目の前にある光景が理解できなかった。
目は大きく見開かれ、開いた口はふさがらず半開きのまま、思わず落としてしまった文庫本のことなんかには気が回るはずもない。
「……なに、してるの…………?」
恐ろしいまでに感情がこもり、そしてそれをほとんど完璧に抑えた、聞くだけで背筋が凍りついてしまいそうな声がせつなの口から発せられた。
「……ぁ……ぁ、……わ、わた……し……」
せつなの体からは殺気とすらよべるような雰囲気が放たれ美優子はそれに気圧されさらには自分のした行為に怯え、震えていた。
「なにしてるのかって聞いてるのよ!!?」
鬼すら食らわんばかりの迫力でせつなは美優子に怒鳴りちらした。
「あ……ぁ……」
美優子は震えることしか出来ない。
「涼香から、離れて!」
せつなはその言葉と同時に二人に詰め寄った。
「ぁ、の……わ、た……ひっ!」
「離れろっていってるのよ!!」
事態に脳がついていけていない美優子を置き去りにしてせつなは美優子の制服を掴むと無理やり涼香から引き離し床にたたきつけた。
「……ぁうっ!」
ドンと大きな音がして、美優子がうめき声を上げる。
「っはぁ……はっ……出てって」
気づけば荒くなってしまった息を整えながらそれでも、恐ろしい目つきで美優子をにらみつける。
「ぁ、わた、わたっ…し」
弁解しようとしてるのか、ただ無意識に口から出てしまっているのかは定かではないが美優子は自分のこと繰り返しのべるだけ。顔をせつなに向けたまま泣きそうな顔をしていた。
「………出てけ」
そんな美優子に有無を言わせずせつなは追い討ちをかける。それがさらに美優子を怖気づかせ、美優子の体を縛るがせつなはおかまいなしにさらに怒号をあげた。
「出てけ!!!!」
「……ん、ぅ」
そしてそれが涼香の目を呼び覚ます。
ん……中途半端な目覚めたとき特有の異様に気だるい体を起こした私の目に飛び込んできたのは鬼みたいな顔をしたせつなと、怯えたように震える美優子の姿だった。
「ん、もう……なにー? 人がせっかく気持ちよく寝てたっていうの……に?」
「……気持ち、よく……?」
せつなのこめかみが痙攣して纏っている怒気が強まった。
な、なんでこんなに怒ってるの? こんなの、はじめて、かも……
(っていうか、美優子も何で泣きそうなの?)
「み、美優子、どうしたの? せ、せつなにいじめられた?」
とてもせつなとはまともに話せる雰囲気じゃなかったのでまだ多少は話ができそうな美優子に事情を聞こうとした、けど。
「ぅく……ひっく、ひぐ……ごめ、ごめん…なさい」
「……?」
事情はまったく飲み込めないけど、何故か胸騒ぎがする。ただ、それでも泣き出しちゃった美優子のことを放っておくわけにもいかず私は美優子に近寄って少しでも落ち着けばと頭を軽くなでる。
「っ!!?」
な、なに? ものすごい身のすくむような視線が背中に突き刺さったような気が、したん、だけ、ど。
せつな、だよね? 他に部屋に人いないんだし。
こんな怖い視線を送ってくるのに黙ってるのが余計に恐怖を加速させる。
「せ、せつな、美優子に、なに、したの?」
怖いけど、少なくても何かあったのは間違いないだろうし、せつなにだって聞かないわけにもいかない。
せつなは相変わらずのまま、しばらく黙ってから質問とは別の答えを返した。
「自分が悪いことしたってわかってるから泣いてるんでしょ。そんなことより、その子、もう帰るみたいよ」
その子? 何でそんな言い方。
「は、は? こんな状態で帰せるわけじゃないでしょ? 何言って……」
「帰る、わよね?」
そのせつなの冷たい声は美優子の前にいる私をすり抜けていく。
「………は、はい………」
みゆ……こ?
私の質問には泣くだけだった美優子がせつなの言葉には、素直に頷いた。
なにが起きてるの? 何があったの?
「じゃ、じゃあ、送ってくよ」
「……なんで涼香がそんなことするの? 子供じゃないんだから一人で帰せばいいじゃない」
「泣いてる友達を放っておけるわけないでしょ。どうしてそんなこというの?」
多分、美優子が何か悪いこと、というかすくなくてもせつなに対して後ろめたいことでもしたんだろうけど、それでも泣かしたのはせつなでそれに罪悪感も感じていない様子に、友だちを大切にしない態度に少しむっとくる。
「…………勝手にすれば」
せつなは私にまでにらみつけるような目をして、そっぽを向いた。
私はそれに戸惑いながらも美優子に鞄を持たせて立ち上がらせた。
「美優子、いこ」
「……っく。ぐす……はい」
部屋から廊下、階段、ロビー、玄関ときても美優子は一向に泣き止まない。わんわんと激しく泣くわけじゃなくて、時おりしゃくりあげるくらいではあるけどずっと俯いているせいで表情も読めなくて声がかけづらい。
「ねぇ、みゆ……」
少しでも情報を引き出そうかなと勇気を出して声をかけようとしたけど、なんか部屋にいたときよりもうまく言葉にできないけど、とにかく話してくれる気がまったくしなくて口を閉ざした。
(……どうしたんだろ?)
