(…………)

 わたしはベッドに座って部屋を見回してみる。

 涼香さん、帰っちゃった。

 もう帰らないと門限に間に合わなくなっちゃうし、わたしも夜は外でお食事だから、仕方ない。ケーキはお母さんで、夕飯はちょっと高いレストランでっていうのは毎年のこと。

 涼香さんが帰っちゃって寂しい。ものすごく寂しい。

 でも……

「えへへ……」

 頬を緩むのが止められない。あの、キスの後からずっとにやけっぱなし。嬉しいのが体の中から魔法の壷から溢れるように噴き出してきちゃう。

 涼香さんがいなくなっちゃって寂しいけど、寂しくない。

もらったから、好きっていう証。大好きって想い。全部、伝わってきたから。涼香さんが伝えてくれたから、あのキスで、全部。

 今のわたしは、世界中の誰よりも幸せ。こんなに暖かくて優しい気持ちを、世界で一番好きな人から貰ったんだから。

(でも、今度会ったら涼香さんきっとまた恥ずかしそうにするのかな?)

 するよね、きっと。

 わかっちゃう。なんとなくだけど、やっぱり涼香さんはまだキスとか簡単にはしてくれないって。

「あ、でも、バレンタインとかだったら、また……」

 手作りでチョコ作るなんてしたことないけど、大好きって気持ちを込めて一生懸命作るつもり。涼香さんも作ってくれたら、きっと涼香さんのほうが上手だろうけど。でも、負けないくらい想いを込める。

「あ、また甘い……キスになっちゃうかも」

 あ、口移し、とか……

 あっ! やだ、なに考えてるんだろう。

「ん……、あれ?」

 一人、まだ先のことに妄想を膨らませているとベッドの下から、見慣れない袋が顔を覗かせているのを見つけた。

 手にとって見ると、どこかで見た記憶のある赤と白のラインの入った袋。

「これ、今日いったところの……?」

 でも、あそこじゃわたし何も買わなかったし……

「あ、そうだ。涼香さんが」

 髪留め、買ってた。

 いつの間にか涼香さんの手さげからこぼれて、忘れちゃってたのかな? 

「……………」

 ちょこんと、その袋を手に乗せて見つめてみる。

別に、月曜日に渡せばいい、けど。せっかく、買ったんだもん。早く、付けてみたいよね。わたしは出かける用事があるんだし、車なんだから、ちょっと寄ってもらって、それでちょっと会うだけ、忘れてましたよって渡すだけ。

「……うん。それくらいだもん。ちょっと遠いけどよってもらっても、いいよね」

 会えなくても大丈夫って思えるけど、会える理由があるなら会いたいもん。

 ありがとうって、きっと笑顔で言ってくれる。

(……お別れの、キス、とかはしてくれないよね)

 でも、いいの。それでも、顔を見られるだけでもいいんだから。

「ふふふ」

 わたしは軽く笑うと、お母さんに頼むために髪留めをもって部屋を出て行った。

 

 

 おかえりなさい。

 涼香が帰ってきたら私はこういうだろう。それは正しい。ルームメイトが外から帰ってくれば誰だってそういう。

「……………」

 私はベッドの縁に座りながら視線をそらすことなくドアを見続けている。

 おかえり。それは普通のこと、当たり前のこと。きっと言えはする、だろう。

 外はすっかり暗くなり、そろそろ門限の時間だ。門限には帰ると涼香は言っていた。美優子も夜は家族で食事らしいから時間は守るだろう。そろそろ帰ってくるとは思う。

 言えるだろうか。振舞えるだろうか。親友として。

 おかえり。楽しかった? ちゃんと楽しませてあげられた? 手くらいはちゃんと握ってあげた? プレゼントなにあげたの?

