キスをしなければ恋人じゃないなんてことはない。

 これまで何度も思ってきたようにそんなことは当たり前だ。

 ただ、この年にもなり、半年以上付き合っていてキスをしたこともないといえば、それは多分珍しいほうだと思う。

 周りに流されるのは好きではない、というよりもむしろ大嫌いと言っていい私だけれど、これは私だけの問題ではなくて、それが私に今までにない思考をさせていた。

「そもそも、キスって、なんなのかしら?」

 結局私にこんなことを相談できる相手など陽菜しかいるわけもなくて、以前は逃げてしまった話題をたまたま誰もいなかったお風呂で続けていた。

「何って、言われても困るけど………」

 こういう話は今までもしたことはあるし、昼間もしたけれど、さすがに陽菜には応えようもない質問に陽菜は困ったような顔をした。

「陽菜は、一応、キスしてるんでしょ。どういう感じなの? キスって」

「ど、どうって言われると、困る、けど……ん〜、どうだったかな〜?」

 陽菜は首をひねりながら、それを思いかえしているのかどこか遠くを見るような感じになる。

「大好きな友だち、だったし、全然嫌じゃなかった、かな? なんだか、思ったよりは柔らかく感じて……それと、キスしてると相手の子のこと、ぎゅってしたくなって……もっとって思っちゃう。そ、そんな感じかな」

「そ、う……」

 予想通りではあったけれど、よくわからない。

 人は本を読んだり、話を聞いたりするだけじゃ物事をわかったりはできないんだろう。経験があるからこそ、理解ができるのだ。

 今まで、陽菜に読まされた本ではキスに関していろんな表現があった。その時の心情も細かく描かれていたりもするし、まるで等身大の私を主人公にしたような話もあった。

 けれど、共感できていたのは最初だけ。結局は私の理解を越える。

 キスを、する。受け入れる。

 本を読む限りではそれは自然な流れにも思える。当たり前だ、付き合って、それで何もないのなら、付き合い始めたところで話を終わりにすればいい。恋人になって、その後に何かが、恋人でなければ起きないような何かがあるから本になるのだ。

(何か、が)

 

 私たちは私たちのペースで進んでいけばいいのよ。一歩ずつね

 

 春休みに先輩から言われた言葉が頭に響く。

 正しく聞こえる言葉。ううん、正しい言葉。

 けれど、【私たち】というのは複数を指す言葉。私と、せつな先輩のペースは違うんじゃないのかしら?

 でも、あんなことを言ったら、先輩は私に合わせるしかない。

(……先輩は、後悔してたり、しないの?)

 それが、不安になる。

 当時は本気ではあっても軽い気持ちだったかもしれない。ここまで待たされるなんて思っていなかったはず。

 でも、私は多分あの時から一歩も動けないまま、【私たち】の時間までも止めた。

 私が、子供なせいで。

「そう、よね。キスって、悪いものじゃないわよね」

 ここで、やっと陽菜のキスに対する返答に意識的な答えを返した私は、思考をせつな先輩が望まないであろう場所に向ける。

「なぎちゃん?」

 それは陽菜も気づいたのかもしれない。どこか、不安そうな陽菜の声が聞こえてきた。

「………いつまでも、子供じゃいられないし」

 そうよ。いつまでも同じじゃいられない。人は変わっていくものだし、変わらなきゃ生きていけない。

「ずっと、待たせちゃってるんだし……」

 陽菜から目がそれる。嘘をついているときは、大体こんなもの。

 いや、嘘ではない。心にある本音の一部。

 せつな先輩は本当は私よりも前にいたはずなのに。今は、私のそばにいる。いさせてしまっている。私がともに歩けることを待たせてしまっている。もう半年以上も。

 なら、歩みよるのは……恋人の役目のはず。せつな先輩にだけ私に合わせてもらうのではきっと恋人とは言えない。

 私からも、歩みよらなければ。

「なぎちゃん……」

 陽菜の言葉はすでに耳に入っていなかった。

 自分にも、せつな先輩にもどちらのためにもならない義務感に支配され私はまともではなかった。

「……ねぇ、なぎちゃん」

(……あとは、タイミングとか、場所かしら?)

 さすがにいきなりしてともいえるわけもないし。

「キス、してみない?」

「そうね」

 陽菜が何かを言っていたということだけしか理解できていなかった私は、陽菜が飛んでもないことを言っているということに答えてから気づいた。

「へ!!??」

 一瞬でお風呂中の耳目を集めるような大声を出してしまう。

「ひ、陽菜!?」

 き、キスしようと言われたような………?

