バス亭から後の美優子は何か考えているようだった。

 バスに乗ってるときも、そこから歩いて美優子の家に向かうときも、お母さん手作りのくやしいけど私より上手なケーキを食べているときも。

「…………」

 こうして、二人で美優子の部屋にもどった今も。

 変じゃないけど、違和感。私の言ってることにもお母さんのいうことにも笑顔で、嬉しそうに答える。でも、どこか噛み合わない。

 この違和感知ってる気がする。

 あの時の、あの夜の。美優子の家に泊まったときのに似ているような。

「すみません。お母さん、涼香さんが来るからってあんな大きいケーキ作るなんて思わなくて。全部食べなくてもよかったのに……」

「あはは、確かにびっくりしたけど、ほらっ。甘い物は別腹だし」

 でも、あの時とは違っていちいち私に対して恥ずかしそうに避けることもないし、基本は普段の美優子。

ただ、気のせいかもしれないけど、そんな匂いが感じられる。私にはわかる、美優子のことは誰よりも見ているつもりだもん。

「……まぁ、ちょっとお腹がムカムカするけどね」

 美優子のお母さんが作ったケーキはおいしかったけど、大きさがおかしかった。普通のお店で売ってるのよりも一回り大きかった上にそれを三人で食べるのはつらかった。っていうか、全部食べる必要もなかったんだろうけど美優子のお母さんがニコニコとおいしい? って聞いてくるからもういいですとは言えなかった。

……冬だから太りやすいのに。まぁ、それは自己責任ではあるけど。

 お腹がいっぱいっていうか、クリームを取りすぎたのがつらい。

 だから、人のベッドに寝るっていうのにちょっと気が引けたけど今は美優子のベッドの上に座って上半身を倒している。

「……………」

 私は悩みながら、この前のライオン君(ひぃちゃんって名前らしい)をぼけーっと見つめる。

 どうしよう。美優子は何か悩んでる、それはわかる。美優子が悩んでるのなら、力になりたい。けど、この悩みは……

 今度は机のイスに座る美優子を見てみる。

美優子は憂いとせつなさの中に魅力を感じさせる表情で膝に添えた両手を見つめている。何かを考えているのは間違いないだろうけど私に人の心を読む力はない。

(……あれ?)

 うつむく美優子を見つめていた私は何かに気づいた。

 なんだか、美優子の顔……どっかさっきと違う……? ううん違くないけど、なんだろう。

 さっき、お手洗っていって部屋を出て行ったけど、そのときとどこか違う。

(……唇、かな?)

 そう、唇だ。何か、変、さっきというよりもいつもの美優子よりも……なんていうのかな。

 ふっくらと形のいい美優子の唇。

 そこに目を奪われる。普段からたまに目を奪われることもあるけど、いつもよりも……魅力的に見えた。

(……グロス、でもつけてきたの、かな?)

 美優子の唇が蟲惑的にキラキラしている。

 美優子、化粧とかあんまりしないのにな。ううん、それよりも帰ってきてからわざわざつけてるのなんて、おかしい……よね?

「ぁ、ぁの……」

 その唇が急に動いた。ただ、消え入りそうな声で、私を見ないまま。

「あ、う、うん」

 私は上半身を起こして美優子に体を向ける。

 表情はさっきと変わっていない。不安なまま。

「あの……、その……涼香、さん…あの」

「うん、なぁに?」

「わ、わたし……あの、えっと…」

 美優子は手をもじもじとさせながら視線を右へ左へとただよわせた。私は何を言われるのかちょっと不安に思うところもあったけどでも、美優子の言葉を誠実に待つ。ちゃんとしてくれるのだから。

「今日、楽しかった、です。すごく、嬉しかったです」

「う、うん。ありが、と?」

「一日中涼香さんといられて、誕生日をお祝いしてもらって……一日中……涼香さんのこと、一人じめ、できて、すごく、嬉しくて楽しくて、今までで一番の誕生日でした」

「う、ん?」

 何が言いたいのかよくわからない。お礼、ならわざわざ言いずらそうにする理由はないんじゃ。

 と私が訝しがってると美優子は「でも……」とつけ加えた。

「わたし、いけない子です。はしたない子です。涼香さんが一緒にいてくれただけでも嬉しかったのに……それだけじゃ、やだって、思っちゃうんです。足りない、って、思っちゃうんです」

