この日は一年でも特に特別な独特の空気が流れている。それは二月に入ったときくらいから始まって、日を追うごとにいろんな感情のうねりが学校や寮を満たしていった。
日本に住んでいれば、誰であろうと大なり小なり心が高ぶってそれに乗じていろんな思惑が交差する。
私はそれに乗ろうとしたわけじゃない。ただ、きっかけが欲しかっただけ。
せつなと話せるきっかけが欲しかっただけ。
せつなの心に私の気持ちが届いたのかはわからなかった。だけど、言えることは言ったと思う。区切りにもならないってわかってるけど、それでもせつなに私の言葉を伝えた。
あの日、部屋に戻っても出迎えの言葉はなかった。それを期待してたわけじゃないけど、やっぱり悲しった。
だけど、あの壁にたたきつけられたはずの私のチョコはなくなってた。どうしたのかはわからないけど……もし食べてくれてたのなら、それは少しはせつなが私のことを……許してくれたっていうのかわからないけど、届いたって思う。
そして、せつなが私をどう思うとしてもきっと今の時点じゃ私からせつなにできることはなくて、なによりも私は他に気にしなきゃいけない相手はいる、
そう、美優子。
せつなのことを軽んじてるわけじゃない。でも、私はやっぱり美優子のことを気にしなきゃいけない。ううん、気にしたい。
私は美優子が好きなんだから。誰よりも笑顔でいて欲しいから、笑顔にさせたいから。
美優子が来てくれた日から私たちは挨拶くらいしかしてない。
私はせつなと話をしなきゃ美優子に向き合えなかったし、美優子も自分の中で整理がつけられてないのか、寮に来てくれくれることもなく学校ですれ違うくらいだった。
せつなと話をしたからって私が美優子に向き合う資格があるのかはわからない。それは美優子が決めること。ただ資格がなくたって私は美優子と話がしたい。一緒にいたい。なかったらもらえるように努力をする。
凍りついた部屋から一歩出ると、そこは別世界のような空気が漂っていた。右も見ても、左を見ても、甘い話題ばかり。廊下も、食堂も、身近な通学路も。
それにこめる想いの量には人によって差があるのかもしれない。けど、量なんか関係なくそこにこもってるのは大切な想い。
愛、友情、友愛、親愛、感謝。
色々詰まってると思う。
私だって迷いの中で作ったものだとしても、込めた想いは本物。
その想いと一緒に言葉を伝えたい。
私の想いのこもった言葉を。
ただ、
「涼香、さん」
一人で登校をしていた私は校門の前で美優子に名前を呼ばれて一瞬足を止めた。
日が日なだけあって、校門の前には大勢の人がいたけど私は美優子を、美優子は私を一目で見つけてお互い惹かれるように向かっていった。
「美優子……」
おそらく、今周りにいる人たちとは一線を引いた世界を作り出して私たちは見つめあった。
制服にコートという姿で私を見つめる美優子の瞳は、若干の戸惑いと固い決意が込められている。
相思相愛といえる中なのかもしれないけど、私たちの間に流れる空気はそういう間柄にある空気でも、喧嘩をしているときのような険悪なものでもない。
あるのはお互いに戸惑いと相手を想う心。
「涼香さん」
「うん……」
「あの、今日の、学校が終わったら、会ってくれませんか? お話、したいです」
「うん、私も美優子に渡したいもの、あるから」
「……はい。じゃあ、放課後、会いに行きます、から」
「うん、まってる」
会話はそれだけだった。会話が終わると美優子は失礼しますと頭を下げて校舎は去っていた。
私は、
(……目、あわせてくれなかったな)
とそのことを少し悲しく思いながら美優子の背中を追いかけていった。
一日は早いようにも感じれば長いようにも感じられた。
放課後の教室、会いに行くとしか言われなかった私は自分の机で美優子に待っていた。
その間、少し考えることもあった。
クラスや学校全体がバレンタインの空気になっている中、私はその中に溶け込んでいた。せつなとのことはほとんどの人がある程度は考慮してくれていてせつなのことは触れない。だけど私はその中で、いつもと一緒だった。
ううん、バレンタインに限らずあの誕生日があっても私はほとんど何にもないように振舞った。