「い、今、え?」

 脳の処理が遅れたとは言え、陽菜が言ってきたことを理解していた私はそれ故に理解できずに陽菜を見つめる。

「だから、キスしてみないって言ったの」

「っーーー!!」

 とても信じがたい言葉。大体どういう流れでそうなったのかまるで分らない。

「ほら、なぎちゃんってキスがどういうのかって気にしてるでしょ? だったら、いっそしてみたほうがキスに関してわかるんじゃないかなって」

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ。な、なんでそうなるのよ」

 確かに、そういった類のことは言った。だけどそれが陽菜とのキスしてみるということにはまるでつながらないはずだ。

 そう反論しようとしていた私だけれど、その前に陽菜が私の手を取りながら正面に回って

「なぎちゃんは私とキスするの嫌?」

 意地悪な言い方をしてきた。

「い、嫌とかそういうんじゃなくて!」

 多分、普段の私であれば戸惑いはしたもののあしらうことができていたはず。

 でも、今はキスに関しての自分の気持ちが揺らいでいたのと、それに付け込んだ陽菜の雰囲気にのまれて、自分を保っていなかった。

「私は、なぎちゃんとなら……いいって思うな。今私が一番好きなのはなぎちゃんだし」

「え……?」

 だから、こんな言葉にも素直に反応してしまう。

「それに、これがきっかけでなぎちゃんが朝比奈先輩とうまくいってくれたら嬉しいし」

「………ぁ、う」

 えっ、っと……

 うまく頭が働かない。

 ど、どういう意味? 

 好き? 好きって言われた? 

 も、もちろん、友だちとしてなんだろうけれど……

(でも、好きって……)

 いや、だからそれは、友だちとしてで……

「ね、なぎちゃん。駄目?」

「っ!!」

 陽菜が私の手をとって、首をかしげてきた。

「嫌だったら、言ってね」

「え……?」

 そして、私の返事も待たず、しかも非常にずるい言い方をして陽菜は私に迫ってきた。

(う、嘘!!)

 キスに関して誰も望まない方向へ考え始めたころから自分を失っていて、そこに陽菜の今までにない雰囲気に狼狽して私は何もできなかった。

 ドクンドクン。

 代わりに心臓の音だけが高く、大きくなっていく。

 まばらには人のいるお風呂。体を洗う音、湯船が揺れる振動、話し声だって、聞こえる。

 こんな、こんなの。

(っ!!)

 伸ばしてきた陽菜の体が私の体に触れる。

 反射的に目を閉じる。その瞬間、一瞬で走馬灯のように陽菜との想い出と、せつな先輩との想い出が頭を駆け巡り。

「だ、だめ!」

 私は、陽菜の肩を掴んで制していた。

「あ……」

 柔らかな陽菜の肩。こんな裸の状態でつかんだのは初めてだけど、今は沈み込む指の感触やお風呂のお湯とはまた別のぬくもりを気にしている場合ではない。

「ご、ごめんなさい。ひ、陽菜の気持ちは、そ、その嬉しい、けど……で、でも、や、やっぱり私は……」

 陽菜とキスをすることはできない。私が好きなのはせつな先輩。まだできていなくても、キスをするのはせつな先輩以外には考えられない。

 恋人ではなくとも、例えば友だち同士であろうともキスをすることもあるかもしれないけれど、私にはやっぱり考えられない。

 キスは、そんなに簡単じゃない。

 とても、大切なものだって思うから。

「うん。それで、いいと思うな」

「え?」

 今の今まで陽菜が本気であると思っていた私にとって陽菜があっさりそう言ってきたのは意外だった。それも嬉しそうな笑顔で。

「キスって大切だもん。駄目だよ簡単にするなんて」

「え? え?」

「今、なぎちゃんとキスできても私は全然嬉しくない。なぎちゃんのほんとの気持ちじゃないもん。せつな先輩だって、同じだって思うよ」

「あ………」

 やっと、陽菜の言っていること、してきたことの意味が分かった。

 陽菜は初めからキスをするつもりなんてなかったのだ。

 初めからしてはいけないことを考え始めていた私に、大切なことを気づかせるための演技だったのだ。

 自分を見失っていた。経過した時間や、周りの声にとらわれ私は私であることを忘れていた。

 さっき、キスを考え出していた私ではきっとせつな先輩はしてくれることはない。それはせつな先輩が好きになってくれた私ではない。

 私が私であること。それがせつな先輩の恋人でいることなのだから。

「陽菜」

「うん」

「……ありがと」

 私は何度でも間違いを起こしそうになった。でも、陽菜がいてくれる。私の一番近くで私を正してくれる。

 大切な、大切な親友。

 陽菜という親友に巡り合えたこと。

 それだけでも、私がここに来た意味はあるのだとそう思える。

 今までだって何度もそれを思ってきた。けれど、今ほどそれを強く思ったことはない。

 だから、

(大好きよ。陽菜)

 それは照れくさくて伝えられなかった。

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