来たの」
「そ、そうなんだ……」
悩みを声に出していないはずだと確認する香里奈だが、無意識に何か言ってしまったのではと不安に思っていると、茉利奈は冷蔵庫から麦茶を取り出して自分と香里奈の分をソファの前のテーブルに置いた。
「お、お仕事はいいの?」
「ちょっと休憩」
と落ち着いた様子で麦茶を口にし、香里奈もつられる。
「妹の悩みを聞いてあげるのも姉の役目だろうしね」
「っ!!?」
その想像の外から飛んできた姉らしい言葉に香里奈はつい麦茶をこぼしてしまう。
「あらあら駄目よ。香里奈ちゃん」
「あ、あの、おねえちゃ……?」
混乱する香里奈。悩みを見抜かれたことへの羞恥と、その相手が姉であることに香里奈はよくわからない後ろめたさみたいなものを感じてしまい、どうにか誤魔化せないかと思考をめぐらすが
「それで、玲菜ちゃんには御弁当渡せたの?」
先回りして言い訳を塞がれてしまった。
ボっっと羞恥の炎をが香里奈に宿る。
その反応は茉利奈の疑問を確信に変えるには十分すぎるもので
「そっか」
安堵したような落胆したような複雑な声色の息を吐く。
「………やっぱり香里奈ちゃんはあの子が好きなんだ」
そして香里奈の心内をずばり当てて見せた。
「あ………ぅ………」
妹の気持ちを予想していた姉とは違い、香里奈は自分の気持ちを知られるとは想像しておらず真っ赤になったまま意味のない声をだす。
「ま、気持ちはわからないでもないかなぁ。確かにあの子はできた子だって思うし、見た目もいかにもな感じだものね」
「ち、違うよ……ぶちょーのこと、そんな風に……」
「隠さなくてもいいよ。香里奈ちゃんが惹かれるのもわかるな。香里奈ちゃんも聞いたって思うけど、私たちと同じみたいだしね。そういうところもあの子はありがたいって思う」
「……………」
否定を無視し、玲菜のことを褒めちぎる。茉利奈の心中も単純ではないがそれが自然だという覚悟は過去からしていた。
「あの子だって、香里奈ちゃんのよく思ってくれてるんじゃない? いくらでも誘いがありそうなのにここによく来てくれてるし、案外香里奈ちゃんのこと好きなのかもしれないよ?」
一見耳触りのいいことに聞こえる。それは少なくてもすべてが間違っているとは言えないことだろうし、昨日までの香里奈なら照れながらも「そうかな」と希望を口にしたかもしれないが
「………ぶちょーは私のことなんてなんとも思ってないよ」
昼間の出来事が香里奈の心に暗い影を落とす。
茉利奈の言うとおり玲菜が香里奈を好意的に思っているのは間違いない。だが、少なくても香里奈から見たら自分が玲菜を想うように玲菜が自分を想ってくれているとは考えられなかった。
「ぶちょーは私のこと子供にしか思ってないよ。ユッキーと違って手のかかる妹って思われてるだけ」
そもそもそうでなければ、玲菜が自分に優しくする理由に説明がつかない。妹として想われているんじゃなければ、後は同情だ。
「………ふーん」
ここでも茉利奈は意味深に頷いた。
茉利奈にも香里奈の言っている意味は理解できるし、その可能性も十分にあると考えてはいる。だが、この世で誰よりも大切に想う妹を思うとそう単純には考えたくない。
いや、たとえそうだとしてもだ。このまま妹の初めての恋を散らしてしまうのはいけない気がした。
それに、と茉利奈は思う。自分の前でしか見せていない玲菜の姿を思い浮かべると玲菜が香里奈に対しただの同情や年下への庇護欲だけで接しているようにも思えず
「んー、それじゃ、そろそろ仕事に戻ろうかな。香里奈ちゃんいつでも相談には乗るからね」
「あ、う、うん。お仕事、頑張ってね。夕飯は私が作るから」
「うん、楽しみにしてる」
それじゃ、といって立ち上がった茉利奈だが忘れてた、とニヤリと笑って
「ふぇ!!!?」
香里奈の頬にキスをする。
「それじゃ、頑張ってくるね」
と、清々しい姉の顔で部屋に戻って行った。
「……………」
部屋に戻った茉利奈は仕事用のパソコンでキーボードを叩きながらも難しげな顔をして妹のこととその想い人のことを考える。
「さすがに複雑」
そう口にする言葉は今の茉利奈の気持ちを端的に表している。
(いつかはこういう時がくるかもとは思ってたけど)
香里奈は大切な妹だがいつまでも自分の手の中においておけるわけがないことはわかっていた。
小さなころからあらゆるものから守り、与えてきた。このまま一生そうしていく覚悟も自分にはある。
しかし、いつまでも籠の中の鳥にしておくことなどできない。籠の中の香里奈はもう自分の意志を持ち、自分の道を選ぶことができるほどに成長している。
そうなった今、茉利奈がしなくてはいけないのは自分のエゴで香里奈を籠の中にとじこめることではない。
鍵を開け、巣立つ妹の後押しをしてあげなくてはいけないのだ。
「……にしても、あの子を、か」
自分のすべきことを理解はしていても、その相手のことを思う茉利奈の心中は複雑だ。
久遠寺玲菜。
不思議な人間だと思っている。
同年代と比較しても度を越した美人であるが、それを鼻にかけることはないどころか必要以上に自分を卑下している。それに加え、思考回路も常人のものではなく良くも悪くも普通ではない。
だが、それ故に自分や香里奈とも合うのではと茉利奈は考えている。
親を失うという普通ではない経験をしている。同じ経験がなければ分かり合えないということはないだろうが、それでも分かり合えない何かは確実に存在する。
そういう意味では香里奈や惹かれるのも無理はないかもしれない。
実際茉利奈自身も玲菜には友情や香里奈のことに対する恩以上の感情も抱いているのだから。
(力になってあげたいな)
姉として妹の気持ちを成就させたいという気持ちは間違いなく存在している。
玲菜の香里奈への気持ちは見えない部分もある。だが、好意をいだいてもらっているのは間違いない。ならば多少強引だとしても香里奈を幸せにしてやりたいと思う。
それにこの先玲菜以上の人間なんてあらわれるだろうか。いや、考えられないと茉利奈は思う。玲菜の存在はあまりに稀有だ。
「ほんとに……いい子だもんね」
閉じた瞳の裏に玲菜を思い浮かべた茉利奈はそうつぶやく。特にこの前、自分が連絡も取れずに帰れなかったときのことは本当に感謝をしている。
「……うん、なんとかしてあげよう」
決意を口にし茉利奈はパソコンに向き直ると今は集中して仕事に戻る。
その中でふと
(香里奈ちゃんがいなくなったら私はどうなるのかしら)
などとこの十年ほど考えられもしなかったことに一瞬だけ思考を奪われながら。