よかった。いた、いてくれた。
雫に……バカっていう機会をちゃんともらえた。
ううん、もらったんじゃない。奇跡なんかじゃない。私が雫のことをわかってあげられていた証。偶然でここで見つけたんじゃない。
ベンチからピョコッと頭を出す雫は驚きを隠せない様子で戸惑っているけど、すぐに表情を変化させた。暗くて見えないけど、きっと迷子がお母さんを見つけたときみたいに泣きそうになってると思う。
「っは…は…雫」
ふらつく足で雫に今できる最高速度で向かっていって、
パンッ
雫のほっぺを叩いた。
人に、特に小さい子に暴力を振るうなんて絶対に許せないはずの行為なのに体が自然に動いていた。
「バカ! バカバカバカッ! 何してるのよ! こんなことするなんて、雫のパパとママが……私が! どれだけ心配したと思ってるの!!?」
ついで、雫のこと抱きしめた。
ありがちなドラマのワンシーンみたいだけど、本当に心が体を勝手に動かす。
「ごめん……なさい。ごめんなさい。おねえちゃん、雫、しずく…あ…ぅ……」
雫の声がどんどん震えてきて……
「ふぇ、あうぅ…ふえぇぇえええん!! ごめんなさい、ごめんなさぃ……う、わ、ぁあああぁん!!」
大声で泣き出した。
(雫……よかった、無事で……なんともなくて、こうして私の胸の中で泣いてくれて)
私は心の底からの安堵を感じて雫が泣き止むまで背中をなで続けた。
私はしばらくするとぐずつきが収まらない雫の手を引いてベンチに座った。コートを半分脱いで雫を包みこむ。
眼下に広がるのは綺麗な町並み、夕陽に照らされている姿も綺麗だったけど建物の明かり、車のライトなんか色んな色の光が夕陽とはまた違った美しさを表していた。
それを見下ろしながら、雫が私のぬくもりを感じられるように右手で雫をさらに寄せてお互いに肩を預けるようにさせる。
「…………引越し、するんだってね」
雫を見つけられてよかったけど、本当にしなきゃいけないのはそれだけじゃない。雫の一人で抱え込んでた重荷をどうにかしなきゃ。
「っ。どうして、おねえちゃんが知ってるの!?」
「雫のママにきいたの。すっごい取り乱しながら電話してきて、教えてくれた」
実際は私がかなり無理やりな感じで聞きだしたんだけど。
雫の引っ越す理由は簡単にいうとこう。両親はこの辺じゃなく地方からこっちに出てきていて、父親のほうの親が危篤で親の家業を継がなきゃいけなくなった。喧嘩していた雫の両親もそれどころじゃないってことになって仲直りというか、喧嘩は自然消滅に近い感じになったんだと思う。
思い出のカップを割ったときに雫のことを叩くまでしたことを考えると、もしかしたら喧嘩をやめる理由が欲しくて、丁度きっかけになったのかもしれない。
散々雫のこと振り回して、なにそれとは思うけど、雫に重要なのはそこじゃない。
……出発は明後日。だから、これは多分追い詰められた雫の最後の抵抗なんだよね。
「行きたくないんだよね、雫は」
コクン。
雫はまた悲しみのスイッチが入っちゃたのか、涙を抑えながら頷いた。体は震えだして、悲しみにくれる心が顔を覗かせている。
「やだ、やだよぉ。ヒック、だって、お引越しなんてしたら、友達も一人もいないんだよ!? みーちゃんだって、ちぃちゃんだって、だれも、だれもいないんだよ!?」
「…………」
「それに……それに、おねえちゃんだって……いない、もん。雫、また一人になっちゃう」
雫はきゅっと私に抱きついてきて胸に顔を埋めた。
子供らしいせっけんの香り、冷たくなってる雫の体、簡単に崩れてしまいそうな小さな体が、親しい人たちと、好きな人と離れてしまうことに震えていた。
「やだ…よぉ。雫、みんなと、おねえちゃんと一緒にいたい。グズっ、ずっと、ずっと一緒に、いた…いよ……おねえちゃん……」
雫が私を抱く腕に力を込めた、はずなのにそれはどこか弱々しく感じられる。