 美優子が胸の前で手を合わせて、息を深く吸った。自分の中にある決意を固めるかのように。

「涼香さん。わたし、プレゼントなんかいらないって言っちゃいました、けど。本当は欲しい、ものがあるんです。欲しい、プレゼントがあるんです」

「プレ、ゼント?」

 雰囲気に呑まれたかのような私が反芻するように言うと美優子はコクンと小さく頷き、そして、私の目をしっかりと見た。

「……キス、してください」

 

 

 いつか、こんな日が来ると思っていた。こんなことを言われる日が来ると思っていた。私はそれから目をそらすつもりはなかったし、覚悟もしていたって思う。でも、それにどう応えればいいかを真剣に考えたことはない。

 きっとそれは意味のないことだから。

 だって、言われちゃえばきっと全部吹き飛んじゃうものだから。

 張り詰めてはいないけど、穏やかじゃない空気が私たちの間を流れる。

 美優子は、覚悟を秘めながらも少し潤んだ瞳で私を見つめていた。後悔しているようにも見える美優子。

そんな美優子の瞳の中にゆらゆらと私が写っている。

「……わたし、涼香さんのこと、大好き、です。一緒にいられると、ううん、いなくても、涼香さんのこと考えるだけで、幸せになっちゃいます。でも、やっぱり話したり、一緒にいられる方が嬉しいし、ずっと一緒にいたいって思います。……学校が終って、寮に遊びに、涼香さんに会いに行って、その時はすごく嬉しいけど、帰るときはすごく寂しくて…えっと、それで……でも、また次の日に会えれば、また嬉しい、けど…ぁの、ち、違うんです、こんなことが言いたいんじゃなくて…えと…」

 言葉を選ぶんじゃなくて、自分の中に溢れている気持ちが混ざりあって美優子は戸惑いながら少しずつ言葉を発していく。

「わたし、涼香さんが、わたしのこと、好きなんだって、わかります。感じます。さりげなくわたしに気を使ってくれたり、みんなといるとき隣に来てくれたり、隠してるつもりでも調子悪いの見抜いてくれたり、涼香さんはわたしのことすごく大切にしてくれてる。それは、わかるんです」

 話し始めたときの美優子は後悔しているようにすら見えたのに今は幸せそうにしていた。けど、それもここまでだった。

「でも……で、も……時々、寂しくなっちゃうんです」

それに私は口を挟まない、挟めない。

「……涼香さんが、わたしに、キス、とかしてくれないのも、わかるんです。頭じゃ理解、してるつもり、なんです。涼香さんはわたしのこと、大好きって思ってくれてるから、だからしてくれないんだって。あっ! わ、わたしの勝手な想像ですから、あってるか、なんてわかりませんけど、で、でも……わたしは、そう感じてるんです」

 美優子の表情はころころと色を変えるけど、明るくはならない。

「でも、わたし、弱くて、すごく弱くて、涼香さんのこと信じてるのに……やっぱり、何にもしてくれないっていうのは、つらくて、すごく、苦しくて……欲しいって、思っちゃうんです。涼香さんが、わたしのこと……好きっていう、証が、欲しいって、思っちゃうんです」

 美優子は震えていた。震えて、少し怯えて、話始めたときからここにくることを後悔していたのかもしれない。

「だから、欲しいんです。涼香さんの想いの証が、プレゼントが、……キス、が欲しい、です」

 それを最後に美優子は押し黙った。

 私もベッドに座ったまま美優子を見つめる。

「……………」

 思っていた。こんな時が来るって。

 美優子が不満ともいえない不満を少しずつ溜めていたなんて。この前のお弁当もそうなんだって本当はわかっていた。

 なのにわかっていながら私は真剣に考えることなく漫然と時を過ごしていた。美優子と一緒にいるのが楽しかったから、嬉しかったから、美優子と一緒にいるってことだけを考えてその寂しさに応える方法も、答えも見つけようともしてなかった。

