「……っく……っ」

 人の胸で泣いたのは初めてのことだった。

 もともと一人の時だろうと泣きそうにはなっても泣こうとしていなかった理々子。泣けなかった理々子。他人どころか、自分にすら弱みを見せてこなかった理々子は、今初めて他人に心を預けていた。

「落ち着いた?」

 それをさせてくれた、他人、瑞樹は理々子が泣き始めた時と同じように柔和な声をかけてくる。

「………………はい」

 滝のように涙を流していた理々子は、瑞樹の言葉通りようやく落ち着きを見せていていた。

「……でも、もう少しこうしてください」

「りょーかい」

 多分、普段の理々子であれば考えられもしない言葉だろう。

 泣いてしまうという弱みを見せることも、こうして他人に体を預けることも。今まで意識的にしてこなかったことなのだから。でも、今はそれが心地いい。

 まったく期待すらしていなかったのに、こうして安らぎを与えてくれる。自分勝手な期待をして、勝手に裏切られたと思って、誰もが同じとそんなことを考える自分が嫌になっていた。でも、瑞樹はこうして踏み込んできてくれた。

 瑞樹が何を伝えにきたのかそれはまだわからないが、理々子は今それに感謝をしていた。

 それもまた自分勝手だとは思いながらも、今度はそれを嫌とは思わずに。

(……瑞樹さん)

 他人に心を預ける理々子に、後輩を包み込む瑞樹。

 二人とも慣れないことであって目の前のことに集中していたし、ここは理々子の家であり閉ざされた空間であるということが二人の注意力を落としていた。

 耳を澄ませていれば、カギが開きドアが開いたことに気づいたかもしれない。恐る恐るも隠そうとはしない足音に気づいたかもしれない。「理々子さん……?」と不安そうに呼ぶ声に気づいたかもしれない。

 だけど、今は二人とも互いのことしか頭に入っていなかったし、部屋のドアも閉じられていて小さな音に反応することができなかった。

「っ!!!!!???」

 ドアが開け放たれるとともに、この息を飲む声が聞こえてくるまでは。

「!!!!」

 まずそれに反応したのは理々子だった。その息を飲む声にすら、誰のものかをわかったから。

「美織、ちゃん……」

 だが、長くはない沈黙を破ったのは理々子につられてドアを見た瑞樹だった。

 かすかに震えながら、美織は二人の姿を、瑞樹が愛しい相手を抱きしめるのを見つめていた。

「み、美織、な、んで……」

 理々子は自分が今どういう状況にあるかを察しながらも、そう口にするしかなかった。

「あ、え、えっと……や、やっぱり、少し、でも……は、やく、話、したか、った……、から……その」

 美織は表情を動かさない。いや、固めたまま、理々子の問いに答えていく。

「で、も……お、邪魔、みたい、だよ、ね……」

「美織、これはっ!?」

 やっとそこで理々子は瑞樹から離れたが、その瞬間に

「ごめんなさい!!!」

 かすれた声で美織は叫ぶと理々子に背を向けて走っていった。

「美織、まっ!!!?」

 反射的にそれを追いかけようとした理々子は、体が逆に引っ張られるのを感じる。

「何を!?」

「追いかけるつもり?」

 理々子の腕を掴んで制した瑞樹は、この部屋を訪れた時のような強い瞳でそう問いかける。

「当たり前じゃないですか!」

「追いかけて、どうするの?」

「どうするって………そんなの」

 そんなのは決まっている。今のは誤解だと。決して美織が想像したようなことではないのだと伝えなくてはいけない。

「誤解を解いて、それからは、どうするの?」

「ど、どうって……」

 だって、そうしないと美織が悲しむ、傷つく。それも真実ではないことで。そんなことを美織にさせられない。させたくない。

「今のは誤解だけど、美織ちゃんのことは受け入れられないって伝えるわけ?」

「っ!!? そ、れは………」

 やっと理々子は瑞樹が止めた理由を理解した。

 このまま何も考えられないまま美織を追いかけたところで、瑞樹の言うとおりになるだろう。いや、受け入れられないという現実に前には美織が今のことを誤解だとわかってもらうほうが無理だ。むしろ、誤解をさらに深めてしまう可能性だってある。

「でもっ………」

 理々子は泣きそうな声になりながらそう口にする。

 瑞樹の言っていることがわかったとしても、理々子は美織を追いかけたかった。悲しい誤解をさせたまま、美織を一人にするなんてしたくなかった。

(っ! 美織!)

