あの緊張感。
体中が水の中にでもあるかのように重くなって、熱いような冷たいような感覚が体を駆け巡った。
心のそこから緊張すると私はこんな風になるらしい。
「…………」
せつなは自分のベッドで壁に背中を預けて座っていた。私が帰ってきても、一瞥することもない。
私を世界から消そうとしている。
そうなっても仕方ないかもしれない。そうなるかもしれない。
(……でも、まだ)
今だけは、せめて今だけでも……せつなの世界に入りたい。
「……せつな」
震える心で名前を呼ぶ。
「…………」
私のことをみてくれることもなければ、反応することすらない。
いつもはそれにひるんで何もいえなかった。
私はチョコを持っている手に力を込めてベッドに近寄っていく。
木組みの二段ベッドに、白いシーツ。その上で顔を伏せ、心を閉ざすせつなはまるで廃人を通り越して死人にすら見えた。それほど、せつなは普段の輝きを失っていた。
躊躇はしたけど私は、せつなの世界になってしまっているベッドに身を乗せた。
「…………」
手の届く距離にまで来てもせつなは私を無視しようとする。
「せつな、顔、上げてくれないかな?」
「…………」
ひるまない。
私はさらに体を寄せてせつなのぬくもりがわかる位置にまできた。
「せつな……」
「っ……」
そこまでくるとやっとせつなが反応をみせる。
ただ、それは。
「まって」
私は私を見ずに私から遠ざかろうとするせつなの腕をつかんだ。
「っ!」
せつなは私を振り払おうとしたけど、私は力を入れてせつなを引き止めた。
「…………」
「……今日は、放さない、から」
「…………」
「お願い……話、させて」
「……………それ、何?」
せつなは決して私を見ることはないまま目線を私が持っているチョコに移した。
「バレンタインの、チョコ」
「……………誰に、あげるつもりなの」
雰囲気っていうのは目に見えるものじゃない。感じるものだって思う。
感じる。せつなの……雰囲気が変わったのを。静かな、静かな憤怒。声にも顔にも出さないで雰囲気だけがそれをあらわしていた。
「………………せつな、に……っ!」
パン!
いきなり、ビンタをされた。
ほっぺをはたかれたはずなのに胸の奥で痛みを感じる。
「……また、同じこと、されたい、わけ……?」
「え……?」
「……それ、とも……わざ、と、して、るの?」
意味を汲み取れない私にせつなの震えた声が響いてくる。今にも、泣きそうなくせに力がこもっている。
「私が、苦しむの、見て……笑ってるの……? 楽しんでるの?」
「っ、そ、そんなことあるわけっ!」
「あるじゃない!」
涙を振りまきながらせつなは私を射抜くように見てきた。
「そんなことされれば私がどんなこと思うか、想像できないの!? 私が傷つくってわからないの!? 楽しんでるんでしょ!? そんな顔して、本当は私のこと、笑ってるんでしょ!?」
「違う!」
「違わない! 違うんだったら……なんで、こんなことするの?? 放っておいてよ!! 嫌いになって、っていった、じゃない」
「できない……そんなの、できないよ。せつなの、こと……嫌い……になれない」
なれない。せつなを嫌いになんて……私の初めての親友のことを嫌いになんてなれない。
不安だったもん。大好きなさつきさんから離れて、寮暮らしをするなんて本当はすっごく不安だった。だけど、せつなと友達になれたから毎日楽しいって思えるようになったんだもん。さつきさんのいない世界で始めて友達になってくれたのがせつななんだもん。
「……最低、……さいってい!」
それまでほとんど私への怒りしか込められていなかった声で別の感情がのった。それは、悔しさ。
「残酷、なのよ、涼香は……それが、その優しさが……どれだけ私を傷つけていると思ってるの?」
わからないわけじゃない。私はせつなの傷口に優しく塩を塗りこんでいる。わかってないわけじゃ、ない。