「……………」

 でも、今私の中に何か小さな気持ちが芽生えてる気がする。心に小波が立った気がする。

「……………」

 私は美優子から言われたことをどうしようと考えるよりも、今自分の中に生まれた気持ちがなんなのかということに思考を奪われていた。

「……や、っぱり。……卑怯、ですよね。こんな、言い方」

 それを美優子は消極的な拒絶と受け取ってしまったのか、詰まりながら、溢れそうになる涙を流れ落ちる前に指でぬぐった。

「っは、く。すずか、さん、優しいですもん。こんな言い方、したら、やだ、なんて、いえない、ですよね。ごめんな、さい。いい、です。忘れてくれて、っううん、忘れてください。わたし、涼香さんに……きらわれ…っ! えと、あの、お願い。忘れて、忘れてください……ひぐ」

 俯いてしまった美優子の瞳から、一筋の光が流れた。抑えようとしても、抑え切れなかった涙と想いがこぼれていく。自己嫌悪と、自己否定に苛まれながら。

「美優子……」

 美優子。私を好きな美優子。私の好きな美優子。

 優しくて、可愛くて、脆さと儚さと、強さを持つ美優子。その美優子が、私の好きな美優子が泣いている。

「……………」

 まだ、わからない。私は、キスや、抱きしめたりしたいっていうこと。私にとってはほとんど恥ずかしいって気持ちだけ。

「っく、ぅく…ひっぐ」

 恥ずかしい、って思う。どうしてしたいなんて思うのかも、わからない。

 ただ……

 私は胸に揺らめく気持ちに突き動かされ立ち上がった。

 わからない。頭じゃ理解できてない。それでも、私の中にあるきっと私でもわからない意思が体を勝手に動かしていく。

 美優子へ向かう一歩一歩は遅いけれど、確実に美優子に近づいていく。途中、ベッドそばに置いておいた手提げを蹴飛ばしたけど、もう私には美優子しか見えていない。

 今私がしようと思ってること。理由なんてわからないけど、それでもいいような気がする。美優子のことが好きで、大好きで【愛したい】っていう気持ちさえあるのなら。

(私は………)

「美優子……」

 私は、理由もわからないまま、決して美優子への同情や美優子の自己嫌悪を打ち消したいからじゃなく。

美優子がして欲しいからじゃなく。

 軽く美優子の手に私の指を絡ませて、

 私がしたかった、キスをした。

「…………」

目を閉じて、唇を重ねあう。

暖かい。やさしい。嬉しい。

 暖かくなる、優しくなる。体が、心が形容しようのない幸福に包まれる。

『……………』

 ただ、唇を重ね合わせるだけのキス。

 でも、長い長いキスだった。

「っはぁ……」

 私はその長い口づけを終えて、一歩後ろに下がって美優子を見つめた。

 美優子の涙はキスの間に止まってて、潤んだ瞳はきらめく星のように綺麗で、真っ赤になった頬はりんごみたいに可愛くて、ちょっと呆然とした美優子は……

「甘い、です」

 と、最初にそう呟いた。

「ケーキ、いっぱい食べたもんね」

 私の心は羽のように軽くなっていてどんなことも素直に言えるような気分だった。

 多分、キスをしなくて、でも美優子の望むようなこと、好きとかいっても、また美優子が私の優しさに付け込んでしまった。とか思ったかもしれない。

 でも、なんていったらいいのか、わからない。それになんとなくそう思うってだけで、本当にそうなのかもわからない。

 わからない、けど。全部伝わった気がする。伝えられた気がする。私の気持ちが全部。私が美優子のことを好きっていうのも、寂しくさせちゃってごめんっていうのも、そんな風に自分を責めないでっていうのも、全部。伝えられた。

(……そっか、キスってこんなことが出来るんだ)

 言葉にしなくても大切な想いを伝えられる。うまく言葉にできない気持ちも、言葉だけじゃ足りない気持ちも、伝えたいのに中々伝えられない想いも、伝えることが出来るんだ。嬉しさや優しさを、大好きな人と共有することができるんだ。

(キスってこんなに、たくさんのことが出来るんだ)

 私は心にかかっていた靄がすぅっと晴れるのを感じ、

「美優子。お誕生日、おめでとう」

 笑顔でそう伝えた。

 

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