「………………………」

 一か月、経ってしまった。

 玲菜の行為を目撃してから一か月。

 もう玲菜と何日話していないかわからない。

 話していないどころではない。ほとんど顔を合わせることすらない。

 目があうと玲菜は冷たい顔をして顔をそらすだけ。部屋を訪れても出て行けとは言わないが、まるで結月がそこにいないかのように振る舞う。

 それでも行為をしていなければ多少は結月の心も軽くなったかもしれないがそれもない。玲菜の手首には相変わらずむごい傷が走っている。普段は隠れていても注意深く見ていればそれくらいはわかってしまう。

「………………もう、やだ」

 部屋のベッドにうつ伏せになる結月は泣きそうな顔でそうつぶやいた。

 日付の変わる少し前、寝る前の時間。玲菜がしているところを目撃した時間。

 この一か月ほとんど玲菜の部屋を訪れていた時間。

 その時間になっても結月はベッドから動けずにいた。

(玲菜ちゃん………)

 玲菜に会いに行きたいとは思う。いや、会いに行かなければならない。

 もしかしたら今にも自分を傷つけているかもしれない。だからそんなことをさせないために玲菜に会いに行かなければいけない。玲菜を止めに行かなければならない。

 心からそう思っているはず。

(…………でも)

 体はベッドに貼り付けになったままだ。

 この一か月、毎日のように玲菜に会いに行き、話してくれと願ってきた。だが、玲菜は最初の約束を反故にして以来心を閉ざしたままで、その壁に何度も跳ね返されるうちに結月の心はどんどん擦り減っていった。

 玲菜と話すのが怖い。話してくれないことが怖い。玲菜と疎遠になっていくことを自覚しているのが怖い。

(……玲菜ちゃん、私のこと……嫌いになっちゃったのかな………?)

 自分が悪いことをしているつもりなんてなかった。いや、玲菜のためにしていると思い込んでいた。

 だが結果はこう。

 もはや玲菜は結月を見るだけで顔をそらし、まるで存在そのものを鬱陶しがっているようにすら結月からは思えてしまう。

 玲菜がそんなことを思えるはずはない。その確信すら揺らいでしまうほどこの一か月は結月にとって苦痛だった。

(………けど)

 結月は逆接の接続詞を続ける。

 まるで鉛のように感じる重苦しい体をベッドから起こしてふらふらと部屋を出ていく。

 本当にもうつらいと思っている。

 これ以上傷つきたくない。

 痛いのは嫌だ。

 玲菜に会いに行ったってどうせ話してくれない。

 苦しみが増すだけ。

 何もできずに部屋に逃げ帰って泣きたくなるだけ。

 それはもう、確信のように思っているけど。

 結月は玲菜の部屋の前にたどり着いていた。

 コンコンと軽くノックをしてから、返事を待たずにドアを開けた。

(今日こそは……今日こそは、話をしなきゃ……)

 すでに折れかけている心で結月だが、それでも部屋に入っていく。

 が

「……………」

 玲菜はすでにベッドにいて、結月を一瞥したにも関わらず電気を消した。

「あ…………」

 それに呆然とした声を上げる。

(目があった、のに………)

 まるで無視をされた。

 いるのに、いないようにされた。

 玲菜に拒絶されているのはわかっていたつもりだけど……

(あ………だめ、……だめ)

 心が揺れている。

 玲菜に拒絶されるたびに少しずつ削れていった心がその最後の何かを越えようとしている。

 玲菜に見てもらえない、玲菜と話せない。

 玲菜の世界から消えていく。

 ずっと一緒だったのに。ずっと一緒だと思っていたのに。

(……そんなの………)

「……………………やだ」

 掠れた声で結月はそうつぶやいてふらふらとベッドに向かって行った。

(やだ……やだよ)

 玲菜と話せなくなるなんて嫌。玲菜と疎遠になるなんて嫌。玲菜と笑い合ったりできないなんて嫌。

 そう、たとえ

「玲菜ちゃん……ごめん、なさい」

 玲菜が誤った道を進むことを止められなくとも。

「ごめんなさい……ごめんなさい。もう……もう聞かないから」

 ベッドの前に跪いて、結月は許しを乞う。

「だから、私のこと……嫌いにならないでぇ。私とお話して……私のことみてよぉ……」

 ぼろぼろと大粒の涙を流しながら、涙に濡れた声で結月は玲菜に懇願する。

 本来それは結月がすることではない。完全に白か黒かということではないが、少なくても人として結月は間違ったことをしてなどいなかったはずだ。

 しかし今玲菜の前に膝を屈し、人として正しい道よりも自分が傷つかないために玲菜に許しを求めている。

 それもまた間違いではないはずだが………

「お願い………お願い、玲菜ちゃん……私のこと……ふ、ぁ………」

 一度崩れてしまった心の堤防は押し寄せる感情を抑えることができずにいたが、玲菜の行為がそれを止める。

「………嫌いになど、なるわけがないだろう」

 頬に手を添え溢れる涙をぬぐい一か月ぶりに暖かな言葉をかける玲菜。

「れな、ちゃん」

 結月はその手に自分の手を添え、叱られた子供が母親に許された時のような怯えと期待を込めて玲菜を呼んだ。

「……………私の方こそすまない」

 思えば、ここが最後の機会だったのかもしれない。

 今二人にわずかな勇気があれば、心と心を触れ合わせることができたかもしれない。

 しかし、この時玲菜の顔は暗闇に隠れてその切なげな表情をみることはできなかったし、そもそも結月はすでに限界で頭にあるのは玲菜とこれまで通りになりたいと願うことだけだった。

「許して、くれるの………?」

 だから結月にはもう自分のための言葉しか吐けない。

「………許すも何もない」

 謝らなければならないのは本来玲菜の方なのだから。

「…………私はお前を愛しているんだからな」

 代わりに玲菜はあまりにも安っぽい愛という言葉で誤魔化して結月を抱きしめた。

「玲菜ちゃん……………ひく……ひっく」

 結月はすでに限界だった。こんなことをしたいはずじゃなかったのに、こんなことにすがるしかなくて玲菜の胸に飛び込んで押し殺したように涙を流す。

「………今日は部屋に戻らなくていい」

 玲菜はそんな結月を抱きつつも、自分のしていることのみじめさに泣きそうになりながら今の結月が欲しい言葉を投げかける。

「………………うん」

 そして、結月は本当の自分が何を望んでいるかも忘れてそう答えるしかなかった。

 これが過ちに続いていくとわからないはずはなかったのに。

 

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