起きたら部屋にはせつなと美優子がいて、せつなはものすごく怒ってて、美優子は倒されたように床に伏せてて、美優子は泣き出しちゃって、せつなはとにかく美優子に敵意、害意を抱いてるような感じだった。
喧嘩、したのかな? でも、口論って感じにはあの二人じゃならないと思う。それにせつなはまだともかく美優子は口を滑らせようと相手を怒らせるようなことは言わないと思うし。
可能性としては、美優子がせつなを怒らせるようなことをしたっていうことだろうけど……
あそこまでせつなを怒らせるなんて……
「あ、丁度すぐくるね」
バス亭につくと、私は時間表を見てそれを確認する。普段から使ってれば確認も必要ないかもしれないけど寮生はこの時間に使うことはあまりないのでいちいち覚えてない。
すぐ来るって言うのはこの何も話さないで泣くだけの美優子を早く帰せて幸いなのか、何があったか聞き出すどころか落ち着かせることすらできなくて不都合なのか判断もつかない。
校門から一つ先のこのバス停は普段から寮生が休みに街に出て行くときに使うくらい。ベンチがあるだけで寂しい感じがして、私と美優子の二人だけなのがさらにそれを増幅させる。
風はなくっても寒空の下を制服だけなのはきついけど、ただでさえ二人なのを気まずく感じてしまうのに今の状態の美優子と二人っきりなのは針のむしろって感じだった。
でも、このまま何も言わないで美優子と別れてしまうのもしちゃいけない気がした。
「美優子、あの」
「………………」
美優子は私が声をかけてもベンチに座ったまま、ピクリともしない。
「その、何があったかは、わかんない、けど、せつなだって……えと、ちょっと取り乱しちゃってるだけだと思う、から。すぐとはいわないから、さ。寮に来なくなる、とかしないでね。せつなには、私からもいっておくし」
今言っていることが美優子に言ってもいいことなんだか自信が持てなくて、妙に歯切れ悪くなっちゃった。
「………………」
やっぱり美優子は俯いたまま何もいわない。
その後は私も黙ってバスが来るまで無言で過ごした。美優子がバスに乗るときにまたねと声はかけたけどそれにも美優子は頭を下げるくらいで最後まで何も言ってくれなかった。
小さくなっていくバスの車体をみつめた私はそれが見えなくなると今度は空を見上げる。
朝から曇っていて、もうかなり太陽は沈みかけている。空気に雨の気配が感じられて今にも降ってきそう。
「って、わっ」
今にもどころかぽつ、ぽつと小気味のいい音を立てて冷たい雫が道路に染みを作っていく。
最初は早足程度でもどっていったけど、私の足よりも雨足のほうが速く無視できないほどの量を降らせてきた。
私はそのまるで嵐を予感させるような雨のなか駆け足で寮に戻っていった。
「せつな、美優子に何したの」
部屋に戻ってくると開口一番に私はせつなを問い詰めた。
寮に帰ってから誰もいなかったロビーで考えたけど、何があったかちゃんと聞くのが私の義務のような気がした。
聞け、って私の心が私に告げてくる。
それに、うぬぼれだろうし、調子乗ってるとは思うけど、せつなが美優子をあんなにするほど怒る理由は限られていると思う。たとえば、ときなさんのこととか………私、のこととか。とにかく理由もなしに友だちにひどいことしたりいったりするような人間じゃない。
美優子の様子からして、美優子に非があるとは思う、けど。
「……別に、何も」
せつなはベッドの上で肩膝をたてて背中を壁につけたまま私のことはみない。感情を抑えた冷たい声は変わっていない。
そんなわけないでしょ!
って言っても無駄な気がする。半年以上一緒にいた中で一番怒っているときよりももっと怒気が強い。
それもただ怒っているだけにも見えなくて、いい知れぬ感情が渦巻いている気がした。
「な、なにもってことはない、でしょ? み、美優子のこと泣かせておいて」
でも、私がここで尻尾を巻いて逃げたら何も解決しない。美優子だってまた寮に来なくなっちゃうかもしれない。
その怒りが直接私に向けられてはいないはずなのに、正直今のせつなは怖くすらある。でも、私はせつなのベッドにまで上がった。
「…………っ」
せつなは私を一瞥するとすぐに目をそらす。一瞬見えたせつなの顔は怒りだけというよりも後悔みたいなものが混じっているように感じた。
まるで地獄の底に落ちた罪人のように自分を責め悔いてるような……
「な、なにかいって……よっ!?」
無言になるのが怖くてせつなを促そうとしたら、ギロとせつながにらみつけてきた。
こういうのを蛇ににらまれた蛙っていうの、かな?
せつなの鋭い視線に射抜かれると全身がすくむようになって、そのまま蛇に巻きつかれたみたいに体が締め付けられるようなきさえして、喉も萎縮する。
それだけの力がせつなの目にはこもっていた。
「…………そんなに、あの子が大切?」
あの子。また名前で呼んでいない。
「た、大切とかそういうんじゃなくて……」
「…………はなすことなんてない」
「…………」
「…………」
また沈黙。
美優子のときはただ私があたふたとしただけだったけど、今は空気がぴりぴりしてて息が詰まる。
「……もういい」
唐突にせつなはそういってベッドから降りた。そのままドアに歩いていこうとする。
「ちょ、ちょっとどこいくの。まだ、はなしは……」
「粘れたって無駄だから。……散歩してくる」
「……外、雨降ってる、けど」
「……門限までには帰る」
「…………せつな」
私のいうことなんか気にともめないといった感じに部屋から出ていった。追いかけることは可能なはずなのに、パタンと軽い音を立ててしまったはずのドアが重厚な鋼鉄の扉にでも見えた。
私はしばらく呆然としたあと、ベッドから降りて窓から外を見つめた。
陰惨な雲から落ちてくる雨は明らかにさっきよりも強くなっていた。