 ……言えるわけがない。どうして好きな人が他の相手とうまくいったかなんて聞かなきゃいけないのか。

 親友ならそれはおかしくはなくとも私にはできるわけがない。

「ふふ……っ」

 自虐的な笑いをしながら自らの肌に爪を立てる。今日一日はこんなことの繰り返しだ。部屋から出ることさえほとんどなかった。

 言いたくなくても、振舞いたくなくてもそうするしかない。私にはそうするしかないのだから。

それが、涼香の側にいられ、唯一美優子に対して優越感を得る方法なのだから。

(いえる、はず。おかえりって)

 そんな自問を繰り返しながら私は涼香が帰ってくるのを待っていた。

 そして、

「ただい、ま」

 涼香が、帰ってきた。

「っ。おか……えり」

 用意していた言葉だったのに、涼香の顔を見た瞬間、断崖絶壁から突き落とされたような気分になった。

 私をみた涼香が、一瞬夢から醒めたような顔をしたから。

 夢から醒めたような顔。夢を見ていた、ということ。

 体の芯が凍った気がした。

(……誕生日、だもの)

 何か、二人の関係に進展があってもおかしくはない。

「楽しかった?」

 それでも私は、ううん。体の奥で何かが凍ってしまったからこそあっさりといえたのかもしれない。

「……うん」

 私に遠慮することもなく涼香は静かに頷く。

「よかったわね。変なこと気にして、美優子に気付かれたりしなかったでしょうね」

 あぁ、嫌だ。

「…うん。多分」

「そ。ま、それくらい当然ね」

 得意になってしまった。

「あ、私のほうはお姉ちゃんがケーキくれたわ」

 平然と嘘をつくのが。得意になってしまった。

「……………」

「……………」

 でも、何もきけない。何もいえない。何も聞きたくない。

 部屋の中に重苦しい空気だけが広がっていく。

「……………」

 誰が見ても、重すぎる沈黙。耐えることなどできないが、私には何もできない。

「あ、あのさ」

 そして、耐えられないのは涼香も同じだった。

 涼香は重い足取りで私の目の前にやってくる。

「じ、実は、さ。せつなにプレゼント、あるんだ」

「ッ!

 今、私の中を駆け巡った激情はどんなものだろう。とても一言では表せられない気持ちが体中をめぐった。

惨めになった、怒りもあった、泣きたくもなった、だけど……その中に歓喜があったのは否定できない。

どんな状況でも、どんなものでも涼香にプレゼントをもらえれば嬉しいという気持ちは否定できるはずもなかった。

「ちょっと、美優子の前で買ったんじゃないでしょうね」

「う、ううん! そんなわけないじゃない。前に買っておいたの」

 嘘だ。証拠はないけど、確信できた。きっと嘘だと。

 心にぽっと火が灯った。

 気にするなと言った。美優子のことだけを考えろといった。デート中に私のことなんて考えたら許さないといった。

 でも……

(忘れて、なかった。私の、こと)

 それは、当たり前だろうけど。でも、美優子の前にいても涼香は私のことを忘れていなかった。美優子の前で私のことを考えてくれる時間があった。

 そう思うだけで、少しだけ報われた気がする。人生最悪の誕生日が少しだけ、報われたような気が……

「あ、あれ……?」

 涼香の焦ったような声。

 それだけでまた私の心は谷底へと引っ張られていく。

 涼香が何度も手さげを漁っている。確かに、あったものを探している。

「あれ……うそ?」

 何度も何度も小さな手さげを漁る。

(………………)

 でも、存在しないものが見つかるはずはない。

「え、えっと……ご、めん。わすれ……失くしちゃった、みたい……」

「っ……」

(……私が、何したっていうの)

 こんな仕打ちを受けるほど。

 プレゼントなんていらないって言った。覚悟もしていた。でも、涼香は美優子の前で私のことを考えて、用意してくれて、すごく嬉しくて、それさえあればまだ、心が保てるような気がした。この地獄の中でもまだ生きていけるような気がした。

(した、のに……)

 一度期待をしてしまった分。痛みは何十倍にも増す。

 泣きそうだった。もう涼香のことなんて見れなくて、下を向いてしまう。

「いい、わよ。プレゼント、なんて。最初から、いらないって言ったじゃない。気にしないでって」

 まだ、こんなことが言えるのか。

「ご、ごめん……」

 やめて!! そんな申し訳なさそうな声を出さないで! そんな風に言わないで! いい! いいから!! 

