「私の、初めてのキスの、味」
初め何を言われたのかわからなかった。
紅茶とキス、それは本来結びつくものではないから。
(初めての、キスの……味?)
それは……つまり?
誰と?
それは、聞く必要がない。友原先輩とのキスだ。それが直観でわかる。
大好きな人とのキス。
(…………)
せつな先輩が初めてではないのはわかっていたつもりだけど、それを言葉でわからされると気持ちが沈んでしまう。
単純に考えれば、この紅茶を飲んだ後にキスをしたということかしら?
(っ!)
まして、その光景を想像してしまったら自然に顔が歪んでしまう。
私はせつな先輩の恋の結果は知っていても、その過程をすべて知っているわけではない。
初めてがいつのことかわからないけれど、もしかしてそのキスは思いを通じ合わせたキスだったのか……
思いを通じ合わせたキスだったのかもと思い、ついせつな先輩を見て
「っ………」
絶句した。
せつな先輩がしてるのは、あの顔。この世のすべての悲哀を詰め込んだ、私に恋をさせるきっかけになった表情。
そして、
「……っ……」
涙。
「せつ………」
声をかけるのすらためらわれるほど、今のせつな先輩には黒く冷たい雰囲気をまとっている。
(何か、言いなさいよ)
私がここにいるのはただ話を聞くためにいるんじゃない。せつな先輩の傷に手を伸ばし、触れ、それを癒すためにいる。
そう決意したはずでしょ。
初めてのということと涙には驚いたけどここで黙るだけならだれでもできる。けど、私はせつな先輩の恋人なんだから。
そう心で強く思った私は、せつな先輩を呼ぼうと口を開き
「………無理やり、だった」
声を発することができないままその口が閉じられなくなった。
せつな先輩の声があまりに冷たく頭に響く。それは、悲しみと懺悔と後悔にあふれている。
「……ふ、ふふ……無理やりっていうのは違うわね。そう、ね……無理やりじゃない。……はじめては無理やりじゃない。でも、涼香の気持ちを無視したのは、変わらないわ」
せつな先輩の頭にはその時の光景が鮮明に流れているのだと思う。あまりに強すぎる想いは時として、そういうことを起こさせるって私は知っているから。
私がせつな先輩との大切な時を思い出せるように。
「私は……涼香が、欲しかった。その時にはもう涼香のことが大好きで、でも……不安、だった。涼香を好きな私は、おかしいんじゃないかとか、ずっと友だちでしかいられないんじゃないかって」
それは理解はできても共感はできない感情。私はあるがままに先輩を好きだと思えたから。でもそういう気持ちを思うというのは、多分そっちの方が自然。
「そんな、時に涼香から好きっていう気持ちをもらったの」
もらった。
その表現にせつな先輩の微妙な気持ちが感じられた。言われたわけじゃない、そうとれるようなことがあって、せつな先輩はそうとったのだと。
「キスをしたあとは……もう、止められなかった…そのまま…ベッドに……押し、倒したの」
「っ……」
胸が痛む。せつな先輩の気持ちを考えようとする胸と、その事実に自分勝手な胸が。
「涼香が嫌がってるって、涼香はこんな風に私のことを好きじゃないなんて……わかってたのに……止まらなかった。ううん、止めなくなかった。欲しかったの、涼香が……欲しかった」
(痛い……)
それは、せつな先輩の言葉と涙から伝わってくる感情。……だけじゃなくて、せつな先輩が友原先輩を好きというだという気持ちが痛いほど伝わってくるから
「…………?」
でも、その続きはなかなか出てこなくて
「どう、なったんですか」
私は先を促した。聞くのも怖いし、言い淀むのはその理由があるからだろうけど、それでも私がここにいるのはそういうことをするためでもあるんだから。
「………傷つけたの」
「っ!?」
一瞬、それがどういう意味なのかわからなかった。でも、それが体ではなく心だということをすぐに察する。
「涼香は……優しいから、バカみたいに優しいから……あんなことをした私を、許して、くれた。仲直りだって……できた」
(あぁ……そうか……)
なんでこんなに胸が痛くなるのか不思議だった。好きな人の苦しんでいる姿を見ているんだから、好きな人が私以外の好きな人の話をしているんだから、痛くて当たり前だと思っていたけど、きっとそうじゃなくて……
「こんなこと、渚に言うべきじゃないってわかってる……けど……思うの、考える、のよ……」
この言葉が聞きたくなかったからだ。
「あの夜さえ、あのキスさえなかったらって」
ズキン、とはっきりと胸が痛んだ。
せつな先輩が友原先輩を好きだということは、嫌というほど知っていたはずなのに。それでも痛みに値を上げる。
「涼香へ、恋をしていた頃……いつも、思ってた。あの日さえなければって……そうだったら、もっと涼香の力になれたかもしれない。もっと、涼香のことを助けてあげられたかもしれない。もっと、涼香に積極的になれたかもしれない」
(やめて、ください)
声にできず、せつな先輩を見つめるを瞳にそう言葉を込める。
けれど、せつな先輩はすでに私のことを見てくれていない。
「……涼香を……涼香に、好きに、なってもらえたかもしれない」
「――――っ」
痛みが走る。胸を抉られるような激しい痛み。
わかってる! わかってた!
