あの事に気づいてしまってから希との時間はどこかおかしくなっていった。
これまで絶え間なく続いていたはずの会話に不自然な間ができたり、うまくかみ合わなかったり。
手を繋いでも、腕を組んでも、口づけを交わしても。どこかずれているような感覚になってしまったり。
それどころか体を重ねていても、心が重なっていないと思ってしまう。
それは希の一挙手一投足、一言一句にあのことを考えてしまうから。
勝手な想像だけれど、希は……少なくてもあの事を軽くは考えていないのだと思う。それは希と七年間一緒に過ごしてきた私が確信を持って言えること。
いえ、きっと希は本気ではあるのだと思う。実行するかどうかはともかくとしても、それを望んでいる希は確かに存在している。
(……私は、希の恋人なのに)
いえ、恋人だから? 本当に好きな人だから、それを考えるのだろうし……それが一つの愛なんだとは私も考えないでもないわ。
私だって、まったく考えなかったということじゃない。二人の将来を悲観することだってあったし、それならいっそと……と考えたことがないわけじゃないわ。
でも、本気じゃない。私の場合は全然本気なんかじゃないのよ。少し気が弱っているときに魔が差したようなそんな程度の、覚悟もないもない思いつきでしかなかった。
(……希は……)
本気、かもしれない。
その可能性を知ってから希を見てみると希の言葉、行動の裏にその影を感じる。
(本気だったら?)
希が本気で私にそれを求めてきたら?
そのことを考えると、どう応えればいいかっていうことよりもまず無力感に襲われる。
希は私の一番大切な相手で、私は希の一番大切な相手。
出会ってから七年、恋人になって四年経つというのに、希の描く未来に希望を持たせることができなかったということだから。
それはもう罪って言ってしまえるようなことに思える。
……………どうすればいいのかしら?
答えが見えない。希にそれを思いとどまらせる言葉が見つからなくて考えれば考えるほど落ち込んでしまうばかり。
本気かどうかなんて希から直接聞いたわけじゃないしけれど、でも私はいつのまにか本気だと決めつけ、同時に力のない自分に自信を失っていった。
そして、その時が訪れる。
デート、せえへん?
希の秘密を知ってからしばらく。
答えを出せずに自分の無力感を日々膨らませて行ったある日のこと。
希はそれを提案してきた。それは何も特別なことじゃなくて、恋人として当たり前のデートの誘い。
私は何も考えずにうなづいてしまって、希とのデートを過ごした。
いつものように待ち合わせをして、いつものように街を歩いて、映画を見て、ウィンドウショッピングをして、高校の頃から通っている喫茶店でパフェを食べて。
そんなありふれたデートの果て。
希は行きたいところがあると口にした。
そこは私たち二人、いいえ、九人にとって特別な場所。
私たちだけの特別な場所。
私たち九人の一つの終わりの場所。
そこは、μ'sの解散を決めたあの海。
誘われた時、心臓が跳ねた。
もしかしてという不安が形になった気がしたから。
「……………」
電車に揺られながらその場所を目指す間、二人の間に会話はない。
ただ、繋いだ手を握り締め互いに体を預け合いながら窓から見える海を眺めていた。
「写真、とってこ?」
駅について、希が言ってきた。
駅舎の隣にある証明写真。恋人同士が並んで取るものではないけど、これも私たちだけには意味のあることに思えた。
狭い個室に二人で入ると、それだけで当時のこと、そしてこれからのことを思って瞳の奥が熱くなった。
「じゃあ、撮るわね」
「うん」
画面に映る私たちは笑ってはいる。けれど、自然ではなくぎこちなさの残る笑顔。そのまま撮影のボタンを押すと
ちゅ。
その瞬間、希は頬にキスをされた。
「希!?」
驚きながら希を見つめると希は「ええやろ? このくらい」といたずらっぽく笑って見せた。どこか寂しそうな笑顔で。
