「……ふぅ」

 美織の部屋から出てきた理々子は、いつも食事を取るテーブルに座ってお茶を飲んでいた。

 これはすでに美織に淹れてもらうことも多くなったものだ。

(お別れ、かな……)

 やり遂げたという気持ちがなくもないが、今理々子が感じているのはけだるい疲労感と、穴の開きそうな不安定な心だ。

(……これで、いい。いいのよね)

 どこにも悪い話ではない。

 美織の力になるというのは最初から望んでいたことだし、美織はおそらく今頃妹である茜と話して、取り戻すだろう本当の日常を。

 それは美織にとって当たり前のことで、当然のことで、そうあるべきことで……

「……んく」

 熱いお茶を喉に通して飲み込む。心に沈めていく、浮き上がってきそうな浅ましい気持ちを。

(……信じらんないわね)

 美織の理由を知ったっていうのに、寂しい気持ちがとめられない。いなくならないで欲しいっていう気持ちがなくならない。

 もっとも、そんなことを口に出すつもりなど一切ない。寂しいという気持ちは見せても笑顔で送り出さなければいけないのだから。

「……また、広くなっちゃうな」

 脱力した体を背もたれに預け、理々子は部屋を見回してつぶやく。

 大学のときに初めてきてからずっと思っていた。ここは一人で住むにはふさわしくないところだと。

 理々子が親らしいことをしたのはこの程度だ。

 授業参観にもこない。どこか遊びに連れて行ってくれることもほとんど記憶にない。一人で過ごす時間はいつしかなれて、ご飯を一人で取るのも当たり前になっていて。

 結局親がしたのはお金のことだけ。

 高校も、大学もどこでもお金は出してくれるといった。家賃も生活費も、一般的な学生からすれば過剰なほどだったが、それはむなしいだけだった。

 だが、ひとつだけ感謝をしよう。

 ここが【妹】との出会いの場になったのだから。

 この先、美織と会わなくなることはないだろう。関係が終わるとは微塵も考えてはいない。

 しかし、【妹】としての美織はこれでさよならだ。

「……………」

 理々子はしばらく目を閉じ、美織とのこれまでを考えていた。

 頭をよぎるのは楽しい思い出ばかりだ。美織からもらったのはそういうもの。美織がくれたのは、日々を生きていこうと思える気持ちだった。

(……また、なれちゃうのかしらね)

 寂しいと思っていたことを慣れてしまう。そういう経験があって、いつしか美織のいたことなんていっときの夢のように思って、独りに慣れてしまう。

 そんな時がきっと来てしまうのだと理々子は諦観しながらも。

(……私ももう、大人なのよね)

 そう言い聞かせて理々子は自分を納得させようとした。

 それは理々子が一番嫌いだった言い訳だ。

 もう子供じゃないから、大人だから、社会人だから、そんな風に誰もが抵抗できない言い訳をして嫌なものを受け入れる。

 それをしなくてすんでいたのが美織の時間だったのに。

(けど、それが美織のためなら、ね)

 それがやはり言い訳であることはわかっていても理々子はそうやって自分を納得させる。

(……でも、最後に……)

 

 

 美織が理々子の元へやってきたのは、理々子が美織の部屋から出てきて三十分ほどたったころだった。

 理々子の前に来た美織は顔を俯けてこそはいないものの、その顔に笑顔はなく理々子のこともまっすぐとは見てこない。

「……何か飲む?」

 どこに立っているのかわからないといった様子の美織に理々子はそう声をかけた。

 それは本気で聞いたわけではなく、何かを言わなければ美織はこのまま黙ってしまいそうで、美織から何かをうながすためのきっかけのようなものだった。

「…………」

 ふるふると美織は小さく首を振った。

「……そう」

 それから二人の間にはしばしの沈黙が訪れる。

 理々子は美織の心に思いを馳せたくはあったが、それをするのをためらってしまう。

 どうせ届きはしないという達観と、考えたくはないというわがままにもにた気持ち。

「理々子さん……」

 だから、沈黙を破るのが美織であることは必然だったのだろう。

「……何?」

 理々子は自分の胸が早鐘を打っていることを自覚しながら、美織を受け入れるための心構えをしていた。

「……茜と話したよ」

「うん」

「……あは、泣かれちゃった」

「美織のこと心配してたものね」

「……うん。バカって何回も言われちゃった」

 美織の顔がはっきりととしたものでないものの、どこか懐かしそうな笑顔を浮かべていることにまずは安心をした。

 だが、美織の本題はこれだけではすまないだろう。

 そして、それは理々子が望んでいたものでもあるはずだ。

「私、理々子さんでよかった。理々子さんと一緒に暮らせて、嬉しかったよ」

(っ……)

 理々子は胸に訪れた衝撃を感じながら、それを何でもない風に受け止め。

「私もよ。美織」

 しなきゃいけないことを返していた。

「うん。ありがとう」

 かみ締めるように美織はそう返したあとまた少しの沈黙があり

「……理々子さん」

 美織は何かを決意した目で切り出していった。

「…………明日、出て行くね」

 わかっていたこと。望んでいたこと。

 いつしか来て欲しくないと思うようになっていたこと。

「……帰るの?」

「うん。帰る」

「……そう」

 胸をめぐる想いを美織のためと抑え込んで理々子は、あっさりとそう返されたことを嬉しくも悔しくも思った。

(って……何が悔しいんだか)

 この短期間で家族に勝るなど最初から不可能なことだ。

【妹】が見失っていた道を見つけ、本来歩むべき場所に戻るといっているのだ。【姉】としてそれを喜ばないでどうするというのか。

「あの日、理々子さんに会えてよかった。理々子に会わなきゃ、どうしてたかわかんない。本当に理々子さんで……」

「ね、美織」

「っ。何?」

 美織が言いたいこと、伝えたいことそれはすでに理々子には伝わっているし、言葉で聞くのはあまりにこそばゆいことだ。

 美織は言わなきゃ気がすまないのかもしれないが、言葉よりもひとつだけ欲しいものがあった。

「今日ね……」

 

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