「ただいまー」
美織に対する悩みを一切表に出すことのないまま二人の日々は過ぎていき、もう美織と暮らし始めてから一つの季節がめぐろうとしていた。
この日、図書館という性質上仕方のない休日出勤をして昼過ぎに返ってきた理々子。
(ん……?)
扉を開けると同時に、甘い香りがしてきて食欲をそそられながらキッチンへと向かっていった理々子はそこでその正体を知る。
「あ、理々子さん。おかえりなさい」
もうずいぶん見慣れた美織のエプロン姿。普段は少し背伸びした感じなのに子供っぽい花柄のエプロンがいつ見ても可愛らしい。
「ただいま。クッキー?」
部屋に充満する匂いと、台所に置かれた用具を見ながらそう推測する。
「うん。もうちょっとで出来るからちょっと待っててね」
「そう。じゃあ、私はお茶でも淹れるわね」
「あ、うん。ありがとう」
理々子は荷物を部屋に置くと、キッチンに戻ってきて紅茶を淹れるためカップを戸棚から取ろうとした。
(……………)
そこで手が止まる。
カップがないわけではない。というよりも、自分用で言えば二つある。
一つは大学時代から使っていた質素なグレーのカップ。もう一つは、美織が最初すんでいたときに買った月と星の対となるカップ。
手を止めている時間は長いものではなかった。
理々子は対のカップを取ると、パックの紅茶でその二つにお湯を注ぎ、いつも食事を取るテーブルへと持っていく。
(……深く考えすぎなんだってことくらい、わかってるつもりだけど)
美織のクッキーを待つためそこに座る理々子は美織に背中を向けながらクッキーとはまた別種の香りを立たせるカップを見ながら思う。
深く考えすぎだと。別に美織が来てからも昔のカップを使ったことは何度もあるし、美織だって無理にこれを使うこともなく別のを使うこともある。
それでも今あえてこれを取ってしまったのは、気持ちに気づいているからなのかもしれない。
気づいていて、気づいていないふりをして、そのくせこうやって少しだけ意識させるような行為をする。
それは美織のためというよりは、見てみぬふりをする罪悪感からなのかもしれない。
「はい。おまたせー」
そんなことを思っていた理々子だったが、エプロンを解いた美織がクッキーを運んでくると
「ありがと」
悩みなんてまるでないように笑顔になる。
「熱いから気をつけてね」
「そんな子供じゃないわよ」
言いながらさっそく一枚手に取り
「熱っ」
と、お約束のように声を上げる。
「んもー、だから言ったじゃない」
「……ちょっと受けを狙っただけよ」
「あはは、理々子さんらしくないこと言ってる」
「…………」
油断していたせいで、ここは不覚を取ってしまったが少し時間を置くと改めてクッキーをほおばった。
「ん……」
口の中に広がる、さくっとした食感に、ほどよい暖かさのおかげで甘みの増した味。それに手作りというスパイス。
「おいしい」
それが自然にそんな声を上げさせ
「ありがとう」
美織を笑顔にさせる。
「美織のお弁当もおいしくなったけど、お菓子も上手になったわよね」
「えへへ、そうかな? 自分じゃあんまりわかんないけど」
「そうよ。最初なんて結構焦がしたりとかしてたじゃない」
「あはは、そうだったね。でも、こんだけ毎日やってるんだもん。上手にもなるよ。理々子さんに喜んでもらえるの嬉しいし」
(………)
一瞬の沈黙。
「ふふ、可愛いこと言うわねこの子は。あ、でもそうだ。それはいいけどちゃんと勉強やってる? 家事は上手になったけど、大学は落ちましたなんて言ったら私は美織の両親に顔向けできないのよ?」
そして、さりげない方向転換。
「んもー、ちゃんとやってるってば。あ、そうだ」
と、美織は食べかけのクッキーをテーブルにおいて席を立ったかと思うと少し早足に自分の部屋に行って、また早足に戻ってくる。その手にはなにやら一枚の紙が握られていた。
「はい。これ、この前の模試の結果だよ」
「へぇ。どれどれ」
自分もこんな風にこんな紙切れ一枚に一喜一憂したものだと、美織の成果が現れている紙を見つめては
「へぇ。頑張ってるじゃない」
少し驚いたように感想をこぼす。
教科によって成績にばらつきはあるものの、全体としては平均をそれなりに上回っている。学校でならったわけでもなく、今回の範囲などほとんど独学のみであることを考えればたいしたものだ。
「えへへ。まぁね」
美織は得意げに言うとまた席について食べかけだったクッキーをほおばる。
その姿は満足そうで、美織が今の理々子の言葉を待っていたんだということを察した。
理々子はその姿に安堵感を感じ、いつだったか言っていた言葉を思い出す。
「よし。それじゃ、ご褒美あげよっか」
「え?」
「前に言ったでしょ。ちゃんとしてれば、見返りはあるって。これだけ頑張ってるんだもの、そのくらいは当然。なにか……」
希望ある? と聞こうとして口を閉ざす。
「何か、おいしいものでも食べに行きましょうか」
そして、そういい直す自分を複雑に思うのだった。