天音の母親と会ったのは劇場の外だった。
てっきり、楽屋でも見られるものなのだろうかと考えていた玲菜ではあったが現実はそう甘くないらしい。
が、良く考えれば当たり前でもあった。いくら娘が訪ねてきたとはいえ部外者をそのようなところに入れるはずもない。
天音の母親は娘に似て、小柄な女性だった。また、童顔で天音と並ぶと姉妹とは言いすぎだろうが、母娘というほど離れているようには見えない。
「初めましてぇ、いつも天音がお世話になっております」
天音の母親は玲菜を見るなり、深々と頭をさげそう言う。
「いえ、こちらこそ天音、さんには助けられています」
娘の先輩相手にそこまでのことをされるとは思わなかった玲菜だが、どうにか普通のことを返した。
「この子、迷惑かけてませんか? 少し我の強いところがある子なので、何かしてしまっているんじゃないかと心配で」
「そ、そんなことするわけないでしょ」
親が自分のことを語るというのは思春期の娘には耐え難いことで天音は普段はあまり見せない焦った様子を見せる。
「そんなこと言ったって、中学の時も時も色々あったんでしょう? それに、昔からあんまり友だちもできないし。まったく」
「それは………」
天音の表情が明らかに曇る。ただ、気まずいことを言われたからではなくそこに若干の母親に対し負の感情を見え隠れする。
「いえ、天音さんには本当に助けられています。練習方法や、周りの者たちへの指導も的確ですし。彼女いないことなんて考えられませんよ」
「せ、先輩………」
「そうですかぁ。ありがとうございます」
それを聞くと天音の母親は安心したようにまた深く頭を下げた。
玲菜は天音を深く知らないが、友人が多くないというのは事実であり親としてはそれを心配しないわけがないだろう。
だが、玲菜の言葉に嘘がないことを見て親として安心するのは自然なことだった。
その後も基本的に天音を差し置き、まるで家庭訪問の母と教師のような会話をしていき、天音はほとんど口をはさめず照れたり、気まずくなったりもしたが、憧れである人に褒められ嬉しくないはずはなかった。
しばらくすると、開演が近づき、天音の母親は最後に娘をよろしくお願いしますとまた最初に会ったときのように深々と礼をして去って行った。
「よい母上だな」
玲菜たちもその場を後にし、指定席に向かいながら天音にそんな感想を伝える。
「そう、ですね。わ、悪くはないと思いますよ」
天音は実のところ母親を尊敬し、憧れてもいるがそれを玲菜の前でいえるほど大人ではなく、また思春期の娘としてはそんな正の感情だけを持っているわけでもない。
だから、天音は照れ隠しも含め、
「玲菜せ……」
玲菜先輩のお母さんはどんな人なんですか? と聞こうとして口を閉ざす。
事情は分からないが、今現在玲菜は母親と暮らしてはいない。気にしすぎなのかもしれないが、それでも聞いていいことなのかはわからない。
「普段はあんなですけど、舞台に上がると全然違うんですよ」
と、代わりに誇らしげに母親のことを自慢する。
(いつか、話してくれるのかな?)
そんな願望を胸に抱きながら。
昨今、こうした舞台やコンサートなどテレビなどでよく中継される上、インターネットなどでも生中継で配信がされたりもする。
しかし、それらは本物でありながら本物ではない。
有名な美術館などに人が絶えないように、目で見て、音を聞き、空気を感じる。
そうして初めて、本物に触れたと言える。
玲菜はそのことを漠然とは感じていたが、改めてそのことを思い知った。
内容自体は、さまざまな媒体で触れられるような有名なもので玲菜も概要は知っていたが、その迫力と衝撃は予想以上のものだった。
「改めてだが、本当に想像以上のものだったよ」
劇場を出た二人は、近くの喫茶店に入り舞台の感想を話し合っていた。
玲菜は結月と話すときですら、基本受け身で自分から話すことの少ない玲菜だったが、この時は積極的に天音に対し言葉を発する。
それは、結月ですら見たことのない玲菜の姿。
「君の母上もすごかったな。こういってはなんだが話した時からすれば考えられないものだった」
玲菜の目に天音の母親はおっとりとして見えていたし、そもそもあまり年上のようにすら感じていなかった。
しかし、舞台の上ではまさに豹変という言葉がふさわしく凛々しさを感じるほどであった。
まさしくプロという言葉がふさわしい。
「お母さんのは、私も毎回びっくりしちゃいますねー。家だと最初玲菜先輩と話した時みたいなんですけど。まぁ、結構家にいないことも多いですけどね」
最初誇らしげに、のちに少し寂しそうに天音は続けた。
「ふむ、そうなのか?」
「えぇ。地方とか行ったりすることもあるし、海外だって行ったこともあるんですよ」
「そうか、それは……寂しいのだろうな」
「あ、いえおばあちゃんがいますからそうでもないですけど。今はもう慣れちゃったし」
玲菜は単純ならざる気持ちで言ったが、それを自分だけへの意味にとった天音は多少強がりは入っているものの、本音を答える。
「そうか。強いのだな、天音は」
「全然そんなことないですよ。まだまだです。いろんなことが」
「それは、誰しもがそうだよ」
「かもですねー」
このように幾度か話題がそれてしまうことはあったものの、二人は大半の時間を舞台の感想に費やしていった。
それは楽しい時間ではあったが時が経つのは早い、というかそもそもかなりの遠出であることもあって、玲菜たちは喫茶店を出ると寄り道もせずまっすぐ帰りの電車へと乗り込んでいった。
最寄りの駅に着くとすでに夕陽が照られており、玲菜はそのまま別れようと考えていたがその前に一つだけ言わなければならないことがあったのを思い出す。
「天音。私は一つ君に謝らなければならないことがある」
それはいつか言おうと思いつつもきっかけのつかめなかったもの。
「え? な、なんですかいきなり」
「こういう言い方は悪いとわかっているが、私は君を軽く見ていた。実力は初めに見せてはもらったが、結月たちへの指導や、こうして今日誘ってくれたことも含め、ここまで熱心になってくれるとは思っていなかったよ。だから、すまない」
玲菜は天音を深く見つめながら頭を下げた。
「そ、そんな謝らないでください」
「いや、これはけじめだ。すまなかった」
「………はい」
自分が初め軽く見られていたというのは天音自身気づいていた。嘘をつきなれている天音は嘘に対して敏感に反応できたから。
それに、自らそういう風に振る舞ったということもある。指導自体は手を抜くつもりはなかったが、それ以外ではあえて軽くみられるようにしていた。
そうした方が天音は生きやすかったから。
「じゃあ、私はお礼を言わなきゃですね」
頷いた天音に玲菜が顔をあげると、天音は嬉しそうに言った。
「どういうことだ?」
「私、やっぱり演劇が好きですから、それが玲菜先輩にわかってもらえたのが嬉しいです。だから、ありがとうございます」
認めてもらうこと、人間にとってそれは嬉しいことというよりも生きる上で必要なことだ。ましてそれが、憧れた相手となればなおさら。
「……ふ、む? それはよくわからないが、君が喜んでくれるのなら私も嬉しいよ」
そう言って、玲菜は微笑を作った。
「いいんです、それでも」
通じずともそれが玲菜らしさなのだと天音はこの一か月という短な期間でしっている。それもまた天音にとっては魅力的でもあるのだから。
「とにかく、これからもよろしく頼むよ。天音」
「は、はい!」
美しい微笑みとともに発せられたその一言だけを聞くだけでも、今日勇気をだして誘ってよかったと心から思う天音だった。