ゾクッ!

 理々子が部屋に入った瞬間、悪寒を感じた。

 廊下と比べて気温が低かったわけではない。

 だが、確かにこの部屋にはそれを感じさせるだけのものがあった。

 原因はもちろん、美織にある。

「…………」

 ベッドにうつ伏せになる美織。

 その姿から圧倒的な冷気が伝わってくる。暗い暗い、井戸の底のような冷たい雰囲気が美織から発せられている。

 理々子が来たことにも気づかず、美織は誰の声も届かないであろう場所に一人でいる。

 理々子と同じように美織を想う茜では、届かなかった場所に。

「………美織」

 理々子はベッドの前まで行くとようやく美織の名を呼ぶ。

「……………」

 反応はない。聞こえていないのか、あえて無視をしているのか理々子には判断がつかない。

「美織」

 わからないままに理々子はもう一度美織の名を呼んだ。

「………………………帰って」

 少しの沈黙の後抑揚のない声が冷たく響く。

 すべてを拒絶するかのような悲しい声。きっと、こんな声を出せる人間はそう多くはない。

 妹である茜ですら、この声に、雰囲気に立ち向かえなかったのだから。

「うん。帰る」

 もしかしたら、昨日美織を追っていたら理々子も同じだったかもしれない。美織と向き合うことができなかったかもしれない。

 しかし、今は違う。

 一人でここにいるわけではないのだから。

「美織と一緒にね」 

 瑞樹という大切な友人と、自分と同じように美織を想う茜が理々子の背中を押してくれているのだから。

「っ…………………」

 美織は一瞬だけ震えたものの、何も返そうとはしなかった。昨日見てしまったものと、それから考えてしまった仕方のない妄想。

 今の美織に理々子の言葉をすんなりと受け入れるということのほうに無理がある。

 それは、理々子にもわかっていることで、理々子は無理に美織に手をかけることもなく静かに美織の枕元に腰を下ろした。

「……私、貴女に謝らないといけないことがあるの」

「…………」

 そして、静かに想いを伝えだす。

「美織の気持ちには、すぐ気づいてた。………私が寝てる時に、キスしてたのも、知ってる」

「っ………」

 美織はさすがにそこで反応を見せた。自分ではばれていなかったと思っていたこと。自分だけの秘密だったはずのものを暴かれ、美織は……

「な、ら……い、ってよ」

 余計にみじめな気分になった。

 もっと早くにそれを伝えられていれば、ここまで傷つくことはなかった。

(……そんなことを思ってるんだろうな)

 そのことに対し、完全に自分の責任を感じている理々子は美織へと手を伸ばした。優しく髪を撫でる。

「………やめてよ」

 またも響く無感情な声に理々子は素直に従った。

「もっと、早く貴女と向き合うべきだった。そうしなきゃいけないっていうのはわかってた、でも私は……」

「……同じ、だよ」

 まだ続けなければいけないことがある中、美織が理々子の言葉を遮った。勝手に自分で次を予測してしまった。自分からそれを切り出すことで少しでも心を守ろうとする。

「理々子さんは、あの人が……………………好き、なんでしょ……」

 息絶える寸前のようなかすれた声。昨日から、何度も何度も頭をよぎった言葉。そのたびに否定しようとする自分がいたはずだろうが、すべては昨日の光景にかき消されていた。

「違う。瑞樹さんは……そうね、大切な人ではあるわ」

 今の美織にそれがどんな意味を持つのか、容易に想像できるが何より美織に嘘や取り繕いをしたくなかった。今更だとも思ってしまうが、そうしてこなかった過去があるからこそ今はこうしなければいけない。

「でも、恋人とか、そういうんじゃない。そういう好きじゃないの」

 瑞樹が大切な人だというのは、昨日思えたことだし、それは理々子が自分で勝手に思っていることだと自分では思っている。瑞樹がどういう意図で昨日理々子に会いに来たのか、それは知らない。美織のことがいっぱいで聞く余裕もなかった。

 しかし、今は大切に思っている。瑞樹の目的など関係なく他人と一定の距離を置いて過ごして来た理々子にとって、踏み込んできてくれた瑞樹はかけがえのない存在に感じられた。

