出会った時から姫乃は玲菜にあこがれを抱いていたが、それは好意とはまた別の感情だった。

 好きに変わったのは小学校六年の冬。

 人生で初めて大きな問題にぶつかったときだ。

「あ、あの……?」

 姫乃は困惑していた。

「ふむ。久しぶりに来たが変わらないものだな。まぁ、当たり前か」

 当然だ。ありえない人物とありえない場所で会っているのだから。

 ここは結月と姫乃が通う小学校の教室でいくら卒業生とはいえ部外者が入っていい場所ではない。

「れ、玲菜さん? どうしてここに」

「ん? あぁ、君のことを校門で待っていたのだがなかなか来なかったのでな。探しに来たんだ。クラスは聞いていたしな」

 言いながら玲菜は教室の中を見回す。普通であればそれは懐かしさを感じさせる所作だろうが、玲菜にとってはほとんど初めて感じるもので珍しさの方が勝る。

「わ、私に、会いに来たんですか?」

「ふむ。そうだが」

「え…あ……」

 姫乃は混乱する。

 玲菜との付き合いも一年以上たち、友人と呼べるような関係にはなったつもりだ。

 だが、結月の家以外で会ったことも数えるほどしかなければ、結月のいない場所で二人きりになるなど初めてのことだ。

 それにこの時すでに玲菜が結月のこと以外に興味がないのはわかっていて、そんな玲菜がわざわざ小学校にまで自分に会いに来るなど信じられないことだった。

「何か君が悩んでいるようだったからな」

「えっ……」

 しかも、誰にも告げていなかった心の内を突かれてさらに驚く。

「昨日、結月のところに来ただろう。その時、ずっと結月に何かを言いたそうだったのが気になってな」

「き、気づいてたんですか」

 玲菜の言うとおりだった。今姫乃にはこれまでの人生の中で一番の悩みがあり、それを本当は結月に相談しようと思っていた。

 だが、できなかった。それは玲菜が同じ部屋にいたからとか、結月を信用できないとかそういう理由でなく姫乃に話す勇気がなかったから。

 そして、話しても仕方ないというあきらめがあったから。

「あぁ、結月にはいいづらそうだったからな。私などで力になれるかはわからんが、話を聞くくらいはできると思ってな」

(……ちゃんと私のこと見ててくれたんだ)

 まずはそれを意外に思った。

 姫乃から見て玲菜は結月にしか興味がないように思えた。その玲菜がわざわざ自分のことを心配してくれる。それは嬉しいことだったし

「なんなら私が結月に話してもいいが」

(それに……)

