(あ………)

 思考が停止した。

 名乗り出ようとすら思っていたのに、せつな先輩に覗きを指摘されたことに私の頭は爆弾でも爆発したかのようにまっさな野原になってしまった。

(ばれてた……ばれてた!)

 嘘……、嘘、嘘!

 こ、こんなの……

 先ほど考えてしまった嫌な想像が空っぽの頭の中に入ってくる。

(……ぁ……う……)

 その嫌なものにおぼれてしまいそうなほどの感覚。

「渚」

 せつな先輩の手がそこから引き揚げてくれた。

「………っ」

「別に、怒ってるわけじゃないわ。ただ確認したかっただけ」

 そう言って、素敵な笑みを浮かべるせつな先輩。それは私の心にすくった暗いものではある。これほどに追い詰められていなかれば。

「まぁ、感心はしないけれど」

「ぅ……」

 すかさずに意地悪なフォロー。これも気遣いなのかもしれない。今はそのほうがいい。全面的に怒ってないといわれるよりは。

「それで、どこまでっていうより、何、聞いた?」

 この時、私はこんな罪悪感やら羞恥心なんかで心がいっぱいじゃなければ、もしかしたらせつな先輩の笑顔の裏にある気持ちに気づけたのかもしれない。でも、今の私は自分のことだけで精いっぱいでそんなことに気づけない。

(……もう、隠してもしょうがないのよね)

「その……聞いて、いいですか?」

「聞いてるのは、こっちだけど、いいわよ」

「友原先輩のせいじゃないって、なんのことですか?」

 色々聞きたいことはあった。直接には、もうちょっと……って言っていたことも気になる。けれど、なんとなくこちらのほうがせつな先輩の心に近いような気がした。

「……そう。そこを聞いてたの」

「はい……すみま、せん」

「だから、怒ってはないわよ。でも、……そう」

(? あ、あれ……?)

 確かに怒っているという雰囲気ではない。でも、何か深い感情が眠っている気がする。さっきの笑顔の時とは違ってそれには気づけたけれど、次のせつな先輩の言葉にその追求をやめてしまった。

「渚が気にすることじゃないわ」

「え?」

 何かを秘めている表情から一変し、せつな先輩は余裕のある表情に変わった。たまにある私じゃ届かない高いところにいる感じ。

 それがあまりに前の表情とは違い、また数瞬前の表情からこんな顔になるなんて予想外で、私は一瞬思考を止め、本来考えなければならないことから目を背けてしまった。

「で、でも……っ」

 食い下がろうとした私の頭をせつな先輩が撫でた。

「ほんと、そんなに気にすることじゃないのよ。大したことじゃないの」

 優しい笑顔。その裏には別の感情がある。

 これ以上聞かないでと、そう言っている気がした。

 恋人の、私に。

「そ、そうは思えません。あの時、先輩は……全然そんな顔してなかった。色々って、なんですか?」

 こんなこと、本当は聞くべきじゃないのかもしれない。 

 でも……

(先輩は……キスを、しようとしてた)

 そのことが、昼間のせつな先輩の切なそうな顔に結びついて。

「……先輩は、私に……何か言いたいことが……不満、があるんじゃないんですか?」

 絶対に言いたくなかったことを、答えを聞くのすら恐ろしいことを聞くしかなかった。

「そんなことないわよ」

(っ……)

 けれど、せつな先輩は即答する。

「ふふ、また何か考えすぎてるわよ」

 優しく……悔しいほどに優しく私の頭を撫で、曇りがあるようには見えない笑顔をする。

「私は、貴女が大好きなのよ。渚といるだけで、毎日こんなに楽しいんだから。毎日こんなに笑えてるんだから。渚に不満なんてあるわけないでしょう。まったく、こういうところも渚は可愛いけど、気にしすぎよ」

 多分、ごまかされていたって思う。今までなら、違和感は感じたかもしれないけれど、そんなことよりもこうして言ってもらえることのほうが嬉しくて、

(でも……でも、………でも!)