「嘘! 抱き、あってた、じゃない」

 そんなことは美織にわかるはずもなく変わらずに擦り切れた声を出す。

「あれは、そう、ね……それは、本当。瑞樹さんに抱きしめられたのは、美織の見た通りよ。でもね、瑞樹さんが昨日来てたのは、私を叱りにしてたの。……抱きしめてもらったのは……慰めてもらっていただけ。美織のことで泣いちゃってたから」

「……やめてよ。そんなこと、信じられるわけない、じゃない……今更、取り繕わないでよ」

 無理があるのはわかっている。今の美織には理々子の言葉だからこそ、余計に信じることができない。

「…………」

 理々子は、自分の罪を感じながらそれに背を押され、もう一度美織の髪を撫でた。

「……やめて」

 先ほどと同じように美織からは拒絶の言葉が響く。

「私の話、してもいいかしら?」

 だが、今度はやめることなく代わりにここでの一番の目的を果たそうと切り出した。

「何にも言わなくもいい。でも、聞いて」

 優しく、何よりも優しく理々子は美織の髪を撫でる。

 姉以上の気持ちを持って。

「………………」

 美織は沈黙で答える。言いたいことはあった。耳をふさぎたくもなった。心を閉ざしたかった。

 だが、それらすべてを押さえこむほど、理々子の手を優しく、美織は沈黙するしかなかった。

「私ね、はっきり言って、友だち少ないわ」

 そんな始まり方。それは、今まで理々子が心の奥底で思いながらも認めようとしていなかったこと。

「昔は、そうじゃなかったんだ。高校くらいまでは毎日、会って、休みもほとんど遊んでた。でも、大学入ったくらいからなんか、希薄になってた。ううん、多分私が勝手に思ってるだけなんだとは思うけどさ。会う時間は減って、メールとか電話もあんまりしなくなってた。大学じゃ大学で友だちだってできたけど、やっぱり昔の友だちのことが私は、大切だったの。でも………たった二回連続で昔の友だちに遊ぶの断られただけで、怖くなった。それは多分偶然だったんだろうけど……私より大切な友だちができたのかなって、ね」

 はっきり言って、それは被害妄想のようなものだと理々子自身思っている。いや、少なくても最初はそうだったはずだ。だが、理々子は四年をかけて理々子はその妄想を自分で現実にしていった。

「……そんなことがあってからは、もう自分で誘うのだって怖くなって、遊ぶことも少なくなって……気軽に会おうって言える相手も今じゃ、ほとんどいない」

 大学で仲良くなった友人たちも同じ。社会人になって自分の時間を作ることだけで精いっぱいになって、自分で友だちじゃなくしていった。

 もちろん、会えばいくらでも話すことは出てくるし、楽しいもの間違いはなかった。それでも、理々子は孤独を感じてしまっていた。

「友だちがいないっていうか、人間不信なのかもしれないわね」

 認めなくはなかった言葉。そういったくくりに自分を当てはめることは嫌いだった。独りのくせに自分は違うと虚勢を張っていたのだ。

「……私は、寂しかったのよ。人前じゃ何ともないふりをしてた。寂しいなんて素振りはみせなかったし、友だちや、知り合いの前じゃ平気で嘘をついてきた。大丈夫だってね。でも、そんな自分は嫌だった。独りになるのは、怖かった。そのくせ、数少ない友だちに頼ることすらできなかったの。……依存しちゃいそうだったし、そうなって拒絶されるのも怖かったから」

 だから、理々子は誰の前でも強がって見せた。そんな自分に嫌気がさしながら、何も変えようとしない理々子は生きる希望すら失いかけていた。何かを待ちながら、自分でその何かを探すこともしない理々子はただ生きているだけだった。

