「…………」
仕事帰り、いつもならその日良いことがあろうとなかろうと帰りつけば、明るくただいまーといえていたのにこの日、理々子は無言で帰ってきていた。
「…………」
しかも、理々子の顔は明らかに悩みを抱えたものであり、この日何かがあったことを物語っていた。
普段なら理々子のただいまという声におかえりと駆けつけてくる美織も理々子が返ってきたことにすら気づかず、理々子がぼーっとしたままリビングにやってくるとようやくその存在に気づく。
「あれ? 理々子さん、おかえりなさい」
「…………」
「? 理々子さん?」
「え? あっ、た、ただいま。美織」
一度目では反応できず、二回目でようやく反応できた理々子はそれからも着替えもせずソファに腰を下ろした。
美織は、理々子の様子がおかしいことに気づきはしたものの、夕飯の途中であったことと、自分とは違う社会人という立場では色々あるのかな程度で自分のことを考えられているということに気づきもせずに夕飯の支度を再開していた。
(……美織……)
理々子は自分の買ってあげたエプロンをつけ楽しそうに夕飯の支度をする美織を見つめていた。
美織。
本名すらわからない、家出をしてきた少女。
家出をするというのは少なからず家庭に思うところがあるはずだ。美織にそうしたものがあるのは今まで一緒に暮らしてきて、察しているつもりだ。
敵意、ではないだろうが少なくとも美織は家族を嫌っているようだったし、美織は自分も家族に好かれていないと思っているようなところは感じられる。
しかし、往々にして子供と親の気持ちはすれ違うものだろうし、実際に好かれている、嫌われているなんていうのはわからないものだ。
そして、家族の中に一人でも本気で美織を思ってくれている相手がいるのなら……美織の帰る場所はやはり家なのだろう。
それは、昼休みも終わろうとしていたときだった。
今日は朝にもらった美織からのお弁当を幸せそうに食べ、休み時間ぎりぎりまで中庭でぼーっとしていた理々子はやけに周りをきょろきょろとしている少女を見かけた。
最初は友達でも探しているのかとも考えたが、なんとなく目で追っているとその少女の持っている必死さのようなものを感じて声をかけた。
「何か、さがしもの?」
「え?」
その少女は美織よりもいくつか年下の印象で、外見は美織と全然似ていないのにどこか雰囲気に似たようなものを感じさせる少女だった。
その少女はいきなり話しかけられたことに驚いているようで少し困った顔をしている。
「あ、私ここの職員なの。探し物だったら聞くわよ?」
「あ、本さがしてるわけじゃ……」
「? じゃあ、友達? はぐれたりでもしたの?」
「えっと、そうじゃ、なくて」
「?」
理々子は首をかしげる。図書館で探すものなんて、他には思いつかない。
「あの、この人、知りませんか?」
「?」
おずおずと少女が差し出してきたもの、一枚の写真を受け取った理々子は
「っ……!!??」
声をあげずに驚愕する。
(美織!?)
