「……………」

 誰もが言葉を失いながらもその場所への視線を外すことができない。

 玲菜の白魚のような美しい肌に刻まれるおぞましい痕。手首に残る痕。その部分だけ肌は変色し、赤黒いかさぶたが走っている。

 これがどんな傷でどういうものか誰もがわかる。

 言葉にしてしまえば自傷行為、リストカットと呼ばれるもの。

 誰にもさらそうとしなかった肌に残る痛々しい傷。

「………見ないで、くれ」

 それを見られた玲菜は泣き出してしまいそうなほど弱々しい声を上げ、手首を返すともう片方の手で抑える。

「いや、見なかったことにしてほしい」

 玲菜の懇願。

 常にクールで表情を崩すことすらほとんどなかった玲菜が迷子のように不安を表に出しながら、心の底から願っている。

 見なかったことにしてくれ、と。

 この傷のことに触れないでくれ、と。

「……………」

 姫乃も、天音も、洋子も唐突に起きた衝撃を処理しきれず、言葉を発することができない。

「………………」

 玲菜もまたこれ以上何を言えばいいのかわからず悔しさのようなものを抱えながら口を一文字に結ぶ。

 またしばらくの間沈黙が流れる。

 それに耐えられなかったのは、玲菜のほうで

「……すまないが今日はもう帰らせてもらうよ」

 そういうと素早く荷物をまとめて立ち上がる。

「れな、さん」

「玲菜先輩……」

「久遠寺さん」

 三人はそれぞれ玲菜を呼ぶが、誰もそれ以上は言葉を続けることができずに三人の間を通り過ぎる玲菜を目で追いかけることしかできない。

 パタン。

 扉が閉まる音と足早に玲菜が去っていく音。

 玲菜がそこにいなくなったことがわかっても、誰も玲菜のことに触れられなかった。

 各々思うことは異なりながらも、今は自分の中ですらそれを整理しきれずに口を閉ざすしかなかった。

 

 

「そういえば玲菜ちゃん結局用事ってなんだったの?」

 夜になって玲菜は結月にいつも通りベッドで膝枕をする。

「いや、大したことではないよ。欲しい本の発売日かと思ったのだが、勘違いしてしまってな」

 平然と嘘をつく玲菜。

 そこに見られてしまったときの動揺は欠片も見つからず、普段の玲菜がそこにいた。

「ふーん? 玲菜ちゃんがそんな勘違いするなんて珍しいね」

「私だって人間だ。勘違いすることくらいあるだろう」

「ま、そうだね」

「そういうことだ」

 玲菜は言いながら結月の頭を軽く撫でる。それも二人にとってはなんら特別なことはない行為。ただし、そうする手は常に左手だ。手首に傷のある右手は結月の視界の外に置いている。

「あ、そういえば、今日はなんかみんな変だったんだよねー」

「っ」

 その一言にわずかな動揺を見せる。その理由は考えるまでもないから。

「姫乃たちが、か?」

「うん。なんかみんな上の空だったっていうか、玲菜ちゃんがいなくなってからは全然練習にならなかったんだよねー」

「それは……感心しないな」

 言葉を選びながら、玲菜はひとまず安心していた。

(今のところは誰も結月に聞かなかったらしいな)

 考えてみればそれはそれほど不思議なことではないかもしれないが、とりあえずはよかったと言えることだ。

 もっとも結月に聞かなかったということが玲菜の見なかったことにしろということを受け入れられたことにはならないが。

(……………)

 そのことに思考を移すと玲菜は表情に出さずに心を沈めた。必然的に明日以降のことを考えざるを得なかったから。

「あれ? 玲菜ちゃん?」

 落ち込む玲菜は結月を膝の上からどかす。

「今日はそろそろ休ませてもらうよ」

「えー、まだ十時だよー?」

「実は少し寒気がしていてな。早めに休もうと思っていたのだ」

「え!? そうなの? 大丈夫」

 結月が本気で心配そうな顔をする。

「あぁ。大したことはない。念のためというだけだ」

 その姿に心が痛んだものの、玲菜は嘘を続ける。

「そうなんだ。もうー早く言ってくれればよかったのにー」

「すまんな。本当に大したことはないと思うのだ」

(……体のほうはな)

 表面では普段と変わらぬ顔をしながら心でそう毒づく。

 玲菜は自分から結月に出ていけということはめったにない。自分には結月に何かを要求する資格はないと考えているから。

 だが、今はそれを曲げてでも結月にここからいなくなってほしかった。

 一人になりたかった。

「ん。わかったー。じゃあ、ちゃんと寝るんだよ」

「うむ」

 心にはざわつきと……昂揚。

 それを感じながら玲菜は結月を見送ると、ベッドから降りて机の前へ歩いていく。そして、机の二段目の引き出しを開ける。

 そこには文房具と、クリアファイル。

 それだけしかないように見える。だが、

「んっ」

 玲菜は引出の奥に手を入れ、指に力を込めると二重底になっている上の底が持ち上がりそこに、

 刃渡り十五センチほどのナイフがあった。

「……………」

 玲菜はそれを無言で取ると蓋を外して銀色に光る刃を露出させる。

「……ふふ」

 自嘲気味な笑い。

(見られたくせに、しようとするのだな)