 時には、渦中の相手でないからこそ話したいこともある。

「玲菜さんに聞いてもらっても、いいですか」

 そう思って姫乃は玲菜に切り出すことにした。

「私でよければな」

 玲菜はそう言いながら姫乃のもとへと寄っていって不安そうにする姫乃を見つめる。

「………今、親とケンカしてるんです」

 話し出すことに若干の躊躇はあったものの話すと決めた姫乃はあっさりそれを告げた。

「…………ふむ」

 姫乃の悩みがどういうものかということに予測を付けていなかった玲菜はその答えにまずは頷くしかできなかった。

「………それは、難儀な話だな」

 どう答えていいのか見当もつかない玲菜はそんなあたりさわりのないことしか言えない。

「私、親からはずっと中学受験するようにって言われてたんです。それでこの前、その受験があったんですけど」

「合格できなかったのか?」

 話の流れからするにこうしたかとかと考えた玲菜だったが、姫乃は乾いた表情で首を振った。

「……受けなかった。ううん、さぼっちゃったんです」

「それは、あまり感心できないことだな」

「あはは、ですよね。まして、受験料払って、そこに行けって期待してた親からしたらほんと許せないことなんでしょうね」

 姫乃は切なげに笑った。その表情が今、姫乃がどれだけ傷ついているかを物語っているような気がして玲菜は

「……ふぁ」

 姫乃の頭を優しく撫でた。

「君が理由もなしにそんなことをする人間でないのはわかる。自分を卑下する必要はない」

 玲菜の慰めは状況からしてもおかしくはないし、的も射ている。玲菜にしては合格点の言葉。

 だが、姫乃の反応は芳しくなかった。

「……理由にもよりますよ」

 神妙な面持ちでそれを言うと玲菜の手を外す。

「……聞かせてもらおう」

「………多分、笑うって思いますよ。呆れますよ」

「笑わないし、呆れもしないよ。君にとってはそんなに単純なことではないのだろう」

「……玲菜さんて、ほんと変わってますね」

 あっさりとはばかれるようなことを口にする。

 かっこよくもあり、かっこ悪くもあり、不遜さがまさに玲菜らしかった。

「……嫌、だったんです。新しい学校に行くの」

「ふむ」

「レベルは高くて不安だし……結構遠いし、なんだか受験一筋になっちゃいそうだし。…………………誰も友だちもいないし」

 長い沈黙を経て最後に口にした言葉。その表情は沈み、寂しさとせつなさに支配されている。

 誰が見ても、最初言っていた部分が言い訳で、知り合いのいない場所で一人になってしまうことを不安がっているのがわかる。

「……結月とだって離れちゃう」

 そして、最後に付け加えた一言に玲菜は来たかいがあったと確信する。

「だから、逃げたのか?」

「……………はい。受かっちゃったら行かなきゃいけなくなっちゃう。でも、初めから受けなければって」

「なるほどな」

「悪いことだっていうのはわかってましたよ。期待されてるのはわかっていたし、そのために今まで塾とかだって通ってた。いっぱいお金も時間もかかったんだろうし、頑張らなきゃいけないって思ってたのに。試験の当日には怖くなっちゃった」

「……………」

 玲菜はこのことに対して何を言えばいいかわからなかった。もともと玲菜にあるのは本での知識のみだ。人づきあいはほとんどと言っていいほどなく、これまで人の悩みを聞いたことなどない。

 だから、玲菜には何を言うべきで何を言わないべきなのかはわからず姫乃の背景も想像するしかない。

「試験に行ってないってばれて、お母さんはなんでって聞いてきた。どうしてって。当たり前ですよね。普通そんなことで逃げたりなんてしないもん」

 勝手に想像をする。

 姫乃は本当はずっと行きたくないと言いたかったんじゃないかと。それを言い出せず、親の期待に応えようと励みつぶれてしまったのではないかと。

「君は、ご両親に気持ちを話したのか?」

 いや、話してはいないのだろう。それができていれば今頃こんなことにはなっていないはずだ。

「言えるわけないですよ。こんな自分勝手な理由なんて」

 そう考えてしまうのは自然なことなのかもしれない。姫乃はまだ小学六年生で、なにより【いい子】だったのだろうから。

「………………………………………」

 ここで玲菜は何を言うべきかわからなくなって押し黙る。

 いや、正確には言うべき言葉がないのではなく、言っていいのかという逡巡。それと、親に対してこれまでも、これからもそんなことを言いあう機会のない自分が言うことにどれだけの意味があるのだろうという自己否定に玲菜は悩み。

「理由は関係ないだろう」

 前に進むことに決めた。

「君は友人たちと離れるということに理由にするのが不適切と考えているようだが、私はそうは思わない。君には君の意志がある。ご両親の期待に応えることは大切なことかもしれないが、必ずしなければならないことではない」

「あ……」

「君にとっては、結月をはじめ友人と離れることは耐え難いことだったのだろう。なら、君はそれを言葉にしていいのだと思う。進学した先でしかできない勉強も、経験も、友人もあるのかもしれないが、今ある人間関係を大切にすることも決して間違ってないと考えるよ」

 玲菜はおおよそ中学一年らしくないことを言い、だからと続けた。

「君に非があるとすれば、そのことを話さなかったことだ」

「っ」

 玲菜の核心をつく一言に姫乃は胸が締め付けられるような気がした。

 子供心にも玲菜が言っていることが正しいのはわかる。

 本当は嫌だと言いたくて、けれど言い出せなかった。しかし、だからといって突然逃げてしまうなど本当に子どものすることだ。

「話すべき相手がいるのであれば、きちんと話すべきだよ。……したくてもそれができない人間だって世の中にはいるのだからな」

 言っていることはもはや教師に等しいが、内容もさることながら自分の尊敬している相手が自分を心配していってくれるということが姫乃は嬉しかった。

「そう、ですね」

 姫乃は深く頷いた。

 受験をさぼってしまった時からずっと逃げていた。何故と問い続ける母親に、言えるわけがないと目を背け、余計に向き合えなくなって自分がとても【悪い子】になってしまったようで苦しかった。

 結月に話を聞いてもらいたいと思っても、結月と離れたくないから別の中学に行かなかったなど、結月にも負担をかけてしまいそうで話せず、その間も両親との距離は開いていき日々の不安は大きくなる一方だった。

 そして、いずれは話さなければいけないのもわかっていた。

 だから玲菜がしてくれたことはその時期を早めてくれただけにすぎないのかもしれない。

「……私、話してみます。お母さんと」

「うん。そうするといい」

 それでも、しなければいけないことと向き合わせてくれた玲菜は特別な相手に思えた。それは少女にありがちな憧れと恋心を一緒くたにした本当の恋とはいえないものだったのかもしれない。

 しかし、この時初めて玲菜に対しただの憧れ以上の感情を抱き、それは姫乃の中で複雑に育っていくことになった。  

 

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