「……しずく」
言いたいこと、伝えたい想いはいっぱいあるはずなのにそれを言葉にできない。どんな言葉を発しても、いくら言葉を重ねても……足りない。雫の心に届かないってことじゃない。届いてもそれは海に砂糖を溶け込ませるようなものですぐに消え入ってなくなってしまいそうな、そんな気になった。
「ひぐ、うっく……ぐす、おねえ、ちゃん」
でも、何かを言わなきゃ、してあげなくちゃ、雫の不安を、寂しさを少しでも癒してあげたい。
大切な想いは言葉にしなくちゃ伝わらない。
私はそれを知ってて、決して間違っていないと思っている。けどきっと今の雫にはそれだけじゃ足りない。言葉だけの想いじゃ、足りない。
だから、私は
「しずく……」
雫を抱きしめた。
何をいってあげればいいかわかんない。何をいっても雫には意味ないかもしれない。けどこうして抱きしめたら少しは、言葉にできない想いも伝わる気がしたから。
そして今度は雫につられ私も泣きながらお互いにぬくもりを感じあった。
「…………ほんとはね。こんなことするつもりじゃなかったの。でも、学校でお別れ会してもらって、おねえちゃんが優しいこといってくれて……お別れなんて、嫌になっちゃって……おうち、帰れなくなっちゃったの」
少しだけ落ち着いた雫が心の中に溜めていた気持ちを吐き出していく。
私は雫の抱えるように抱いてその言葉に耳を傾ける。
「でも、わがままいっちゃだめなんだよね。雫がわがままいってもパパもママも、おねえちゃんも困っちゃうだけ、だもん」
わがままいったっていいじゃない。雫はまだ子供なんだから。
そう、言ってあげたい。でもそんなこと言ったってどうにもならない。無意味な言葉にしかならない。
「それにね、雫だって、パパとママが辛そうにしてたら助けてあげたいもん。だから……お引越し、しなきゃ駄目なんだよね……」
親に振り回されて雫は一人でここにきた。それは両親の想い出の場所で、親に仲直りしてもらいたいって気持ちもあったかもしれない。
雫の想いとは関係なく親は喧嘩をやめて、また雫は振り回されて、友達も誰もいない土地に引っ越す。
「おねえちゃん、雫のこと探しに来てくれてありがとう。でも、最後にまたお願いしてもいい?」
瞳に涙を浮かべたキラキラとした目で上目遣いをしてくる。
私は、黙って頷いた。
そんな雫と私はこのまま別れなきゃいけないの? 雫になにもしてあげられないまま、何もしてあげられないどころじゃない。私と出会ったせいで、私なんかを好きになったせいで、好きな人と別れるなんて余計に辛い目にあわせてる。
「おうちまで一緒にきて……最後にちょっとだけでもおねえちゃんと一緒にいたいの」
「……………」
それに私はすぐに頷くことはしなかった。
このまま雫と別れるなんて嫌。
「…………雫、私のお願いを聞いてくれるかな?」
「おねえちゃんの?」
「今日は寮に泊まらない? 一緒の部屋で夜更かしして色んなこと話すの。よかったらさ、明日も一緒にご飯食べたり、遊んだり、なんてしたいな…私」
「でも……」
「パパとママには私から話すからさ。だめ、かな?」
このまま別れたくない。少しでも、雫に【思い出】なんて大層なものじゃないかもしれないけど、せめてそういうものをあげたかった。
それが別れるときに辛くなる要因の一つになるかもしれないとしても。私は。
「うん、雫、おねえちゃんともっと一緒にいたい」
「ありがとう」
「? どーして、おねえちゃんがありがとうっていうの?」
「気にしないで」
そうして私はしっかりと雫の手を握って寮に戻っていった。
寮に戻ってまず宮古さんからお説教をもらった。ただ、雫のことを雫の両親に伝えなきゃいけないってことで、罰とか個人的なお仕置きはあとにしてもらう。
雫の親には雫に電話に出させると、電話越しでも雫のお母さんが泣いてるのが聞こえて雫もつられてごめんなさいって何度も言いながら泣いてた。その後に雫が泊まる旨を親に伝えて私に代わる。
