「電気もつけないで何してるの?」

 そういって部屋には言ってきた理々子はまず電気をつける。それから無言のまま美織に近づいていった。

「片付けはしておいたから。まったく、契約はちゃんと守ってくれないと困るわよ」

 ちゃかしたようにいう理々子だが、胸の内ではすでに決意を固めていた。

 美織が逃げるようにこの部屋に来たように理々子もまた、どうするべきかということを考えた。

 しかし、結論は意外に早く出てしまった。

 一番の原因は茜の存在だ。

 あんなに心配してくれる妹がいるというのに、美織は妹すら拒絶をした。親との確執というだけでなら理々子は自分の経験もあり、全面的に美織の味方をしたいとも考えていたが、あんな妹がいて、しかもそれを拒絶したとなれば話も変わってくる。

 それと自分が考えていたよりも根が深い問題ということも理々子を動かした要因の一つだった。

「理々子さん……」

 美織はそのふざけたような態度に逆に理々子の気持ちを垣間見た気がした。

 窓に背中を預け、左手に持った写真に力を込める。

 その敏感な反応を理々子は目だけで追って、美織もまた理々子がここに来た意味を察していると考えた。

「……聞かれるほうがいい? それとも自分で言う?」

「…………」

 理々子に態度ほどの余裕があるわけではない。だが、深刻そうにされれば美織を逆に追い詰めてしまうような気もした。

 それに甘えさせてあげるという隙を見せてあげることも必要だと思う。

 美織は頼れる相手なんていないと思いこんでいるのだから。

「……茜が妹じゃないって……本当、だよ……」

「…………」

 顔を伏せながらくるっと背中を見せた美織に、理々子はあえて正面には回らずに寄り添う。

「【高嶺】っていうのも、私の苗字じゃない……ううん、この名前だって」

 美織の声は震えており、よく見ると肩も小刻みに動いていた。それはおそらく無意識でそれほどに美織が苦しんでいるのはいやでも伝わってきた。

「……………………………………私、……捨て子、なんだって」

「っ………」

 胸に痛みを感じたのは理々子だった。

 それはまるで予想していなかったわけではないこと。その可能性も考えていた特にさっき妹じゃないといったときから。

 しかし、実際に聞かされるとその痛みに理々子のほうが打ちのめされてしまいそうだった。

 理々子は痛みを感じてはいる。だがそれは、あくまで想像の痛み。美織が思い知った痛みはおそらく理々子が想像したものとは比べ物にもならないだろう。

 それは体験しないと絶対にわからない痛み。それでもあえて言葉にするのなら、自分の周りがすべて崩れていくようなそんなものなのかもしれない。

「……聞いたのは偶然だったの、家出するちょっと前、たまたま遅くまで起きててお母さ………あの、人たちが……話してるのを聞いちゃった」

 あの人たち。

 わざわざそういいなおした美織はあまりにも小さく見えて、誰よりも何よりも心細そうで、理々子は美織の首元に腕を回して、胸で交差させた。

 美織を抱くのは二回目だ。

 しかし、この前抱いたのとはまるで違う。美織の体は小刻みに震え続け、抱いているのにまるでここにいないような不安すら感じさせる美織の様子。

 体は抱けていても、心へは届いていないようなそんなむなしい感触だった。

「それから、しばらくは……あの家、にいたけど、……なんか、全部嫌だった、あの人たちに何か言われるのも、一緒にご飯を食べるのも、茜におねえちゃんって呼ばれるのも……全部……嫌で、なんだか、怖くて……家だけじゃない、友達といても、何をしてても、全部が嘘みたいに思えた」

 美織は家族が好きだったのかもしれない。今の生活が好きだったのかもしれない。

 朝起きて、当たり前におはようといって、学校に言って友達と過ごし、家に帰ってただいまという。そして、妹と何気ない時間をすごし、お休みといって明日を迎える。

 そんな当たり前の生活が好きだったのかもしれない。

 だからこそ、

「……自分が、どこにいるのかわからなかった。あの人たちに何かを言われれば……それは、本当の子だからじゃないって思ったし、茜がお姉ちゃんっていうのも、演技にだって思えた。高嶺さんって呼ばれても、自分のことだって思えなかった。みんながとても遠くに行っちゃって、自分だけが違う世界にいるみたいで………」

 自分のこれまでが肯定できなくなってしまった。家族という多くの人にとって一番の根っこである支えを失い、美織は

「あの日、家出しようって思ってたわけじゃない。……でも、学校から帰って、誰も、いなくて……家がすごく広くて……なんだか、それがとっても、怖くて……いつの間にか家を飛び出していて、いつの間にか電車に乗って、家出したって後から気づいて……ここに……来たの」

 逃げ出したのだ。受け入れられなかった現実から。

「……ひっく……ひぐ……ひっく」

「美織……」

 大粒の涙を流す美織を理々子は美織とは比べられない、別種の痛みを感じながら見つめていた。

(……私が、美織を泣かせてるんだ)

 たぶん美織はここに来て以来、いや、もしかしたら本当の子供じゃないと知ったときから目を背け続けていたものに今始めて向き合ったのかもしれなかった。

 美織は逃げていたのだ。

 背中から迫ってくる恐怖を感じないふりして、自分の向かう先が行き止まりであることに気づかぬふりをして。

「ひぐ……ひっく」

 美織が泣く。

 肩を震わせ、しゃくりあげ、涙をとめどなく流して、どうしようもないほどに襲い掛かる重圧になすすべなく。

 世界いるのは自分ひとりなんじゃないかという不安の中、孤独に泣き続けている。

「…………美織」

 理々子は抱きしめる腕に想いをこめると、優しく名前を呼んだ。

「私もね、家出したいって思ったことあったんだ」

 今の美織に何を言うのが正しいのかわからない。何を言えば美織の助けになるのか、救いになるのかわからない。何を言っても美織の気持ちがわかるようにはならないし、同じ立場になることだって不可能だ。

