最近、思うことがある。
私はベッドの上で今日も夜の迷宮に迷い込んでいた。
ベッドの中にいながら思考だけが出口のない迷路に飛んでいく。複雑なのか単純なのかわからない自分で作りだしている迷宮。私はそこで進みも戻りもできていない。
ただ、その迷路の真ん中でうろうろとするだけだ。
その中で、少しだけ考えられることがあった。
私はいまだにあの女、戸籍だけでの関係の、この世で一番、おぞましく、嫌悪すべき存在の母親に囚われているんじゃないかってこと。
まず母親っていうだけで無意識に嫌悪感を抱いて敵視しようとする。雫のときは雫が母親に悲しまさせられていたからなおさらそんな風に思った。雫のお母さんは考えていたのはと逆で、【いい母親】で少しだけ心に希望をもらえたけど、今はそういうことじゃない。
私は【好き】とか【愛】っていう気持ちにどこか障害があるのかもしれないって、最近思えてきてる。
私は本当の意味で【好き】とか【愛】を信じられていない気がする。せつなとか美優子に答えられてない言い訳じゃなくて、昔から漠然と思っていた。
周りで誰が好きとか、付き合いたいとかそういう気持ちがうまく理解できないし、一般的に恋人同士ですることとかなんでしたいんだろうって思っちゃう。
手を繋ぐとかはまだともかく、抱き合ったり、キスしたりとか、そういうことをしたいっていう気持ちが正直わかんない。
(……雫の、時は、体が勝手に動いたっていうか……)
雫に向けた好き、愛はどんなものだかよくわかんないけど、少なくても雫には悪いのかもしれないけど【恋人】としてじゃなかった。
普通、人が最初に愛される相手は親。赤ちゃんだって初めて好きになる相手は通常親以外にはいようがない。そんな風に子供のときから【愛】っていう感情を知る。
でも私は、赤ちゃんのときとかどうだったか覚えてないけど、あの女に【愛された】記憶がない。あの女に与えられたのは恐怖と痛みしかなかった。
私は無意識に体を震わせる。
思い出すと体がすくむ。怒られないように、痛くされないように言うことを聞くのに、少しでも癪にさわるようなことがあればすぐに殴られた。泣くともっとされるから、黙って耐えるだけ。普通一番安心できるはずの家で私は怯えて過ごした。
【愛】なんて知りようもない。
その地獄から救ってくれたさつきさんは間違いなく私のことを愛してくれた、とは思う。思うだけ。断言できない。何が【愛】なのかわかんないから。
さつきさんと隆也さんは互いに愛し合っている。そのことは痛いほどわかるはずなのに、あの家にいられなくなるほどにわかったはずなのに、それでも私は【愛】っていうことそのものを信じられていない気がする。
結婚するっていうのは【愛】だろうけど、恋人になるっていうのは、【愛】? 抱き合いたいとか、キスしたいとかそういうことも? 手を繋ぐっていうのは【好き】?
なら、好きっていうことならわかるの? でも、せつなや美優子はキスしてきた。せつなや美優子が言ってくる好きは愛なの?
好きと愛ってどこからが違うの? 好きの先に愛があるの?
わかんない。頭の中がぐるぐるになってる。
やっぱり、私は【愛】とか【好き】っていう感情が正常に発達してないのかもしれない。
好きになったことはあるけど、それは愛にはならない好きだったのかな? 確かに好きになったし、一番になりたいって、ひとりじめしたいって思った。だけど、それってせつなや美優子、雫が言ってきた好きとは違う気がする。
数学で公式を知らなければ解けないように、英語や古文で単語がわからなければ訳せないように、知らないものを答えることなんて、せつなや美優子に答えることなんてできない、のかな?
考えても全然わかんないけど、今私を苦しませてるのは大元を辿ればほとんどがあの女に行き着くような気さえしてくる。
さつきさんのこと、さつきさんの家にいられなくなったこと、ここでの居場所を失いたくないこと、友達を失うのを極端に恐れること、せつなと美優子に答えられないこと。最初の原因を探せば、あの女にたどり着く。
さつきさんと一緒にすごせたこと、ここに来て友達、親友ができたこと。それはすごく嬉しいことだけど、言いたくはないけど、仮に絶対にありえないあんな女にそんなことできるはずもないだろうが、本当に仮に、太陽が西から昇るほどにおかしなことして考えてあの女にきちんと愛されてあのままあの家にいたとすれば、それはそれで仲のいい親友もできていたはず。
だから、別に悪いことは全部あの女のせいでも、ここにきて友だちと今の関係を作ったのはあの女は関係なくて私の意思。
もう十年近くもたってるのにいまだにあの女にせいで私は苦しんでる。
この苦しみが解き放たれる。そんなことがあるんだろうか。
私の夜明けは……?
……今日も授業で怒られちゃった……
このところ全部の授業とは言わないけど毎日どれかしらの授業で怒られる。さすがに、目をつけられ始めてやばいって感じ。ただ、いつも寝てても何も言われなくなったような人よりは遥かにましなんだろうけど。
でも、人間なんだから眠気だけには抗えない。まったく寝てないわけじゃないけど、夜はたまに意識が飛んでも夢を見るわけじゃなくても嫌な感覚がしてすぐに起きちゃう。
寝るのは平日帰ってからと休日の昼間くらい、眠気がピークに達してとにかく体が眠気だけは取ろうとする。けど、ほんと眠気が取れるだけどだるさや疲労は蓄積していくばっかり。
例えるなら体力は回復するけど、ライフポイントは減ったままって感じ?
