「ん……渚?」
今日は時間通りに来たせつな先輩は私が目を閉じ、ソファに肘をつきながら首を傾けているのを見て、私の様子を察する。
「…………」
ギっとソファが沈んで、せつな先輩がそのまま私の隣に腰を下ろしたのがわかった。
「……また寝て、この子は」
目を閉じているからはっきりとはしないけれど、多分私の顔を覗き込みながらせつな先輩は少しあきれたように言った。ただ、そこには特に不満の色はない。
(……思ったよりも緊張するな……)
寝ている姿というのは基本的に人に見られるものではないし、変な顔をしてたりとかは思わないけれど、どう見られているのかというのはやはり気になる。それに、普段こんないたずらをしない私にとってはこんな寝たふりでせつな先輩をだますということにも多少の罪悪感がある。
「……また、変な本でも読んでたの?」
これは一人言じゃなくて、寝ている私に語りかける言葉。
(……別に変なではないですよ。……変わっているかもしれませんけれど)
心の中だけで会話をする私。
(……にしても、よく考えたらせつな先輩が前みたいにいたずらなんてするのかしら?)
確かにこの前はメガネを取られたりしたけれど、私が今回たまたまこんなことをしてるのと同じでせつな先輩もあの時は気の迷いみたいなものだったんじゃないかしら?
(……そうよね)
と、少し冷静になった私が目を開けようとした瞬間
「…………まったく」
不思議な響きを持つせつな先輩の声が聞こえてきた。
怒っているわけでも、呆れているわけでもない。そこにある感情はきっと私の知らないもので……この時の私にはわからなかったけれど、せつな先輩がずっと抱えていたもの。
「そんなに隙だらけな姿を見せないでよ」
(え……?)
せつな先輩が私の頬に触れた。
冷たくて気持ちのいいせつな先輩の手。それが優しく私の頬を撫でる。
(あ……あ)
触れる手は、指はとても優しく心地のいいものだった。
けれど、私の心臓は不自然なほどに高鳴っていく。
もう目を開けるべきな気がするのに、それすら今は考えられなくて何もできないまませつな先輩の行為を受け入れる。
「……渚」
私の名前を小さな声で呼ぶ。また、私の知らない声。知らない、せつな先輩の心。
(!!)
せつな先輩が私に体を寄せる。触れ合わないぎりぎりの距離。触れてはいないけれど、そこにあると確かに感じられるそんな微妙な距離。
せつな先輩にその距離を保たせていたのは、私。
それを私は悪いことだとは思っていなかった。昨日の陽菜のこともあってそう思えていた。
けれど
(っ!!)
せつな先輩の指が私の唇に触る。
心では心底驚いているはずだけれど、体はあまりの緊張のためか一切動かず動悸だけがはやっていく。
「……………」
沈黙しながらせつな先輩は唇の感触を確かめるかのようにゆっくりと指をなぞっていく。
(……ど、どうして、こんな、こと………)
一瞬でさまざまな考えが浮かぶ。その中にはおそらく先輩の気持ちを捉えたもののあるのだろうけれどそんなものは、今の状況をどうにかしてきるえるものではない。
「……ん」
右から左へと唇をなぞっていた指が左の端へとたどり着くと同時に先輩は憂いのこもったような息を吐いた。
「…………………………………………………………」
長い長い沈黙。
この時薄目でもいいから目を開け先輩の顔をみることができれば、あるいは違った反応ができたのかもしれない。
けれど、今の私はその場で固まることしかできなくて、
(!!!??)
先輩の次の行為を許してしまう。
先輩は私の頬に再び手をそえ、顔を向きなおした。先輩方向に。
(え?……え?)
不安と焦りが私の心を支配する。
「………渚。……好きよ」
そう口にする先輩の声がとても重くて、私の心にそのままのしかかった。
さっきまでは無意識に体が、動かせないだけだったけれど、今は意識的に動かせない。先輩が迫ってくるのがわかったのに、わかったから、動けない。
(う、嘘……)
片手を頬に添えたまま、空いた手で私の体を支えて、先輩が近づいてくる。
ドクンドクンドクン。
(嘘、嘘……嘘)
わかる。わかっちゃう。先輩が近づいてくるのが、先輩の顔が私の顔に近づいてくるのが。
ドクンドクンドクンドクンドクン。
触れ合っていなくても聞こえるんじゃないかっていうほどに、心臓の音が早く、大きい。それに、顔が熱い、赤くもなっているかもしれない。
でも、もう自分からは動けるはずはなくて。
「っ」
掴まれている手に力が込められる。
「……………」
添えられていた手が顎に回って、唇が上向けられる。
わかる。
近づいて、来るのが。
先輩が、目の前にいるのが。
わかる。
先輩が何をしようとしているのか。
わかって、しまう。
(……………………………?)
なぜか泣きそうな気分になっていた私は、来るはずであろうその感触が訪れないことに気づく。
目の前に来てから、数秒いや、少なくても十数秒はたったはずなのに、予想したことは一向に訪れない。
(…………………?)
それが何を意味するか分からない私は、恐る恐る薄目をして
(っ!!!)
その表情に愕然とする。
憂いをこもった表情。泣きそうでもあって、笑っているようでもある。そして、何より苦しそうだった。
「………………だめよ。こんなの」
自分言い聞かせるような言い方。
「……ふふ」
自嘲気味な笑いをこぼし先輩は立ち上がって、そのままその場から離れて行った。
その足音が遠くなっていくとようやく私は目を開けることができた。
しかし、私の目に映るのは目の前のものではなくて、見ていないはずの光景。
(……キス……しようとしてた)
見えていないはずのその光景。
それがいつまでも頭を離れなかった。