(……最初は姫乃、か)

 結月と別れ教室に向かっていた玲菜は教室の前にいる姫乃を見て諦観したように心でつぶやいた。

 姫乃は上級生ばかりの中、周りに奇異の目で見られながらもその場から動こうとせず、足取りを重くした玲菜が近づいてきたのに気づくと、

「玲菜さん」

 重い口調で玲菜を呼んだ。

(……まぁ、仕方ないだろう)

「君が何を言いたいのかはわかっている」

 昨日見なかったことにしろとは言ったが、それがいかに受け入れがたいことかは玲菜自身わかっている。

 だから、三人で来るにせよ一人でくるにせよもう一度はこのことについて話さなければならないのは覚悟していた。

 そういう意味では姫乃が一人で来たというのはありがたいことかもしれない。

「……とりあえず、場所を変えるか」

 玲菜はそう言ってきた道を引き返していく。

 姫乃は一秒でも早く話をしたいのだろうが、まさか教室の前で話す気もなくおとなしくついていった。

(……想定通りではあるが………)

 一度は話をしなければならないのも、その最初の相手が姫乃だということも予想していたことだ。

 他の二人がどうするかなどはわからないが、姫乃は絶対にくると思っていた。

 何せ姫乃は小学生のころからの付き合いだ。姫乃自身に思うところがあって当然だろう。いつからしていたのか、なぜそれに気づけなかったのか。どんな理由から自傷行為などしているのか。

 心配する気持ちはわかるし、その気持ちが嬉しくないとは言わない。

 だが、話をできるかどうかはまるで別問題なのだ。

「……玲菜さん」

 学年の教室のない階段の踊り場で玲菜が足を止めると、すかさず姫乃は玲菜を呼んだ。

 この後に続く言葉は簡単に想像できるが

「君は昨日何も見なかった。そうではないのか?」

 玲菜は姫乃を遮ると同時に釘をさす。話すつもりはないと。

 玲菜は初めからそのつもりだった。場所を変えたのは何かのはずみに周りに聞かれないためでしかない。

「で、でも………」

 その一言に玲菜の本気を感じ取る姫乃ではあるが、姫乃としてはそれを受け入れるわけにはいかずに食い下がる。

「はっきり言わせてもらおう。君が昨日のことを無視できないという気持ちはわかる。というよりも当然だろう。だがこれも言わせてもらうが、それは不要な心配だ。……迷惑と言ってもいい」

「っ………」

 迷惑。

 普通、人が心配をしているところにそんなことを言われれば不愉快になる。何様だと言ってもいい。

 だが、姫乃はそんなことは思わなかった。

 怒りを覚えるより早く戸惑いを覚えてしまったから。

 それは普通の反応だろう。触れられたくない傷を抱えていないものにとっては。しかし、もし玲菜と同じような傷を抱えるものであるのなら、迷惑という言葉もそれほどおかしくは感じないだろう。

 姫乃にはそれがない。言いたくない傷はあっても言えない傷はないのだから。

「私は自分勝手なことを言っているのはわかっているよ。だが、この話はもう終わりにしてくれ」

「……そんな……」

 嫌だとはっきり言いたい姫乃であるが、その続きを言うことができなかった。ほんの一分前の自分ならば言えていたはずの言葉。その覚悟も勇気も一瞬のうちに揺らがされてしまっていた。

「そんな、こと……できま……」

 それでも食い下がろうとした姫乃だが、

「もし、この話を続けようとするのなら私はもうここに来なくなるだけだ」

 玲菜の静かながらも確固たる意志を持つ声に黙るしかなかった。

「………すまないな」

 踵を返し去っていく玲菜を追いかけることもできず、姫乃は玲菜の傷が自分の想像以上に深いことと、もう一つ

(……結月)

 常に玲菜の隣にいる相手のことを思わずにはいられなかった。

 

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