学校の終った今日もふらふらになって部屋に戻ったところ。
ベッドだと夜の癖というか習慣であんまり寝れる気がしないのと、寝すぎてご飯に起きられなくなると困るからいつも床で仮眠だけをとる。
「んじゃ、せつな、またご飯前に起こしてね……」
「……涼香、その前に少しいい?」
いつもは軽く了承してくれるせつながどこか思い詰めたような声で話しかけてきた。
私はすでに横になってるからテーブルが邪魔してせつながどんな顔をしてるかは見れない。聞こえるのは声だけ。
「ん、なにぃ?」
朦朧としてるせいか返事が間延びした感じになっちゃう。眠すぎるせいか、体は床にあるはずなのによくわからないふわふわなところにでもいるような不思議な感じがしてる。
「ん? せつな?」
気づけばテーブルの下からちょっとぎりぎりな角度で見えてたせつなの膝と足がない。いつのまにと思って視線だけでせつなを探すと丁度私の真正面で私のことを覗き込んでるのが見えた。
「どし…たの?」
うー、目がしぱしぱする。瞬きするたびに寝ちゃいそう。
「……ひどいクマ……」
私を見下ろすせつなはどこか複雑な顔をして呟いた。
「あはは、まぁ、ね」
そりゃ、何日もまともに寝てなきゃこうもなるって。自分でかがみ見てもびっくりだし。
「……そんなんじゃまともに話せる気がしないからご飯食べてからでいいわ。おやすみ」
違和感、眠すぎて思考がほぼ停止状態になっていてもせつなが発してるその感じだけはわかった。
「うん……。おやすみ」
話したいこと。多分、どうして私が授業中や帰ってきてから寝てるか、だよね。クラスの友だちには適当に誤魔化したけど、クラスの友だちが気にするくらいなんだから、いつも一緒のせつなが気にしないわけない、か。
なんて答えよう……
そんなことを思いながらいつの間にか目を閉じてしまっていた。
そして、やっぱり私の予感は正しかった。
今日の夕飯は秋刀魚にトン汁、野菜炒め、それと白いご飯。ご飯は残すなって昔からしつけられてたから基本的にいつも食べるけど、最近は食欲すら普段どおりにはでない。
もそもそと済ませて部屋に戻るとせつながいつものお茶を出してくれる。
……緑茶がのみたい。飽きたっていうか疲れてるせいか欲求が素直に出る。口には出さないけど。
「……どうしたの涼香? いくらなんでも最近おかしいわよ。いつも寝てばっかりで、夜なかなか寝れてないみたいだし」
テーブルを挟んで座るっているとお昼寝前の言葉通りに話を切り出してきた。私は元気のない目でカップの中を見つめている。
「私、うるさかったりする?」
カップの薄い朱色の液体はさっき置いた振動でゆらゆらと波紋が立っている。綺麗だけど、その波紋が消えていくさまは儚く感じる。
「なんとなく感じるのよ。たまに寝返りうってるのはわかるけどね」
「そっか」
よかった無意識に考えてること口にしてるとかじゃなくて、今の状態だとそのくらいしてもおかしくないような気がしてくるし。
「言っておくけど、何でもないとか言われても信じないから」
言い逃れる手のひとつを先に潰されちゃったね。
「ちょっと、ね。考え事」
「考え事って?」
「考え事は、考え事」
わかるでしょ? 今まで相談できるようなことは大抵してきたんだから。せつなに話したくないんだって。
いや、わかってるのかな? わかっていてもはっきりさせたいのかもしれない。
せつなの目は不安の色が宿ってはいるけど、決意も見受けられる力のある目。私の様子がおかしいのなんて一番最初に気づいたはずなのに今日まで聞かなかった目。
今の私には恐怖すら感じさせる。
せつなに話せるわけないでしょうが。
「大したことじゃないから、そんな心配しなくたっていいよ」
なるべく明るくそういった。どのみちせつなに話せる内容じゃないんだから少しでも興味を削ぐことができればって思ったけど……
「大したことじゃないのにそんな風になるわけないでしょ!」
その軽いような雰囲気が癪に障ったのかせつなは少し声を荒げた。
「…………はなしたくないなら、素直にそう言えばいいじゃない」
ついで対照的ないじけたような、悲しみのこもった声。さっきまで向けていた視線を外して怒っているような泣いているような複雑な横顔を見せる。
話さなければ多少不機嫌にもなるだろうし、怒られるかなとも思ったけど予想以上の反応をされた。せつなはどこかこうなることを予測していたような様子。
悩んでることも、対象になってる二人のこともわかってて、聞くのも不安なのに勇気を出したのが予想通りに裏切られた、そんな感じ。
「……ごめん。せつな」
せつなの言うとおり話したくない。だから、心配してくるせつなの気持ちを無視することになっても謝るしかできない。
「……悪いと思うなら話してよ」
「……ごめん」
私はせつなに目を向けることすらできずに延々と紅茶のカップだけを見続ける。水面にうっすらと自分の情けない顔が映って余計に気が沈んでいく。
「いい、もうこの話は。……お風呂いってくる」
「……いってらっしゃい」
こんなことがあればあるほど私の迷宮は複雑になっていくのだった。