 だが、それでも何かができるかもしれない。何かはわからないけれど、何かが。

「……どう、して?」

(あ………)

 首元にまわされた理々子の腕を美織はおずおずとつかむ。それが何を意味しているのかそれもやはりわからないが、理々子は誰にも話せなかった気持ちをつづっていく。

「美織なんかとは比べられないけど……家庭環境はよくなかった、かな。どっちもあんまり私に興味ないみたいで、授業参観とかもほとんど来てくれなかったし、休みとかもどこにもつれてってくれないしで、寂しかったよ。家に帰るのも好きじゃなかった」

 思い出す。その時の空虚な気持ちを。

 ただいまといっても、誰も答えてくれることのない家。電化製品の音がやけに大きく響いて、家の中の方がまるで別世界に感じた幼き思い出。

「……妹がいたらなぁって小さいころはずっと思ってたわ。そうしたら、寂しくないのにって、おかえりって言ってくれて、ただいまって言ってくれて、一緒にご飯を作ったりして一緒にお風呂に入って、一緒のベッドで寝て、そんなことができたらなって」

 ほんの少しだけ、その幼き渇望に美織の姿を重ねる。

「でも、現実にそんなことはありえなくて、中学二年のときだった、かな? もうちゃんとした理由も覚えてもいないけど、私もあの家が嫌だった。友達が何気なく親の悪口を言ったりしても、それに同調することも否定をすることもできなくて、あぁ私は違うんだなって思って、家にいるのが嫌になった。みんなと違うことが嫌で、どこにも行くあてなんてないくせに逃げようとしたの」

「……でも、しなかったんだよね」

「うん」

「……なんで?」

「たぶん、怖かったの。今が嫌っていうことよりも、それをしてもどうしようもないって言う想像のほうが怖かった。友達と別れて、今から逃げて、それで、絶対にそのうち戻っちゃう。そんな自分が嫌だったから、最初から何もしなかった。ふふ、弱虫よね」

「……私だって、強くなんかないよ」

 理々子からすればそんなことはない。理由があったとしても、美織は理々子ができなかったことをした。それをやはり強いんだと思った。

「……そうかもね」

 しかし、理々子は気持ちとは反対の言葉を発していた。

 本来それは強いとか弱いとかそういう話ではないし、そもそも家出をしてしまうということ自体、本当の強さではないんだろう。

 もう大人になった理々子にはそれがわかる。

「私は子供を育てたことなんかないし、えらそうなことなんか言えないけど、育てるってきっとすごく大変だって思うよ。自分の子を殺しちゃうっていうニュースだって、もう珍しくないくらい……私だって、結局親らしいことなんかほとんどしてもらえなかった。でもさ、美織のご両親は違うでしょ?」

 大人の綺麗事など美織には聞こえるかもしれない。だが、理々子にはそれが真実だと思えた。自分ひとりだって生きるのは大変なのだ。社会に出てみるとそれがわかる。

 自分のために子供を切り捨てる親は新聞やテレビをにぎわすし、美織のように……捨てられてしまうことだってある。

「美織をこんなにいい子に育ててくれたじゃない」

「……っ……」

 また理々子の腕をぎゅっと掴む美織。

 家族に対し美織が嫌悪感のようなものを抱いていたのは間違いない。だが、理々子が勘違いしていたのはその原因。それは美織が家族を好きだった反動。好きだったものに一方的に裏切られたと思い込んで美織は、意識的にそう思うようにしたのだろう。

 家族が嫌。家族が嫌い。

 たぶん、そう思わなければ、両親を、妹を心配させてしまっている今を肯定できなくなってしまうから。

「それに……妹さん、茜ちゃんはどうなの?」

「っ!!?

「茜ちゃん、ずっと美織を探してるんだって思う。今、美織のご両親が美織をどう思ってるかはわからないけど、少なくても茜ちゃんは、こんなところまで美織のことを探しに着てくれたのよ。なのに、知らんぷりするの? 妹じゃないなんていうの?」

 少しだけ強い口調になった。

 これまでは野生動物が傷口を舐めるかのように包み込むような口調だったが、今は親離れをさせるときのような突き放すような雰囲気だった。

「……話なさい。茜ちゃんと。話してからどうするかは自分で決めていい。帰るのもとめないし、一緒に家に来て欲しいっていうのなら行く。ここにいたいっていうなら、いてもいい。私もご両親と話すわ。でも、茜ちゃんと話ができないのなら……」

 理々子は深く息を吸い込んで、次の言葉を発する覚悟を決める。

 それはいつか言わなければいけなかった言葉。もしかしたらもっと早くに言っておかなければいけなかった言葉。

 言い方に差はあれど、いわなければいけなかった言葉。

「……もう、ここには置けない。出て行ってもらうわ」

「っ、りりこさっ……ぁ……」

 美織が慟哭を受けた瞬間、理々子は手を解いて美織から離れた。

 そして、ポケットから携帯電話を取り出すと

「茜ちゃんにすぐかけられるようになってるから」

 振り返ろうとしていた美織の手に握らせた。

「…………………」

 頷きはしないまでもそれを離そうとはしない美織を見て、理々子は胸の前でちいさく拳を作ると部屋から出て行くのだった。

 

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