 振り切っていたかもしれない。瑞樹の言うことがわかっても、多分瑞樹の言うことが正しいのだと理解しても、瑞樹の前で泣いたりしていなければ。期待していなかったはずの人の前で、初めて弱音を見せたりなんかしていなければ。

 美織を追いたい、誤解を解かなければならない。そう思っていても、いや、思っているからこそ。

「…………瑞樹さん」

 理々子は、初めて弱音を見せられた相手を信じてみようと思えた。

 

 

「っは、はぁ……っく」

 痛い。

「ひっく、……っく……ぅぐ、はっ……はぁ、はぁ」

 心が、果てしなく痛い。

 信じられない、信じたくない光景を目にした美織は涙を溢れさせながら、その現実から逃げだしていた。

 信じられない。まるで、考えもしなかった出来事。考えることすらできなかったこと。

(抱き合って、た………)

 走り続けた体の悲鳴に根を上げ、足を止めると美織はその光景を思い出してしまう。

 これまではただ、逃げる、目をそむけることで頭がいっぱいだったが、体が休まるとその分余裕のできた心がその光景を思い浮かべてしまう。

「っ!!」

 そして、その瞬間はじかれたようにまた走り出した。

 決して頭から離れることはない現実を振り払うように。

(っ………理々子、さん)

 しかし、一度思い浮かべてしまえばそれが頭を離れることはない。

(理々子さん!!)

 また瞳の奥が熱くなっていく。胸が締め付けられて、のどがきゅうとせつなくなる。

 涙が、溢れる。

 先ほどの光景をただ見ただけであれば、これほど心に衝撃を受けることはなかったかもしれない。

 泣きもしただろうし、逃げてもいたと思う。

 だが、

(……当たり前、だ)

 こんな滑稽な自分を感じることはなかっただろう。

「ふ、ふふ、……ふふふふ」

 それを考え出してしまった美織はもう逃げる気すら起きずに、身近にあった民家の塀に寄りかかる。

(バカ、みたい………)

 先ほどとは違う涙が美織の頬を伝う。

(何してるの、私……)

 バカらしかった自分が。今まで、何も知らなかった自分がまぬけでたまらなかった。

 勝手に仲がいいつもりでいた。何も知らないくせに、理々子のことをわかった気でいた。

(当たり前、じゃない)

 はぐらかされてきたのも当然だ。きっと、初めから自分のことなど眼中になかった。そうじゃなければ、なんで自分がいなくなる日に限って瑞樹がいて、しかも抱き合ったりなどするものか。

 真実がどうかを美織は知らないが、少なくても美織のとっての事実が自分を道化にする。

(ほんと、バカじゃん……)

 特別でいるつもりでしかなかった。ほんとはどう思っていたかもわからないくせに、勝手に理々子に大切に思われているつもりでいた。

 迷惑だったに決まっている。見ず知らずの他人が部屋に転がりこんで、妹の真似事をして、いい気になっていたなんて。

 理々子はただの同情や、責任感程度だったのかもしれない。家出の時に面倒を見たから、今回も断れなかっただけ。理々子は、きっとその程度の気持ちだったのに自分はそれを勝手に特別なものに思っていた。

(……バカ、バカ、バカ…)

 自分をなじる心が止まらない。

 決して理々子がそんな気持ちではないことを知っていたはずなのに、今はそんな自分が滑稽に思えるだけだ。

「ふ、ふふ、ふふふ…」

 今頃、理々子が何を思っているか、心の底から自分を心配してくれていることなど今の美織には想像できるはずもなく美織は自分を笑い続ける。

 ポタ、ポタ、ポタ、

 涙を隠すような雨が降り、地面を、体を濡らしても、

 美織は今までの自分を笑うことしかできなかった。

 

 

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