「梨奈、案内してくれてありがと。悪いけど、美優子と二人にして」
「うん」
せつなは背中にいた梨奈にそう告げると、梨奈は言葉通りに後ろに下がり、せつなは部屋に一歩踏み出すとパタンと扉を閉めた。
(……何しにきたん、だろう……?)
美優子はさっき頭によぎらせた、しかし予想だにしてなかった相手の来訪に思わず、苦渋の表情で目を背けた。
正直言って、顔も見たくなかった。見たいわけがなかった。だって、顔には口がついてて、口には唇があって……唇が……涼香とキスしていた、見せ付けられたその記憶しかないのだから。
「……涼香なら、来ないわよ」
せつなは美優子に近づくと美優子に冷たく言い放った。
「え……」
その一言で美優子に頭の中に考えがめぐる。
どうして? なんていう疑問符の前に浮かんだのは
(やっぱり、涼香さんは……)
わたしのことなんて……というネガティブなものだった。
信じたい。信じたいけど、あのキスが見せつけられてる以上少しでもきっかけがあればその信頼は一瞬で崩れていく。
逆。梨奈の言葉と今まで毎日会いに来てくれた涼香がいたから少しだけ信じられそうにも思えた。それが途切れた今、来ないという一言を後ろ向きに受け取ってしまう。
せつなは俯き、自分のことすら見ることのできない美優子を悔しさを押さえるために唇を噛み締めながら見下ろしていた。
せつなもまたこんな所になど、美優子の前になどいたくはない。
美優子もせつなを見たくもないと考えていたが、せつなはそれ以上にこれから自分がすることから逃げ出してしまいたかった。
「風邪……引いたのよ。それで、寝込んでる」
「っ」
それでもせつなは責任と涼香のためという理由でこの場に止まっていられた。
(風邪。涼香、さんが……?)
美優子の表情が落ち込んでいたものから、涼香を心配するものへと微妙に変化をする。
「その様子だと、涼香のこと……嫌いにはなってないみたいね」
「………………………………きら、い、です」
誰がどう見ても本心には見えないが、美優子は自分に言い聞かせるように呟く。
「あっそ」
悔しい。こんなこという人間のためにここに来てるなんて、悔しくてたまらない。涼香にあれだけ想われてるくせに、その想いすら信じられない人間のためにこんな所にいるなんて。
(違う、涼香のため……)
せつな、美優子共に寝込んでいる涼香を頭に浮かべて別々のことを思う。
せつなは、寂しさと嫉妬と後悔を。
美優子は、審議を計りかねつつも責任とせつなとは別種の後悔を抱いた。
「自分のせいで涼香が風邪引いたのによくそんなことが言えるのね」
「……わたしのせいじゃ、あり、ません」
「あなたのせいよ。完全に、毎日こんなところまできて、しかも梨奈から聞いたけど廊下で待ってたんだって? 涼香は。そりゃ、疲れて風邪も引くわよ」
「涼香、さんが勝手にしてただけ、です」
「話を聞こうともしないのはそっちらしいじゃない」
こんな憎まれ口を言いにきたんじゃないのにせつなはそんな自分を止められなかった。そのくらい言ってやらなければ気がすまなかった。いや、その程度で気が済むわけもない。それでも少しでも言ってしまいたかった。
「…………」
美優子は反撃してこない。自分の中にも迷いがあることは自覚しているせいで涼香への気持ちをはっきりと言葉にすることはできなかった。
「……ふう。こんなこといいに来たんじゃないのに」
せつなは一つ、ため息をつくと決意を込めた目で美優子を見つめなおした。
「………あの日、私も誕生日だったのよ」
「あの、日?」
「……美優子の誕生日」
「え……?」
「ショックだった。何週間も前から涼香はケーキ焼いてくれるって言ってくれてたし、涼香の前じゃできるだけ出さないようにしてたけど涼香が誕生日を祝ってくれるのすごく嬉しかった。その日だけは涼香が美優子じゃなくて、私を、私のことだけを想ってくれるって勝手な思い込みをしてたから」
「あ、……えっと」
美優子は必死に唐突に差し出された情報を整理しようとしているが、理解しようとするのが精一杯で何も言い返せない。
せつなは、それにかまうことなく続けていく。
「……気付いてたかもしれないけど、はっきり言う」
何があろうと、世界が終ってしまうようなことがあっても、今目の前にいる相手だけには言いたくなかった言葉を。
「………はぁ、っ」
何度か息を詰まらせながらも、せつなは美優子を見据えて言い放った。
「私、涼香が好き」
「え…………?」
美優子はここで始めてせつなをはっきりと見つめた。意外そうな、さっきせつなが部屋を訪れたときのような意外そうな顔。
「その様子だと、気付いてなかったみたいね」
意外そうな美優子。
気に入らない、気に入らない、気に入らない!