せつな先輩がどれだけ友原先輩を好きなのか、どれだけ恋に苦しんで、それでも友原先輩のことを愛してきたのか。
わかってた。
だから、私はせつな先輩が好き、なのに。
悔しい。悲しい。苦しい。
私がいるのに、今は私が恋人なのに。私が世界中で一番せつな先輩に好きと思ってもらっている恋人なのに。
(…………恋人)
………こんな、浅ましい嫉妬を思うのが恋人、なの?
ぎゅ、っとこぶしを握った。
(違うでしょ)
嫉妬をしたっていい。ううん、こんなことを言われて嫉妬をしないほうがおかしい。
けれど、違う。
私はただせつな先輩が好きなんじゃない。私はせつな先輩の恋人だ。
嫉妬してもいい。でも、嫉妬だけをするんじゃない。
せつな先輩が今はなしていること、それは誰がどう考えても私に話すべきことじゃない。思い出すだけでも痛いはずなのに。話している。話してくれている。
なら私がすべきなのは、受け止めることだ。
受け止めて、その上でせつな先輩の力になること。
今度こそ、私が何よりも、誰よりも、他の人のことなんて考えられないくらいの恋人になること。
だから逃げない。耳を塞がない、心を閉じない。
「あの日、だって………」
その日を私は知らない。それが、せつな先輩が唯一友原先輩に拒絶をされずに口づけを交わした夜のことなんてわかるはずもなく私は、その時を思い出して苦しむせつな先輩を力を込めた瞳で見つめた。
「そんな、ことを、思ってるのに……ずっと、あのキスを……無理やりしたキスを、後悔、してるのに」
(っ……)
空気が、変わった。
それまで、友原先輩を想い懺悔をしていたせつな先輩の空気が
「……っ、のに……私は、また……渚に」
自分を蔑む、もっともしてはいけないものに。
「許してもらえるなんて、思わない。……ううん、許されていいわけ、ない。でも……でも……」
言わせたくない。せつな先輩は今何か言うたびに自分を傷つけている。これ以上何かをさせれば先輩の心が壊れてしまうかもしれない。
「…………」
でも私は黙った。何を言えばいいのかわからないからだけじゃなくて、全部受け止めるって決めたから。
「……ごめん、なさい」
私の顔を見ることもできず、うつむきながらそれだけを絞り出した。
「…………………」
はっきり言って私には言葉がない。さっき偉そうに決意したけれど、それだけで何かができるほど人間は便利ではないから。
「せつな先輩……」
だからと言って何もできないなんてことはなくて、私は先輩に近寄ると膝に置いてある手を取った。
「………やめて」
こういわれると思っていた私はそれを受けても、手を離すことはない。
少し冷たく感じるせつな先輩の手、ぬくもり。離したくない。
絶対に離さない。
(せつな先輩)
やめてと言っても手を振り払ったりはせずにうつむいて色を失った表情を見せている。
(許してもらいたくないの、かも)
ふと、そんな考えが浮かんだ。このごめんなさいは確かに私に向けられたものだけど、どこか違和感も感じる。ううん、ごめんなさいだけじゃなかった。
今せつな先輩は独りの世界に閉じこもっているような気がする。私と話しながらもどこか違うところにいるような気がする。
そこは光も音も届かないようなそんな場所。
そこは好きな人をいさせちゃいけない場所。
その場所はあまりに遠く感じる。
伝えたい想いはこの胸に溢れているいてもそれは言葉にした瞬間にせつな先輩の中で変わってしまい、底のない海に沈んでいくようなせつな先輩を救う力にはなれない。そんな絶望的な確信だけを感じさせる。
何を口にしようと言葉では、
言葉、だけじゃ……
(っ……!)
あぁ……そうか
そう思った瞬間、私の中で何かがはじけた。
言葉だけじゃだめなら、それ以外のこと、それ以上のことをすればいい。
今まで私は、何でそういうことをするんだろうと思っていた。理由もわからなかったし、意味もわからなかった。
それはせつな先輩という恋人ができてからも同じ。
私には意味のわからないもので、遠いものだった。
でも、今はわかる気がする。少なくても私にとっての意味が。
「せつな先輩」
私は今までにない声でせつな先輩を呼ぶ。
「…………」
反応してもくれない。それでも、いい。
私は想いを伝えるから。
言葉じゃうまく伝えられない想いを。言葉じゃ伝えきれない想いを伝えるから。
それがきっとせつな先輩と心を重ねるための何よりの力になる。
そう、そのために。
「ん………」
私はせつな先輩と口づけを交わしていた。