(……いっそ、あんなことなければよかった)
望に決定的な別れを告げられた、いや、告げた日の夜。家への誘いを断られた夜。
沙羅はベッドで膝を抱えていた。
すでに頬には幾筋もの涙が伝っている。
部屋に電気すらつけず、物理的にも心理的にも絶望の闇の中で沙羅はもう二度と手に入れることのないであろう望との思い出を思い返す。
考えたくはないのに、望のことを、それも、今のことではなく以前のことばかりを考えていた。
もし、人を好きになるのにきっかけが必要ならあの一件は間違いなくそのきっかけだった。
あんなことさえなければ、望を好きにならないですんだかもしれない。たとえ、一人の苦しみが続いたとしても、この辛さを味あわずにはすんだかもしれない。
好きにならなければよかった。
それは、恋に苦しむ人間が誰もが一度は思うことかもしれない。今までの自分を否定する悲しい言葉。相手との思い出を否定する言葉。
それをわかっても思わずにはいられない。
今の苦しみを味わうくらいなら、初めから好きにならなければよかった。そう思ってしまうのはとめられないのだ。
あの日、まだ望を好きになったわけじゃなかった。
ただ、意地になって意地を通していた自分が初めて救われた気がした。一人で張っていた意地が望というかけがえのない親友をもたらした。その一点が当時は嬉しかった。
その前日には望に感謝こそすれ結局望には何も期待などしていなかった。なのに、望は沙羅の思っていた以上に沙羅を思っていた。
おそらく望には勇気のいることだったはず。だが、望はそれをした。あの、気弱で人の影に隠れがちで他人に意見など言えないと思っていた望が、あんなことをしてくれた。
自分をこんなにも思ってくれる友人がいて、その友人を作ったのは今まで本当は嫌いだと思っていた自分。
周りが戻ってきたことよりもそのことが嬉かった。
あの日から沙羅の中で急激に望が膨らんでいった。
それはおそらく、最初はただの友情であったのかもしれない。いや、もしかしたらあの時点から恋をはじめていたのかもしれない。それを最初は友情という言葉でごまかしていただけにも思えていた。
なにせ、あれからそれほど立たない時だった。望を好きと自覚したのは。
それはあの日の翌日から起こっていた異変ではあった。
望の前で望をまともに見れなくなっていた。また、いやに胸がどきどきと振動を早め熱でも出てきたのかと思うほどに体が火照った。
はじめはあの日のことが恥ずかしいのだと思った。初めて弱さを見せてしまったことが、悲しみと照れで涙を見せてしまったことが、ただ恥ずかしくて望の顔が見れなくなっているだけだと思っていた。
しかし、しばらく時間がたってもその症状は消えることなくむしろ悪化していっていた。
そして、なにより決定的に自分の異常な想いを自覚させられたのは、あの日だ。
「沙羅、おはよう」
「っ、望、…おはよう」
登校をしてきた沙羅は教室に入るなり望に挨拶をされ、朝っぱらから心拍数を高める。
望の顔は見れずとも、望のほうをむいて挨拶を返せる程度の沙羅は動揺していることを悟られぬように勤める。
「あの、ごめんね、この前借りたCD今日返すって言ってたけど、忘れちゃった」
胸の前で両手を合わせて、言葉と一緒にごめんねといったポーズをする望。
このある意味なんともないただ、愛らしいだけの姿に沙羅は望に気づかれない程度に頬を染め
「ん、いいわよ。別に急いでないから」
心では少なからず動揺しているものの望にクールに返す。
「でも、約束だし、悪いけど放課後取りに来てもらってもいい?」
「っ、望の、部屋に」
言葉にしなくても当たり前のことをわざわざ口にしてしまう沙羅は、また一つ心臓を大きく跳ねさせた。
「うん。それに、昨日実家から栗ようかんもらってきたし、お礼に一緒に食べよ」
「……わかった」
この時点ではまだ好きと自覚してないものの、望の部屋に行くということを妙に恥ずかしく感じてしまい断りたくもあったが、望に動揺していると想われたくないとも考えている沙羅は表面上は表情を崩さずに返した。
「うん。あ、そろそろ先生来ちゃうね。約束だよ」
そう言って自分の席に戻っていく望を見つめながら沙羅は思わずはやっている心臓に手を当ててしまうのだった。