「ふんふーん♪」
軽く鼻歌を歌いながら理々子は美織に買ってあげたエプロンをして、台所ところ狭しと動き回っていた。
まな板で野菜を切って、鍋の味をみて、軽いサラダを用意する。
「んー」
その間何度も何度も壁にかかる時計をじれったそうに見る理々子は、さながら新妻のようだった。
美織が電車で来る以上想定を超えて早くくるということはありえないのはわかっているがそれでも時計を見ずにはいられない。
「ふふーん、っと」
その後も理々子は実に楽しそうに夕食の準備をする。
時計を気にするのはやめられなかったが、待ち望む時間が近づくにつれて着々と準備は進んでいった。
炊き立てのご飯に、ほかほかなお味噌汁。プチトマトの乗った可愛いサラダに、鮭のムニエル。それに、和牛のステーキ。
見るからに豪勢な夕食をテーブルに並べた理々子はエプロンを外して、また時計を見上げる。
「そろそろね」
美織が乗ると言っていた電車はもうついているはず、あとはここまで来るには十分もかからない。
(にしても、可愛いこと言ってくれちゃって)
テーブルに用意した料理を見てはそんなことを思う。
美織が戻ってくるこの日、理々子はせっかくだから外でおいしいものでも食べに行こうかと提案していた。
しかし、美織の答えは
「理々子さんの手料理が食べたい」
と、いうものだった。
特別な日だからこそ、理々子の部屋で理々子の気持ちのこもった理々子の料理が食べたい。
それが、美織の気持ちだった。
「ふふ」
その時を思い出してはまた頬を緩める。
単純だからこそ美織の気持ちを感じて、笑顔になれる。
(早く帰ってこないかしら)
と、またじれながら時計を見ると
ピンポーン、と待ち望んだ音がした。
「美織!」
それを聞いた理々子は早歩きで部屋の入口に向かうと、はやる気持ちを抑えることもせずドアを開けた。
「理々子さん」
美織も待ちきれなかったのは同じでドアを開かれ、理々子の姿を確認した瞬間に理々子を呼ぶ。
「ひさしぶり、美織」
「うん。会いたかった、理々子さん」
「私も」
そんな会話をしながら二人は中に入っていく。
言葉通り二人が会うのは久しぶりだった。具体的に言うのなら二週間ぶり。
別に喧嘩をしたとかそういう理由ではなく、ちょうど理々子が仕事の研修で家を空けていたのと、それともう一つは美織の問題。
「わ、すごい」
食事の用意されたテーブルを見ると美織は目を輝かせる。
「頑張ったからね。ね、そんなことより」
料理に関して美織が見た目だけで喜んでくれたのは理々子にとっても喜ばしいことだが、それよりも理々子には気になることがあった。
「あ、うん。はい、これ」
言って、美織は一枚の紙を差し出す。
「わっ」
美織がこの部屋を離れていた理由の結果を受け取った理々子は、その結果を知ってはいたものの自分のことのように笑顔になった。
「おめでとう美織」
それは、近隣の有名大学の合格通知。これが、美織が部屋を離れていた理由。理々子がいない間に入試があり、一人になってしまう美織は茜のたっての希望もあって、受験の期間と合格発表までの期間を実家で過ごしていた。
「ありがとう、理々子さん」
もう何度も受けたであろうその言葉に美織は満面の笑みを返す。
「やっぱり、理々子さんにそう言ってもらうのが一番うれしいな」
「調子のいいこと言って」
「ほんとだよ。理々子さんは特別だもん」
「もうっ」
笑顔の溢れる会話。
あの喧嘩以来、二人の間に流れる時間にはそれがつきものだった。
それは今まで理々子が手にしたことのない時間。
家では常に孤独だった子供時代も、心では信頼できる友を求めながらも自分で壁を作っていた青年時代も、遂には誰にも期待すらできなくなった社会人生活でも、理々子は常にそれを求めながらも諦めていた。
心を許し合える誰かと過ごせる時間を。
(【何か】があって、全部が変わるなんてお話の中だけだと思ってた)
今はそれを実感している。
つまらなかった毎日、なんのために働いているのか、生きているのかわからなかった日々、この年にして緩やかな死への道を歩いている気がしていた理々子。
だが、今は違う。
毎日が楽しいと言える。これまではその日ごとに楽しいと言えることがあっても、日々が楽しいと感じたことはなかった。少なくても働き始めてからは。しかし、今は美織がいる。
家に帰りついた時笑顔で迎えてくれる人がいる。
それは単純にしてもっとも嬉しいことだった。
すべては美織がいてくれるから。美織がいるから日々が輝いて見える。瑞樹を始めとして、もうあまりこちらからは連絡を取らなくなっていた友人たちとも会う時間が増えた。それも美織のおかげなのだ。
自分で行動することの大切さを知ったから。傷つくことを恐れ何もしてこなかった、だから何も得られなかった。それがいけないことだとは知っていても何もできなかった。その過ちに気づかせてくれたのも美織だった。
(だから、ほんと感謝してるわ。美織)
理々子は優しい目で美織のことを見つめる。
「? 理々子さん?」
誰よりも愛しい相手に見つめられ美織は戸惑いながらも頬を染める。
「どうか、したの?」
「ふふ、何でもないわ」
いまだに時折、充実した今を思ってこうして見つめてしまうことそれは理々子にとって特殊な幸せの時間。美織といる幸せを噛みしめる時間。
「そんなことより、美織。大切なこと忘れてない?」
「え? あ、そうだね」
理々子自身も久しぶりに美織と会えることの嬉しさに忘れていたことを美織に伝える。
美織はすぐにそれを察して笑顔になり、
「ただいま、理々子さん」
ありきたりな、けれど大切な言葉を伝える。
「おかえりなさい。美織」
理々子も笑顔で子供のころ毎日のように言いたかった、言ってほしかった言葉を口にする。
(ただいま、おかえり……)
互いに誰よりも心を預けあった相手に伝えるそれは何よりも素敵な響きを持つ。
ただいまと言ってもらえる幸せ、おかえりなさいと言える幸せ。
それが理々子の手に入れた幸せ。
「さ、じゃあお祝いしましょうか」
「うん!」
毎日続くその幸せを噛みしめながら、二人はありふれた幸せをこれからも続けていく。
二人の想いが通じ合う限り永遠に続くその幸せを。