「ふ、ふふ、どうせ、涼香は自分も悪かった、なんて、思ってるんでしょ……そうよ! 全部涼香が悪いのよ! 私にあんなことされたのだって、全部涼香が原因! 涼香、が……優しい、から……残酷、だから」
せつなの腕を握る私の手を震えていた。せつなの奮えが私にまで伝わってきている。
「……………」
話しようって思ってたはずなのに、声がでない。せつなの言葉が意志を持って私のことを金縛りにする。
「は、あは……ははは」
乾いていて、狂気的な笑いを浮かべるせつな。
もはやなにもできなくなっていた私は、黙ってせつなを見つめていた。
覚悟してたのに、何も言われなくても、何を言われても、しっかりと私の話をするんだって決めてたのに。
決意は溶ける。チョコレートよりも簡単に。
「……わ、か、ってる、よ」
でも、溶けた中にもまだ私の意志は残っている。
「わかってる。私が、せつなのこと……傷つけてるって……わか、ってるよ……」
「……わか、ってないわよ……」
「ううん、わかる」
この一言は、この部屋に入ってからの私とは全然違う響きを持った。
今までの言葉だって心からの言葉じゃなかったなんてことはないけど、それでもこれは特別。
「……せつながどれだけ、辛いか、苦しんでるか……私がどれだけせつなのこと、傷つけてるか………」
ただこれを言いたくはなかった。さつきさんのことを思い出してしまうこと、私の地獄をせつなに味合わせているのが自分だって言葉にすること、
「……わかる」
そして、なによりせつなが言われてどれだけせつなの心を無神経に逆なでするかをわかるから。
「……ふ、ざけない、で」
せつなはずっと私に怒りをぶつけてきていた。あの誕生日からずっと。だけど、このふざけないではそれまで以上に私に対する激怒にあふれていた。
「は、はは、わかる? 私がどれだけつらいかわかる? 傷つけてるかわかる?」
信じられるわけがない。私だってあの時はこんな気持ち、誰にもわかるはずがないって、自分が世界で一番不幸なんだって思ってたから。
「ふざけないで! わかるわけないでしょ! この、気持ちが!! 涼香、なんかに、っはぁ、……わかる、わけ……」
わかる。わかるから、こんなこと言いたくなかった。だけど、いわなきゃだめな気がした。隠していたいからって気持ちを隠したらせつなに私の想いが伝わらないから。
「そんな、でまかせで……口先、だけで……私を、これ以上……踏みにじらない、で……」
「ごめん、でも……嘘じゃない、せつなの、気持ち……わかってる、って思う」
「っ!」
(……?)
不意にせつなをつかんでいない手に違和感を感じた。持っていたチョコがなくなったんだって気づいた頃には
バン!!
大きな音を立てて、チョコが壁にたたきつけられていた。
「あ………」
入れ物だけで包装をしてなかったチョコはその衝撃ではじけて床にバラバラとスローがかかったように落ちていった。
「ふざけないで!!」
そして、そのまま射殺さんばかりの視線で私を捉えた。
「何がわかるの!? 何をわかるの!? わかるわけないでしょ!!」
「……わかる、」
パン!!
今までで一番強いビンタをされた。
だけど、私はすぐに視線をせつなに戻して。
「わかる、よ」
ひるまずにせつなを見つめた。
「っ……」
逆にせつなはそこで初めてひるんだ。私に気圧された。
「………………………………」
長い、長い沈黙。
「………………でて、って」
それを破ったのはせつなだった。意図的に感情を抑えた抑揚のない声。
「……………一人に、して」
ひさしぶりに【せつな】を見たような気がした。
私はゆっくりとせつなの手を離す。
「……うん」
私はそういったあと少しせつなの前に座った。
「だけど、これだけは言わせて……」
「…………」
俯いてしまったせつなは私に反論してくることはなかった。
「…………美優子に話にいってくれて、ありがとう」
「…………」
そうして、沈黙を守るせつなを背にして私は部屋から出て行った。