その少女から渡された写真に写っているのはセーラー服に身を包んだ、今より少しだけ幼い美織の姿だった。
「あの? どうかしました?」
まさか今目の前にいる相手と一緒に暮らしているなど想像もできない少女は素直に首をかしげる。
「あっ……と、この子が、どうか、したの?」
もはや美織の関係者であることは明白だが、理々子はそれを表に出さずこの少女が何者かというところに焦点を当てた。
「お姉ちゃん、なんです。今、その……家出、してて……友達がここで似た人を見たって聞いたから、それで……」
「そう……」
写真の美織を見つめたまま、理々子は少女と視線を交わそうとはしなかった。
(美織の、妹……)
そう思ってはやはり外見はそれほど似た印象は持たないが、嘘ということはありえないだろう。
ここで知っているというのは簡単だったが。
「……ごめんなさい。見たことは、ない、かな」
反射的に理々子はそう返答をしていた。
「……そう、ですか」
少女はすでになれてしまっているのかそれほど落胆したようには見えなかったが、それでも沈んでいるのは見てわかるほどだ。
(っ、なんで私……)
一方理々子は自分の行為に驚いていた。いや、信じられなかった。
考えればここで美織のことを告げない理由はある。
なんといっても美織は今家出中なのだ。そして、美織は帰りたがってはいないし、なにより家族に対しよい感情を持っていないようにすら見える。だから、今の時点でこの少女に今一緒に住んでるから連れて帰ってなどと言えるはずもなかった。
だが、問題なのはそれを考える以前に知らないと応えてしまったことだ。
「あの、どうかしたんですか?」
少女は知らないといわれた後もまだ立ち去ろうとはせず、急に黙ってしまった理々子の顔を覗き込んでいた。
(……美織の、妹……なのよ、ね)
もう一度確認するように少女を見返すがやはりあまりそういう実感はわかない。
「……よかったら、名前と連絡先聞いてもいい?」
「え?」
「その……ほんとにこの子がここに来たりするなら、また来るかもしれないし。家出、してるんだったら、私がこの子にあなたのこと話してもダメかもしれないでしょ。だから……」
いいながら、無茶なことをしていると思った。
いくら職員だと名乗っているとはいえ、見ず知らずの相手に名前まではともかく連絡先までは
「……はい」
と理々子は考えていたが、目の前の美織の妹と思われる少女はわずかに逡巡があったもののすんなりと頷いた。
「高嶺 茜って言います。連絡先って携帯のでいいですか」
「あ、うん。何でもいい、けど」
理々子の言葉を受け茜はポケットから携帯を取り出して開こうとする仕草に理々子はあえて口を開いた。
「私から聞いておいてなんだけど、いいの?」
「何がですか?」
「見ず知らずの相手に連絡先なんて教えちゃって」
「えっと……なんとなく、おねーさんならいいかなって」
「……そう」
その理由までははっきりとは聞かなかった。
もしかしたら見透かされているのかもと思いながらアドレスを交換した理々子は、もう少し図書館のなかを探すと言っていた少女と別れ、職場へと戻っていった。
午後の仕事を開始した理々子は心ここにあらずで、その思考のほとんどを先ほどの少女のことに奪われていた。
悩んでいるわけではない。答えはすでに出ている。
美織に妹のことを話す。それは理々子の中ですでに決まっていることだ。
それは美織の仮の保護者として、【姉】として、同居人として義務といっていいものだ。妹が探しに来ているから帰れなどとは言わないが、話すべきではある。美織のためにも茜のためにも。
理々子がこの時考えていたのは、自分が思いのほか美織がいなくなるかもしれないということにショックを受けていることだった。
(そりゃあ、美織はいい子よ)
言われたとおり家事もしてくれるし、友達のような妹のような関係で日々に充足感をもたらしてくれた。それに毎日お弁当まで作ってくれて、望んでいたこと以上をしてもらっている。
それにこの前美織との約束を破ってしまったときなど、美織の純真な気持ちに胸を打たれたし……自分があまりに浅はかだったと恥じた。
これは理々子の勝手な考えかもしれないが、家出をするということは自分の中に理想とする家族があるのだと思う。それに憧れを抱いているのだと思う。自分が、理々子にとってそういう存在かはわからないが、そうだとしたらそれを裏切ってしまったのだ。
なのに美織はそれを怒るどころか心配してくれた。手付かずの料理を見れば、美織がどんな気持ちで待っていたか想像に難くない。なのに美織は自分より理々子ことを考えてくれた。
仮に美織が家族のところに帰るという以外のことで出て行くなどといえば間違いなく理々子は引き止めるだろう。
(それは……美織だからなの……?)
美織がいなくなるのは嫌だ。だが、それは美織だからなのだろうか。少し前までは美織でなくてもよいと思っていた。美織である必要はないと思っていた。
だが、いざ美織のいなくなる生活を想像してしまうと、急に心細くなった。
美織の役目をする人なんて美織以外には存在しないし、これから先美織以外に現れるとも思えない。
美織じゃなくてもいいのかなどという疑問は考えても仕方のないことだ。ただ、少なくても今の理々子にとって美織は失いたくない存在であることは間違いなかった。
その気持ちをあの少女の姉を心配する気持ちと天秤にかけてしまう。
自分がそんな浅ましい人間なのかと理々子は落ち込みながらも時間だけは確実に過ぎていってしまった。