撫子に気持ちを伝えた翌日。その日は日曜日だったが聖は撫子に会いにいくことなく学校に来ていた。
ここで用がある場所など一つしかなく聖はその場所で一人佇む。
「……………」
青い絨毯。埃をかぶった楽器。隅に積まれたイス。今はもう鳴ることのないピアノ。
ここには多くのものがある。聖の心に影を落としてきた出来事がたくさん。
その中でも聖の心を占めるのは当然、【あの人】のこと。
(……………あの人は、何で私を捨てたのかな)
それは当時ずっと考え、そしていつしか考えることをやめたもの。考えても答えは出るはずもなく、都合のいい想像をする自分を笑い、最悪な想像をしては心を冷たくさせていた。
「………どこまでが、本気だったんだろう」
聖は感情を抑えた声を出しながら、あの人がいつもいた場所に腰を下ろす。
「……思い出せちゃうな」
その時のことが思い出せてしまう。
鍵盤をたたく細い指、音を楽しむ表情、流れるような黒髪。
この場所でピアノを弾いていたあの人の姿を今でも鮮明に思い出せてしまう。
それはもう聖にとってつらい記憶でしかないはずなのに、忘れたい記憶のはずなのに心の奥に残っている。決して消えない染みのように。
「……好きって言ってくれたのになぁ」
何気なく鍵盤に触れながら聖は涙がたまっていくのを感じた。
想い出にひたろうと思ってここに来たわけではないのに、考え出したらもう止められない。
あの人との想い出が全て頭の中を駆け巡っていく。
「………っはは……ははは」
全身を駆けめぐる脱力感。
「なんで……なのかなぁ」
涙が流れぬように視線をあげて聖は心の乱れに堪えようとする。
好きって言ってくれたのに、恋人になれたと思っていたのに、ずっと一緒にいてくれるって思ってたのに。
「………どうして?」
答えが出るはずもない。悩んで答えが出るのならそんなものはとっくにわかっていることだ。
それだけを考えていた時期もあったのだから。
だが、答えは出ない。人の気持ちは他人には絶対にわからない。
何故裏切れたのかなどその人にしかわからないのだ。
「……撫子さんも同じことを思うのかしら?」
ようやく聖はこれから裏切ろうとする相手のことを考えられた。
言葉は尽くすつもりだけど撫子からしたら裏切られたのと同じだろう。
好きって言ったのに、恋人になれたのに、ずっと一緒にいられると思ってたのに。
どうして裏切るんだろうと。
「……一番私が知ってるはずなのにね」
そのつらさを誰よりも知っている。信頼していたものに裏切られた苦痛を聖は誰よりも知っている。
痛みを知りながら、相手にも同じ痛みを押し付ける。
「………ほんと、最低ね」
それをわかっているからこそ今更後には引けなかった。
(聖ちゃん……)
聖ちゃんにお別れを告げられた次の日。
私はどこにもお出かけはしなくて部屋で一人聖ちゃんのことを考えてた。
(きっと色々考えすぎちゃっているんだろうな)
昨日、願書を見た時や、別れようと言われた時こそびっくりして、取り乱しちゃったけど、今は意外に冷静になった自分を感じてた。
ううん、正確には聖ちゃんに別れようって言われ時に目が覚めた気がする。
だって、聖ちゃん苦しそうだったから。
それだけでわかっちゃったよ。
聖ちゃんは私が嫌いになったんじゃなんかないって。きっと何かを考えて、悩んで、苦しんで。
あんなことを言っちゃったんだって思う。
それがわかったから、あの場所で我がままをいったりしなかった。
聖ちゃんが何を考えてあんなことを言ったのかはわからないよ。
けどね、私は聖ちゃんの思う通りなんかならないよ。
私は聖ちゃんのことが大好きだもん。ずっと一緒にいたいって思ってるもん。
聖ちゃんが私を嫌いになったって言うのならともかく、嫌いじゃないってわかってるのに聖ちゃんの側から離れたりしないし、放したりもしないよ。
だから、
「覚悟してね、聖ちゃん」
私は窓の外から学校の方を見つめてそうつぶやいた。
(そういえば、聖ちゃんに来てもらったことないな)
すぐに部屋に視線を戻した私は不意に場違いなことを思う。
(そうだ)
それから、あることを考え付いて
(……聖ちゃん)
また聖ちゃんのことを思った。