 もう知ってる。

 せつな先輩は私とキスしたがっているって。今の私以上を求めているって。

 なのに、こんなことを言う。

 思わず、目をそらしてしまう。お湯の中でぎゅっと体を抱えてしまう。悔しくて、情けなくて。

(……やっぱり、私は、先輩に【子供】だって思われてるんだ……)

 せつな先輩の隠している何かはわからなくても、それだけはわかってしまった。わかっていて信じないようにしていたのに……思い知らされてしまった。

「ほらほら、渚。ムスっとしてないで笑いなさいよ。可愛い顔が台無しよ?」

 私が望むような言葉を吐きながらせつな先輩はまた私の頭を撫でる。子供扱いをするように。

「…………やめて、ください」

「え?」

「やめてと、言ったんです」

 触れられることは嫌いじゃなかった。ううん、むしろ好きって言ってもよかった。恥ずかしいけれど、大好きなせつな先輩の熱を、ぬくもりを、肌を感じるのは好きだった。手をつなぐのも頭を撫でられるのも、ほっぺに触れられるのも、全部本当は大好きだった。

 でも、今は……心の嫌な部分を触られているような気にしかなれなかった。

「……私、そんなに子供ですか?」

 せつな先輩の手をはねのけ、うつむいたまま体を正面に向ける。

 湖面を見つめたまま私は、ずっと見ないようにしていたものを、見ていたけれど見ないふりをしていたものに、ようやく手を伸ばす。

 せつな先輩がそれによって何を思うかも知らずに。

「私、子供ですよ。……体だって、こんなだし、これまでだって、恋人がするようなことはほとんど考えられてこなかった。……今だって、先輩のことは大好きでも、そういうことは考えられない」

「渚……」

 せつな先輩は私と同じように苦しそうな顔をしていることを私は気づかない。

「でも、私は、先輩の恋人なんですよ? もっと、私のこと、信じて、ください。……子供じゃない。私は、先輩の恋人……なんです」

「……わかって……」

「ない。ないですよ……全然わかってない」

 違う、わかってないのは私の方なのに。先輩のことをわかってないのは、私のほうなのに。

 信じられてないわけじゃないってわかってる。恋人だって思われてるってわかってる。

 けれど、今はそんなことよりも先輩が本当の気持ちを私に隠していることと、あと数か月で先輩との【別れ】が来るということが私のことを追い詰めていた。

「……私、知ってるんですよ」

 追い詰めていた。

「……先輩が寝ている私に、キスしようとしてたのを」

 それが、せつな先輩の傷をえぐることなんてこと想像もつくはずはなかった。

「っ………」

 

 

 その時、せつな先輩の心が一瞬だけ透けて見えた。

 それは、私が見てこなかったもの。

 きっと隠していたわけじゃない。でも、見せてこなかった。

 私が子供で、そんなことは理解しようとしても届かなくて……それに比べてせつな先輩はいつも大人で、私はずっとそれに甘えていたから。

 せつな先輩がいくつもの心の傷を抱えているなんていうことに気づけなかった。

 

 

「……そう」

 せつな先輩の心が見えたのは一瞬。すぐに先輩は小さくつぶやいた。

「…………………」

「…………………それだけ、なんですか?」

 その後の言葉が続かないことに、戸惑いや焦りを覚えながら私は恐る恐るそういった。

「………ごめんなさい」

 それはこの状況ではおかしくない言葉。

 でも、私の欲しい言葉じゃなかった。

「っ!」

 頭の中が真っ赤になった。それだけじゃなく体中がお風呂を蒸発させちゃうんじゃないかってくらいに熱くなる。

「そういう、ことじゃない、って……わかってますよね。そんなんが欲しいんじゃない。私は、なぜそうしたかを……」

「渚」

 今にふさわしくない、落ち着いた湖面のような静かな声に名前を呼ばれる。

 その落ち着いた声が逆に私の感情を逆なでする。

「先輩!」

 泣きそうな声で、すがるように先輩を呼ぶ。

 違う。そういうことじゃない。謝ってほしいんじゃない。答えてほしい。キスをしようとしてた理由。内緒でそれをしようとしてた理由を。

 だって、それを隠すっていうことは。

「子供だからですか? そういうこと、何にも知らないからですか? それとも……私の、ことを……」

 つづけられなかった。

 何を言えばいいのかわからなかったし、ううん、わかっていたのかもしれないけれど、言えなかった。言いたくなかった。

 信じてくれてないのかって。

 それは飛躍しすぎだってわかってる。直接キスしていいかと問われるのがおかしいともわかる。でも、そういうことじゃなくて、言葉にまとまらないけど隠されるのは……そういうことに思っちゃう!

 まして

「……この話は、終わりにしましょう」

 こんなことを言われたら。

「っ! せんぱっ!!?」

 悔しさに視界をゆがませながらも、せつな先輩を見つめた私は言葉を失った。

「お願い、だから」

 これまで、ううん付き合いだしてからは一度の見せたことのない弱気な顔をしていたから。

 まるで……そう、まるで、友原先輩を想っていた時のような表情をしていたから。

「……先、上がるわね」

 それは、私がようやくたどり着いたせつな先輩の最後の傷だった。

 

 

4/十話

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