「ふーん、いいところに住んでるのね」

 理々子の部屋へとやってきた瑞樹は、玄関からキッチンへ通る廊下を歩きながらそう感想を漏らした。

「どう、ぞ」

 リビングへ通した瑞樹に理々子はソファへ座るように促すと暖かなお茶を差し出す。

「ありがと」

 瑞樹は穏やかな声でそれを受け取ると、一口口を付けてから

「今日は、美織ちゃんはいないのよね」

 確認するように理々子に問いかけた。

「はい……?」

 テレビに向かって置かれるソファは一つしかなく、瑞樹の隣に座る理々子はあからさまに元気のない表情で頷いた。

(【今日は】じゃないですよ………)

 これから瑞樹がここに来ることがあるのかどうかはわからないが、その時に美織がいることはないだろう。

 そう理々子は思い込み、思考も大半はそれに奪われている。

 以前、瑞樹が美織がいない時を確認したことと、今のセリフを思えば瑞樹が何をしに来たかは明白だがそれにすら考えが及ばず

(……美織……)

 来てしまうであろう決定的な別れだけを思っていた。

「……わさと」

(どうしたら……いいの……)

「川里!」

「っ。は、はい!?」

 耳には聞こえていたものの、反応できていなかった理々子を瑞樹は叱責するかのように呼び、やっと理々子は瑞樹をまともにみた。

「私は一応、あんたのために来てあげてるつもりなのよ。話、聞きなさいな」

「?」

「美織ちゃんのことってことよ」

「っ!!??」

 それが予想外だったとかではない美織という名前だけに理々子は必要以上に反応、いや、おびえて見せた。今までだって、頭の中はそれにいっぱいだったにも関わらず。

「? 川里?」

 それが異常だとさすがに気づいたのだろう。瑞樹はさっきまでの強気な口調とはうってかわり、様子を探るような瞳でまさに明らかに何かがあったことを伝えてくる理々子を見つめた。

「……何か、あったの?」

「…………っ」

 まるで、子供が隠し事を指摘されたような情けない顔で理々子はうつむく。

「……………」

 その姿を見て、瑞樹は遅かったのかと危惧するが次の理々子の一言にひとまずは安心する。

「……まだ、何も、ないです」

 【まだ】

 それはつまりこれから、あるいは近い将来に何かがあるということ。

「……そう。それはよかったわ」

 何かがあったものの、瑞樹が心配したような何かではないことを瑞樹は確信しドライに言い放つ。

「っ。何がっ、いいんですか!」

 思わず声を荒げかけた理々子にも瑞樹は落ち着いた視線を返す。

「まだ、美織ちゃんとそういう話をしてなさそうだったからよかったって言ったの」

「っ!!」

 理々子は思わず瑞樹を睨みつける。

 瑞樹には相談をしている。この【そういう話】をどんな意味で言ったのかも分かってしまって、

「何がいいんですか!」

 今度ははっきりと声を荒げた。

「美織は……美織は……もうっ」

 【そういう話】をするつもりでいる。そういう覚悟を決めている。

 理々子とは違って、だ。

 理々子は何も覚悟ができていない。そういう話をすることも、美織を失うことにも。

(……こんな、こと、だってしてる場合じゃ、ない、のに……)

 電話で近くまで来てるとか言われてしまって、家には上げたがこんなことをしている場合じゃない。

 美織と向き合う準備をしなくてはいけないのに。美織にごめんなさいという心構えをしなきゃいけないのに。

 何もしてくれなかった人の話を聞いている場合じゃ、ない。

(だって……美織とは……もう……っ)

 しなきゃいけないことを一人ではできなかったことを棚に上げ、目的のわからない瑞樹にいらつきすら覚えた理々子はあることに行き着く。

 こんな時がくるとわかりきっていながら、考えようとしなかったことに。

(おわ……かれ………なんだ)

 はっとそれに行き着いた理々子は表情を固めて呆然となった。

「……………」

 対照的に瑞樹はそんな理々子を見つめながら、用意されたお茶を飲む。

(美織と……お別れ、なんだ……)