せつなは小さく、しかし、この世の負の感情をすべてつめたような恐ろしい声で小さく「おめでたい」と呟いた。
「っ!?」
美優子もそれに肩を震わすが、次の瞬間からはせつなは自分の目的を忠実に果たそうとしていた。
「安心してよ。告白はしたけど、もうふられてるから。今でも涼香のことは好きだけど、別に二人の邪魔をするつもりなんてなかった。……なかったのよ」
言葉は紡いでいける。しかし、心はもうバラバラになってしまいそうだった。こんなことを美優子に話すなんて屈辱でしかない。
「でも、美優子に私の気持ちがわかる!? 楽しみにしてた! 誕生日のこと、涼香が私のことを祝ってくれる誕生日のことを! それがいきなりなくなったときの辛さがわかる!? あの悲しみが理解できるの!? 涼香に想われて、好きって言ってもらえてるあなたに!!」
そんなつもりなんてなかったのに勝手に涙があふれ出た。胸の内からいくらでもこぼれてしまう。想いのかけらが。
「しょうがないじゃない!! 抑えきれなくなったって。バカなことだってわかってても、キスくらい、少しでも、一瞬でも私のことだけを見てもらいたく、なったって……しょうが、ない、じゃない」
想いが先走って言いたいことがうまくいえない。本当はもっとソフトに、涼香のことを擁護するはずだったのに気付けば自分の話ばかりだ。
「……はは、まったく、涼香ってバカよね。あの時だってさっさと美優子を追いかければいいのに、私のことにまで気を回して。優しすぎ。……残酷なくらい。今こうなってるのだって、私に文句の一つも言わないで……バカなんじゃないの? 何でも自分のせいに考えて……」
気付けば目的とは関係なく、誰にも話せなかった。話すつもりもなかった気持ちを、一番聞かれたくない相手にこぼしていた。
「……ほんと、バカよ……」
聞いているだけでも涙が出てきそうなせつなの声にも美優子は、どこか呆けた顔でせつなを見つめるだけだった。
腕に爪を突きたてながら必死にせつなは悔しさと悲しみをこらえて美優子を見返す。
「……だか、ら……涼香さんは、悪くないっていうんです……か? 許せって……言うんですか?」
それまでを聞いているだけだった美優子が始めて戸惑いを隠しきれないながらもせつなに問いかけた。
「そんなの自分できめることよ。……涼香のこと、信じるかどうか、なんてね」
「……っ」
せつなの突き放したような言い方に美優子はまた押し黙った。
せつなもこれ以上自分の気持ちを吐露するのには耐えられず、二人の間に沈黙が訪れる。
数分後、
「……帰るわ」
せつなが口を開いた。
「言いたいことは大体言ったし、これ以上こんな所にいる理由もないから」
まだ美優子がきちんと反応できない間にせつなはドアノブに手をかけると美優子に背を向けたまま言葉を続けた。
「……涼香は、美優子のこと大好きよ。そうじゃなかったら、二週間も毎日これるはずもないでしょ。今日だって熱があってふらふらなくせに来ようとしてたのよ。例え、美優子が涼香のこと嫌いに思ってても、涼香が美優子のこと好きっていうのは変わらないわよ」
わざわざ言葉にしなくても美優子も心の底では本当はわかってるはず。それでも、音にして美優子に伝えておきたかった。言葉にすることで少しでもそれを気付かせる力になるかもしれないのだから。
そして、儚く消えてしまいそうなせつなの背中には確かにその力があった。
しかし、美優子はそれを直視するほどの勇気がなく見つめられない。
「私の話、信じるかどうかは自由よ。もっとも、涼香のことすら信じられないくせに、私の話を信じるなんてできるわけないかもしれないけど。……それじゃ」
それを最後にせつなは今度こそドアを開けた。
美優子はドアがパタンと閉まる音を他人事のように聞きながら自分の中から湧き上がる正体不明の感情に心を揺さぶられていた。