「いや、バレたからこそ、か?」

 自分の思考がまとまっていないことを感じる。

 いくら玲菜と言えど自分がしていることが異常なことだと知っている。してはいけないことなのだとわかっている。結月や結月の両親に対しての裏切りであることも。

 その自覚を持ってしても

「っ………」

 玲菜はこれを止められない。

 肌に刃を押し当てる。

 冷たい感触と背筋を震わす独特の感覚。これからの痛みへの恐怖。

「ふ、はは……」

 興奮している。背徳の快感に心が高ぶっている。いけないことだとわかっているからこそ、その自分に玲菜は酔う。

「はぁ…は、ぁ」

 荒い息。

 普段ならこのままするのだが今日は玲菜の頭に三人のことがよぎる。

(……信じられない、という顔だったな)

 それが通常の感覚なのだろう。

(私がこんなことをしているとは誰も思っていなったということか)

 それも当たり前。毎日会っている人間が陰でリストカットをしているなど普通は想像できない。そんなことをしている人間が、当たり前のように学校へ行き、部活動を行い、友人たちと笑う。

 そんな普通のことをするとは思えないだろう。

(……経験のない人間にはな)

 自分で自分の手首を切る。それは確かに異常な行為。

 だが、だからといってそんなことをしている人間が日常生活を送れないかと言えばそんなことはない。

 こうしてしてしまうことがあっても、それ以外の時間は普通でいられるのだ。

 もっとも玲菜自身もそんなことができてしまう自分をおかしく思っているのだが。

「……見なかったことにしてくれ、か」

 一度押し当てたナイフを外してそのことを思い返す。

 この傷のことに触れられたくない。同情も憐れみも心配も欲していない。願うのはそっとして欲しいということだけ。

 あの三人には何もできないのだから。

 見ているものが違う。

 生きてきた世界が違う。

 故に何も期待しない。できない。

 あの三人にできるのは、的外れな同情だけ。

(……そういうことじゃないんだよ)

 見なかったことにしろと言ったが、それが意味を持たないことは玲菜自身が一番わかっている。明日学校に行けば、あの三人はなんらかの反応をする。

 怒るかもしれない。悲しむかもしれない。憐れむかもしれない。

 そして誰もが、玲菜の気持ちなど無視してやめろと言うだろう。

 その無責任さがどれだけ玲菜の心を傷つけるかも考えずに。

「ふふ……はは……あはははは」

 唐突に玲菜は狂気的に笑った。

(無駄なんだよ。……何もできないだろう)

 だから望まない。期待しない。考え方そのものが違うのだから。

 玲菜はナイフを再び手首に押し当てる。

 そして、力を込めながら素早く引いた。

「っ!」

 するどい痛み。

 ついで

「ふ……は……」

 笑いと一緒に零れる、赤い液体。

 手首から溢れた血がポタポタと床へと落ちていく。

「は、はは……はは」

 どうしても玲菜は笑ってしまう。その理由は自分でもわかっていない。何が玲菜を笑わせているのか、何に笑っているのか。

「……っ、はは」

 手首からは変わらず血が流れていく。それを見ているといつも瞳の奥が熱くなる。

 泣きそうになる。

 だが、実際には泣くことはほとんどない。そうしてしまったら自分の中で何かが崩れて涙が止まらなくなってしまいそうだから。

「……ふ」

 しばらくすると笑いの質が変わる。蔑むように自分を笑っている。それは心が落ち着いてきた証拠。

 溢れる血も数分と経たずに止まることを玲菜は経験で知っており、それとともに高ぶっていた感情もおさまってきた。

 後は後始末をして眠りにつく。

(……それもおかしく見えるのだろうな)

 誰にも見せるわけはないが、おそらくリストカットをしておいてそんなことを平然とするのは異常だと思うのが一般的な考えだ。

 だが、これも経験しなければわからないだろうがもともと死のうとしているわけではなく、傷も痕こそ残りはするがそんなに深い訳ではない。

 心の高揚は長くは続かず、冷静に戻れてしまえば普通になれる。

(それこそが異常なのかもしれないがな)

 自分の感情すら整理はできず、あの三人にばれてしまったという事件があった日ですら同じように始末をつけ、同じようにベッドへと倒れ込んだ。

「………………」

 体中を襲う倦怠感の中玲菜は

(…………何を……しているんだ………私は)

 悔しそうにそれを思って無力感と絶望感を抱いたままいつしか眠りに落ちて行った。

 

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