 もう、ただいまともいえない。お帰りとも言ってもらえない。お弁当を作ってもらえることも、ご飯を用意してもらうことも。お休みともいえない、聞けない。このソファから台所に立つ美織を見ることも、もうない。

 このままじゃ、二度と。

(……おわ、かれ……)

「かわ、さと?」

 そして、今度はつーっと一筋の光を頬に走らせた。

(……あれが、美織との最後の時間だったんだ………)

 この数日自分でしてきてしまったことが、理々子の心を涙でおぼれさせていく。

 大切な妹を傷つけながら、他人のように過ごして数日が……美織との最後の時間。このまま別れが訪れれば本当にそれが最後になってしまう。

 美織にも理々子にも傷を残すだけの最後に……

「ひっく……っ……っ」

 目の前に職場の先輩がいるということは失念したわけではない。しかし、止められなかった。

 涙があふれていくのを、人の前で泣いてしまうことも。

「みお、り……美織…みおりぃ……」

(なんて、最低なの……)

 ただ傷つけただけだった。期待をさせ、裏切っただけだった。都合のいい美織だけを利用してきただけだった。

 そして、そのまま終わりがくる。

「っ……」

「っ!!? 川里!?」

 考えての行動ではない。あまりに身勝手な自分自身に嫌気がさして、目の前にいた瑞樹にすがりついてしまった。

「わたしは……っ! 私はどうすればよかったんですか!?」

 さらには、何も期待していないと思い込んでいたはずの人に心の内をぶちまけていく。

「美織をまたここに置いたのが悪かったんですか!? 美織が私を好きって気づいたくせに気づかないふりをしたのが駄目だったんですか!? 妹だっていうのがいけなかったんですか!?」

「……………」

 瑞樹は答えない。答える言葉を持っていないわけではなく、今はまだ答えるべきではないと考えたからだ。

 真剣な表情をしたまますがりつき、感情をはきだす理々子をそっと抱きしめるだけ。

「……美織は、きっと悩んで、苦しんで……でも、【決めて】私に向かってきたはず、なのに」

 美織の悲しそうな表情が今更になって心に中に入ってくる。

 そう。苦しんだはず。

 あまりにも迂闊な理々子の抱擁。それからの理々子の美織への態度。

 混乱し、苦悩し、決めた答えがあれ、なのだ。

 美織が伝えようとし、理々子がとぼけ続けてきたことなのだ。

 誰よりも大切な【妹】が悩みぬいて決めたことを………

「っ! 私はっ!!」

 無意識にかみしめていた唇を開放し、理々子は滲んだ声を出す。

「っ……なにを、してたん、ですか………」

 最低。あまりにも最低な行為だ。気持ちを知り、それを見ないふりをして、決意にすら目をそむけた。

 もうすでに美織は【別れ】だって覚悟をしていたかもしれないのに。理々子は自分の都合だけでそれを拒絶したのだ。

 自分では考えることすら放棄して、今にも崩れてしまいそうな現状を保とうとしていた。それが不可能だと知っていながら。

(最低……最低……最低……最低!!)

「っく。ひっぐ……っ」

 あまりの自己嫌悪についには声すら出せなくなり、理々子はしゃくりあげるように泣き始める。

「……川里」

 瑞樹はそんな理々子を優しく呼ぶと、理々子の背中と後頭部に手をまわしてしっかりと抱き寄せた。

 瑞樹にとっては予想外の展開ではあった。

 理々子のために来たことは間違いないが、こうした役回りをするつもりではなかった。だが、瑞樹のしたいことのためにはきっとこうするほうがいいのだろう。

 瑞樹からすれば理々子がなく理由は定かではない。

 わかるのはおそらく美織のことで泣いているということ。

 そして、美織を想い泣けるほど、理々子は美織を想っているということだ。

 だから、今は

「…………好きなだけ泣きなさいな」

 言いながら理々子のことをしっかりと抱きしめた。

 肩を抱き、理々子を引き寄せて頭を撫でる。子供をあやすかのように。

「っ……ぅあ……ぁあ」 

 それに呼応するかのように理々子は瑞樹の中で堰を切ったように泣き始めるのだった。

 理々子にも、瑞樹にも予想外の終わりが来るまで。

 

 

4/九話

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