「美織を家に置いた時、応援したいって、美織のために何かしてあげたいって思ったのは嘘じゃないの。でも……私は寂しかった。【何か】が欲しかったの」

 ただ、生きているだけだった理々子にとって特別な何か、美織との生活を手に入れてしまった理々子。それは理々子にとって、数年ぶりの満たされた時間だった。

「だから、なんでしょうね。美織のことが、すごく大切になった。前も言ったけど、美織といるのは自然だったの。誰の前でも本当の自分を出せなかった私が、何にも考えずに美織とは話せた。一緒にいられた。……美織のこと、大好きになってた」

 理々子は一切美織を見ないまま語りかけていた。それは独り言のようでもあり、美織ではない誰かに語りかけているようでもあり、間違いない美織の心に響く声だった。

 ほんの数分前までなら、反発していたはずの言葉に美織は、何も言わずただ、自分を見ていない理々子に初めて顔を向けられた。

「美織の気持ちを知った時、すごく戸惑った。どうすればいいんだろうって、悩んだの。私は美織のこと好きなのは、本当でも、美織が私のことを好きな気持ちを……私は、心のどこかじゃ信じきれてなかった。……………怖かった」

 友だちを自分で友だちじゃなくしていく感覚。それは、本当に自分が嫌になる過程だった。

「昔、友だちとは本当に親友だと思ってた。なんでも話せるって思ってた、今だって、親友だって思ってる相手は、いる……で、も……なんでもは話せない」

 それを思うたびに泣きそうになっていた。自分の弱さに、こうなってしまった現実に。

「美織が大学に行ったり、働きだしたりして、もっと広い世界を知ったら…また、前みたいに美織が遠くに行っちゃうような……気が、した」

 理々子は小さく震えながら、瞳に涙をためていく。理々子に人生において、幾度となく訪れた衝動。しかし、実際に泣けたことは数度しかない。泣くことを望みながらも、泣くことで気持ちが落ち着いてしまうことすら恐れ、理々子は耐えてきたのだ。

「だからずっと、美織のためってごまかしてきた。私は、美織の【姉】で、保護者で、責任があるんだからって、私で美織を縛っちゃいけないんだって……そう思ってきた。でも……瑞樹さんに言われた」

 瑞樹はもちろん理々子の過去について知っていたわけでも、美織を受け入れない本当の理由を察したわけでもない。

「私が【嘘】をついてるって。私は美織と何も話してないってね」

美織のため、美織のためと言い続けた理々子自身も気づいていなかった嘘を見抜いた瑞樹の言葉は辛辣だった。

 あんたの口にする美織のためという言葉は薄っぺらいということから始まり、どこが美織のためなのかと叱責された。大切に思ってるとか、責任がとかいいながらも、美織とそのことに対し話しすらしないことのどこが、美織のためなのかと。

 するべきことは、年上だから、姉だから、保護者だからと理由をつけて逃げることではなく。大切に思うのなら、言葉を尽くすべきだと。

「それで、やっと気づいたのよ。私は………自分のために美織を妹にしてたんだって」

 気づいた理々子は、その原因を自分の中に探した。そこに向き合えなければ、きっとまた同じことを繰り返してしまうから。そしてその原因が、今理々子の語ったことだった。

「美織が、いなくなっちゃうかもしれないことが怖くて、怖すぎて逃げてた。……私は、美織のためって言っておきながら、全部………自分のため、だった。自分が傷つくのが怖いだけ、だった」

 自分で自分を浅ましいと思うこと。それは想像するよりもつらいことだった。まして、ただでさえ理々子は自分自身を高く評価していなかった。ただ一人で、そんな嫌な自分に気づいてしまっていたら、心が折れてしまっていたかもしれない。

 だが、大好きな美織が自分以上に、自分のせいで傷ついている。そんな美織を救わなければいけないという想いは、なによりも強かった。

「本当に、ごめんなさい」

 心からの謝罪。言葉だけで伝えるには重すぎる気持ちではあったが、それでも理々子はその一言にすべてを込めた。

「……ねぇ、美織。起きてくれる?」

 だが、そこで理々子は終わったりしない。謝ることは目的の一つではあったが、ここへ来た一番の目的は最初美織に言った通り、美織を連れ戻すことだ。

「お願い、美織」

 そのための言葉は、正面から伝えたかった。

「………………………………………」

 そして、長い沈黙が訪れる。

 

 

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