心を開いた天音は軽く嘆息すると、校舎の壁に軽く背中を預けて空を見上げた。

 その瞳は目に映っているものを見ているのではなく、過去を見ている。それもこれまで自分があると知っていながら目をそむけたものを。

「……………」

 玲菜にはその気持ちがわかるような気がして、目を細めて話を切り出そうとする天音を待った。

(もっとも私でなくとも、か)

 誰であっても、他人に見せたくないものはある。目を背けたい過去も、隠したい気持ちも。

 それを打ち明けることができるというのは、すごく勇気のいることで。

 ……幸せなことだろう。

「私って上手なんですよ。他の人と比べても、多分圧倒的に」

「そうだな」

 あえて傲慢にいったその言葉に玲菜は即座にうなづいた。

 もはや否定する気など起きないことだ。玲菜は初めて天音が来た日から思っていたし、結月も天音のことはすごいと言っているのを聞いたこともある。直接聞いたことはないが、姫乃や香里奈、洋子もそう思っているだろう。

「小学校のころはまだよかったんです。ただ、みんなからすごいすごいって言われて、ほんと子供だった。ちやほやされるのが嬉しかった。私はすごいんだって」

 口調は懐かしむかのようだが、天音の表情は暗い。

 その時の自分を本当に子どもに思っている。そして、そんな自分に呆れているようなそんな顔。

「でも、中学にもなるとそうじゃなかった。周りの見る目が違ってました。今思えば当たり前にも思えますよ。一年の時から先輩から役とっちゃったりとかしたし、自分ができるっていう自覚もあったし、もっと高いレベルでとかも考えてたから色々口出ししたりとかしてましたから」

 天音は自分を責めるように言っているが実際は違うだろう。役を取ったという云々はともかく、天音が口出しをしたというのは決して、周りをバカにするような意図はないはずだ。そんなこと普段の天音を見ていればわかる。

 できると思っているから、もっと上の段階に進めると思ったからこそ口を出した、アドバイスをした。

 だが、それが天音の意図通りに受け止められることはまずありえない。

 自分と同じことをしていて、自分よりできる人間が目の前にいる。年下で、しかも圧倒的な差を持って。それを甘受するなんてことはほとんどの人間にはできないだろう。羨望よりも嫉妬をかってしまうのは悲しいことに自然なことだ。

「そんなことをしてたら、いつの間にか孤立してました。嫌がらせされてたとかじゃないけど、避けてましたよ。みんな。同級生とか、だって。まぁ、一緒にいれば目をつけられたでしょうからそれも、今思えば当たり前なんでしょうけど」

 これは玲菜の想像になるが、たとえ孤立をしても天音は自分を曲げなかったのだろう。おそらく意地も手伝って、嫌われる自分、嫌われても平気な自分を演じていたのだ。

「この前みたいに陰口だっていっぱい聞きました。親がプロだからとか、才能がある人は楽できていいとか、うまいのをいいことに人の努力を笑ってるとか。ほんと、勝手なことを言われましたよ」

 本当はつらいのに、それを隠して何ともないふりをした。

 それがどれだけつらいことなのか玲菜にはわかって天音に対し憐情と慈しみの混じった瞳を向ける。

「そりゃあ、私の親はプロだし、才能だってあるってあるかもしれません。それに、アドバイスとか練習だって的確だし、恵まれてるのは否定できないです。……まぁ、私が親を選んだわけじゃないからそれに文句言われてもどうしろっていうんだかって話ですけど」

「……子供は、親を選ぶことはできないからな」

自分がどんな親の元に生まれてくるかなど、子供の立場からすれば運でしかない。自分では絶対にどうしようもない。

「ほんとその通りですよね。私は上手なのは【恵まれた】からなんでしょうけど、でも私は今を【タダ】で手に入れたんじゃないんですよ」

 天音はまた過去に思いを巡らし、そのいつも愛らしい瞳をにじませる。

「玲菜先輩は想像できないかもしれないですけど、あれで結構厳しいんですよ。うちの両親」

「……ふむ」

 それは確かに想像できないことだった。父親のことは知らないが、少なくても母親の方はとても厳しいというイメージからは程遠かった。

 だが、家族に見せる顔は別というのはいくらでもあり得る話だ。

「小さいころから練習漬けで、小学校の時にはもう家に帰るとすぐ練習。他のことで遊んだりとか、テレビを見たりとかそんな当たり前のこともなくて友だちだってあんまりできなかった。そんな風に犠牲にしたものはいっぱいあったけど、誰もそんなところは見てくれないし、気づいてくれもしない。……才能があるからとかそんな言葉で片付けられちゃう。……私が頑張ってきたことなんて、つらいって思ってることなんて、誰も、わかってくれない。見ようともしてくれないんですよ。誰も……」

 天音は中空を見つめたまま、悔しそうに、悲しそうに偽りのない姿をさらしていた。

「……だから、もう嫌だったんです。また同じような思いをするなんて、嫌だったから……あそこにはいたくなかったんですよ。あは、笑っちゃうくらい情けないですよね」

 それは天音がこれまで隠してきた想い。その演技力の仮面の裏で天音はずっとその仮面が本当の天音だと思う相手と付き合ってきたのだろう。

「わかっているよ」

「っ………」

 これは簡単に言っていいことではないのかもしれない。

 しかし、玲菜はためらうことなく本心を伝えた。

「軽々しく言うべきことではないだろうが、君が才能の上に胡坐をかいているなどとは私は思わない。君が誰よりも真剣に演劇に打ち込んでいることはわかっているつもりだ。練習に対するひたむきさや、他の者への指導が厳しいのも君が真面目に演劇と向き合っている証だろう。それは、わかるものにはわかるものだよ。わからないのなら、それは見る者の目が曇っているだけだ。私は人の心には疎いかもしれないが、君が母上に憧れていることもわかるし、誰よりも演劇を好きだということくらいわかるさ」

「っ……」

 それまで玲菜を見ることのなかった天音が驚いたように玲菜を見つめた。

 自分では気づいていなかったのかもしれないが、天音はまるで演劇のせいで自分が苦しんできたかのような言い方をした。

 それもまた本心ではあったのかもしれないが、天音の心にある本当の気持ちは今玲菜が、人の心に疎いといった玲菜が口にしたことだ。

 それを玲菜に指摘されたこと、指摘してもらったことが天音の心に情熱の火を灯すことになる。

「君のことをわかろうともしない者たちになど言わせておけばいいさ。少なくても私……いや、私たちは君のことを見ているつもりだ。周りの声がつらいのなら、こうして気持ちを吐き出してくれればいい。それを受け止めるくらい私にもできるからな」

「玲菜、先輩……」

「あまり一人で気を張るな。つらかったらつらいと言え。演劇というのは一人でするものではないだろう。助けあうもののはずだ。だから……っ」

 玲菜は途中で口をつぐんだ。

 それから、涙をいっぱいにためる天音の頭に軽く手をのせ

「泣きたかったら、泣いてもいい」

 言いながら軽く頭を撫でた。

「ふぇ……うえぇえ……ひく……うえぇえん」

 それをきっかけに天音は大粒の涙を流し始める。

「うあぁあ……、れな、せんぱ、い……あぁあ……うぁああん」

 清々しさすら感じるその泣き声が聞きながら玲菜は優しく天音のことを撫で続けた。

 いつか、涙を止めた天音が玲菜の体を抱きしめるまで。

 

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