「お、中々よくとれとるなぁ」
出てきた写真を眺めながら希はやっぱりシニカルに笑っている。
その姿に胸が締め付けられる。
「……それじゃ、いこか」
何ともなさ気にそういう希に私は「えぇ」と小さく頷いてあの海へと向かっていった。
海岸に辿り着くと、誰もいない砂浜に座って海を眺める。
「あれから四年も経ってるのに海は変わらんね」
「……そうね」
打ち寄せる波の音。夕陽に染まる海。
世界に私たちだけしかいないようなそんな錯覚をくれる景色。
(……本当にそうだったらいいのに)
この世界にいるのが希と私だけだったら、きっと悩んだりする必要はなかった。
「今日はありがとうな、付き合ってくれて」
「……なに言ってるのよ。このくらい当たり前でしょ? 恋人なんだから」
「……せやね」
希の笑みはどこかぎこちないままで、多分それは私も一緒。
「…………なぁ、えりち。うち、今すごく幸せなんよ」
しばらく二人で海を眺めた後、希はそう口にする。
「っ………」
幸せ。その言葉が言葉通りには響かない。
私は言葉を返す代わりに希を見つめ言葉を失う。
幸せとは程遠い顔。それどころかこの世の悲哀を詰め込んだような切ない表情をしている。
「出会った時からえりちに惹かれて、いつの間にか好きになってて…こうやって恋人になれた。四年間一緒に過ごせた。本当に幸せだった」
(……だった)
「これからだって、な……えりちと一緒にいられるって思うと…すごく、嬉しいんよ? 大学で四年間、えりちと一緒に色んな事をして、全部楽しかった。嬉しかった。えりちと一緒ならどんなことでも輝いてた。これからだってそうなんだって思っとる」
希望を言葉にしているはず。輝いた未来を見つめているはず。それでも希の言葉は私の心を不安にさせる。
「けど、な……うち、は……弱いんよ。えりちが一緒なら、えりちと一緒にさえいられればそれでいいって思っとるはずなのに……怖いんよ」
希の声が震えだす。一人で抱きしめていた痛みが溢れだしていく。
「これからが、怖いの。……やっぱり、うちらは……普通じゃない。どれだけ愛し合っても【家族】にはなれない。付き合ってるってことすらまともに言えない。そんな曖昧な関係でしかないんよ」
希の言っている意味は痛いほどにわかってしまう。
私たちは、不安定だ。
お互いの気持ちなんて関係なく、周りがそうさせる。
明確に関係を保障するものもなく、お互いの気持ちだけで繋がっている関係。それだけでも十分なはずだけど……たまに無性に不安が湧き上がってくるのも本当。不安定なまま生きていくことへの漠然とした不安が。
「いつか、それに耐えられなくなるかもしれない。……そう、思っちゃった。いつか、耐えられなくなって……うちがえりちを……えりちが、うちを好きじゃなくなっちゃう時が来るかもしれない」
そんなことはない。
私が希を好きでなくなるなんてあり得るはずがない。
心の底からそう思っている。
本当に、思ってるの。
私は一生希のことを愛して見せるって。
そう声を大にして言わなきゃいけないのに。
「の……」
実際には声が出なかった。希が涙を流していたから。
「そんなん、考えすぎだってことくらいわかっとるんよ? ありえないって、わかっとる。で、も……絶対の、自信が、ないんよ……もしかしたらって……思っちゃう」
「っ」
希が震える手で私の手を掴んだ。これ以上ないほどに動揺の証左を手に感じてしまう。
「……それってな、すごく……すごく怖いことなの。えりちがうちを、うちがえりちを好きじゃなくなる。……そんなんは、それ、だけは……耐えられない。絶対に、嫌なの」
(希……)
「だから、だから……な……」
今まで正面を向いていた希が私に顔を向けた。
とめどなく涙を流し、自分の選択を心から嘲笑しているようなそんな絶望的な表情。
「一緒に……」
そして、私は私の想像が現実だったことを知る。
「死んで」