意外にも雫の泊まることと明日一日雫のことを貸してもらうのはあっさり了承してくれて、あとは私へのお礼ばかりを言われた。
すみませんやら、ごめんなさいやら、雫のこと色々ありがとうやら。
なんか、こっちの方が申し訳なくなっちゃたよね。
しかも、しまいには安心のせいかまた泣き出してなだめるのが大変だった。
三十分ちかくも電話することになってようやく話を終えた私は、梨奈に預けておいた雫を迎えに梨奈の部屋に向かっていた。
その道中、雫の母親のことを思い返していく。
(すごく、泣いてたね)
当たり前なんだろうけど、とにかく印象に残ってるな。当たり前なはずなのに、違和感を感じちゃう私はやっぱり変なんだろうね。
あれが、【母親】なんだ。私の知らない本当の【母親】なんだよね。子供のことを無条件に気にかけて、心配して。子供のためなら自分がどうなってもかまわないって思える存在。
雫の両親は多少一般とは違って、家庭にまで喧嘩を持ち込んで雫を悲しませるようなことはしたけど、親の本分は忘れてなかったみたい。
「………………ちょっと、うらやましいよね」
私は無意識に、あるいは意図的に雫を昔の私に重ねあわせようとしてた。さつきさんのようになりたいっていうものあったけど、やっぱり雫のことを助けることで【昔の私】を助けたかったんだよね。言ってること意味わかんないけど、そういうことなんだよね。きっと。
だから、親にあんなに心配されて、一身に想いを受ける雫がうらやましい。今っていうか、当時からあの女のことは大嫌いだったけど、本当に小さいときは……うろおぼえでしかない、もしかしたら無意識に忘れたかっただけかもしれないけど、想いを望んだことはあったのかもしれない。
(ん………?)
廊下を歩いているとやけに色んな人とすれ違って、友達だろうと先輩だろうと一様に私のことをおもしろそうに見てくるのがきになった。
不思議がるけど、今はそれどころじゃない。
「っと」
私は梨奈の部屋の前にくるとすぐにはドアを空けずに、一つ呼吸を整えてから笑顔を作った。雫には笑顔を見せてなくちゃね。
「雫、おまたせー」
「あ、おねえちゃん」
「お疲れ様、涼香ちゃん」
「ん、梨奈ありがと」
「あ、ちょっと静かにしてね。夏樹ちゃん疲れてるみたいで今寝てるから。さっきまでロビーにいたんだけど、みんなが雫ちゃんのこと見に来て、大変だったからさっきやっとここに逃げてこれたの」
「あ、そなんだ」
じゃあ、すれ違った人がちょっと妙な目で見てきたのは雫のことでなにかだったのかな?
雫を交えてその時のこととかを聞いてみたり、今の様子を見てみると雫もちょっと元気が出てるみたいで安心。今も嬉しそうに私に寄添ってその時のことを話してくれてる。
どうもお嫁さん発言をしちゃったみたいなのが気になるけど……
(だから、みんな変な目で見てきたのか……)
「あ、夏樹が寝てるんじゃあんまり長居しないほうがいいよね。雫、私の部屋いこっか」
「おねえちゃんの? うんっ」
適当なところで話を切ると、私は雫の手を引いて立ち上がった。
「あ、そうだ涼香ちゃん」
「ん?」
「雫ちゃん、ずっと外にいたせいで大分冷えちゃってるみたいなの。早めにお風呂入れてあげたほうがいいんじゃないかな? 管理人さんに着替え買ってきてもらえるように頼んでおくから少ししたらお風呂入ったほうがいいよ」
梨奈に言われて雫のことを触ってみる。
「ふみぃ」
うん、なるほど、私も結構外にいて冷えてたからあんまり気にならなかったけど確かにかなり冷たい。今までは気づく余裕もなかったけど、梨奈の言うとおりにしたほうがいいかもしれない。
「じゃあ、一緒にお風呂入ろうか」
「うんッ!!」
無邪気な笑みを浮かべる雫に、これから私の身に降りかかる災難を想像なんてできるはずもなかった。