 誕生日。私が生まれた日。涼香と同じ世界に生まれた日。特別な日。涼香に出会って初めての誕生日。

 あの日から、涼香にふられたあの日から燻り続けていた炎が勢いを増していくのを感じる。

「悪いって。思ってる……?」

私は怯えながら俯いて、涼香の手を弱々しく掴んだ。

「なら……」

 いや、こんなこと言っても、困るだけ。

 傷つくだけ。

「キス、してよ」

「ッ!!!

 見れもしなかったけど、涼香が息を飲んだのはわかった。

「せ、せつな……?」

「…………………ふ。冗談よ……じょう、だん」

 何が、冗談、だ。これ以上ないほどに本気だった。

 特別な日……涼香の気持ちが美優子にあるとしても、祝ってもらえれば嬉しかった。

「ね、ねぇ。離してよ、冗談、なんでしょ?」

 それだけでよかった。

「あ、たりまえ、じゃない」

 私は離さない。涼香を手繰り寄せる糸の端を弱くても決して離さない。

 一日だけで、よかった。今日だけで。一日だけ、涼香が私のものになってくれるような気がした。一日だけでもいい。私だけを見て欲しかった。考えてもらいたかった。

「ふ、変なこと、いっちゃったわね……」

 私はようやく手を離す。

 燃え上がった激情に理性や矜持という水がぎりぎりのところで大火事になるのを防いでいる。

「う、ううん。気にしてない、から」

 気にしてない……気にしてない、気にしてない!

 しかし、あまりに大きな火の前には理性や矜持という水も役には立たない。

 わかってる! そういうしかない! 気にするなんて言えるはずがない。そんなことはわかってる。

 私はまた涼香へと手を伸ばそうとしていた。

 わかってる! わかんない! 何で! どうして! 涼香が幸せなら私は……、何で美優子なの? どうして私じゃないの。今日は美優子の誕生日、祝いに行くのは当然。私だって誕生日、今日は私だけを見てもらえると思っていた。今日だけ涼香を独り占めできると思った。今日だけで……だめ、違う。涼香の気持ちは美優子にある。涼香の気持ちを無視しても意味はない。傷つくのはこっち。でも、今は目の前に涼香が……いや、だめだ。私は涼香が美優子とうまくいけば、涼香が幸せ、なら、私も……それが……それで幸せ……しあ、わせ……? 私、は? 私の幸せは? 涼香が幸せなら私の幸せ? 何で!? どうして? そんなことあるわけない!! 好きな人が自分以外の人と仲良くしてて幸せ? あんな後から出てきて、涼香を奪って……違う、後とか先とか関係ない。大切なのは涼香の気持ちで……でも、私は? 私の気持ちは……私は、私は、涼香が、涼香のことが……好き、……大、好き。今でも、ふられても、それでも……大好きなの。

 ……限界、だった。

 この数ヶ月たまりにたまった不満、妬み、嫉妬、嫉み、憎しみ、そんな負の感情が誕生日すら盗られてしまったというきっかけに爆発してしまいそうだった。

 ぎゅ。

 私はまた涼香の手を取っていた。

 傷ついても、いい。このままじゃ、壊れてしまう。

 心が、壊れてしまうのだ。

「せつ、な?」

 不安そうに私の名前を呼ぶ間に私はすばやく体を入れ替えて涼香をベッドに押し倒していた。

 そう、あの夏休みの日のように。

 私は涼香に思いのたけを爆発させるのだった。

 

 

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