振舞えた。振舞えてしまった。
私にとっては当たり前なはずなのに、これってきっと悲しいこと。とても、友達と笑い会える気分じゃないのに、自然といえなくても無理に笑ってるわけでもないの。
だって、こうしないと周りに心配かけちゃうから。
……余計なこと言われるから。
触れたくないことに、思いを浮かべたくないことを思い起こされるから。
だから、私はどんなときでも笑って、なんともない振りをしてきた。
仮面をかぶり続けてきた。
初めて弱みを見せたのはせつな。割れた隙間から本音がこぼれた。
次は、美優子。初めて、仮面をはずした。誰にもいえなかった心を打ち明けた。そして、美優子はそんな私を受け止めてくれた。
だから、特別なんだって言うつもりはないよ。でも、やっぱり美優子は特別なの。
今日、これから美優子が何をいうのかはわからない。
私がするのは美優子を正面から受け止めて、そして、私の今までの感謝と今の想いを素直に伝えること。美優子の心に届けること。
(また伝えるよ、好きって)
繰り返しかもしれない。これからも繰り返すかもしれない。それでも好きって伝えるのは大切って思うから。
「涼香さん……おまたせしました」
伝えるよ、美優子に。何度でも私の気持ちを。
私は待ち望んでいた声を耳にするとゆっくり顔をあげて、今度はしっかり私を見てくれる美優子を見上げるのだった。
「涼香さんの、お部屋、行ってもいいですか?」
「……うん」
教室で話したのはそれだけだった。
私と美優子は並んで歩きながら、教室から寮へと向かっていく。
放課後になってもおさまらないこのお祭りのような雰囲気の中、その中に溶け込めなくなった私は美優子と共に歩いていく。
「あの、涼香、さん」
校舎から校門までの裸になった並木道の間、ずっと難しい顔をしていた美優子が口を開いた。
「……うん、何?」
「朝比奈、さん。どうしてるんですか?」
「っ。え……?」
急に発せられた美優子の言葉に私は息を飲む。まさか、美優子がここでせつなのことを言ってくるとは思わなかった。
「種島さんから、聞いたんです。涼香さんの部屋に戻った、って」
「そう、なんだ」
「お話、するんですか?」
「う、ううん。ほとんど、してないよ」
「そう、ですか」
美優子はうなづくと、そのままうつむいてしまった。そのせいで表情が見れなくて何を思っているかは推測できない。
「すみません、行きましょう」
美優子が止まってるせいでそこから動けなかったけど美優子がそういうと私の前を歩きだした。
「あ、うん」
私はすぐに美優子に並んでまた無言で寮へと歩き出した。
今度は足を止めることも、口を開くこともしないで朝から変わらない騒がしさを見せる通学路を帰っていった。
(あ……)
寮の玄関を通った瞬間、私はここでやっと重大なことに気がついた。
(せつなに、言ってない)
朝から美優子のことしか考えられなくて忘れていた。せつなは学校が終わると部屋にこもってご飯とお風呂以外じゃほとんど部屋から出ることはない。すでに帰ってくかどうかはわからないけど、もしいたら、美優子と鉢合わせする。
どうして、そんな当たり前のことに考えが及ばなかったんだろう。でも、ここまできて美優子に部屋はダメだなんていえない。
私は胸をどきどきさせながら、表面上はなんともないように部屋に向かっていった。私と美優子の微妙な空気をみんな知っているのか、視線は感じても誰にも話しかけられることなくすぐに部屋の前に着いた。ついてしまった。
美優子は……なんともないの? もしかしたらせつなと顔を合わせることになるかもしれないのに。
そういえば、さっき気にしてた。せつなはどうしてるのかって。あれって、もしかして今日いるかってことだったのかな? だとしても、もうここまで来たら……
「? 涼香さん?」
ドアノブに手をかけたまま固まる私を美優子が呼ぶ。
だめ、今は余計な……余計じゃないだろうけど美優子のこと以外を考えちゃだめ。どうせ、今いてもいなくてもせつなはこの部屋にいるんだから。
カチャ、
私は意を決するとドアをゆっくりと開けた。
(っ!!)
いた。
あけた瞬間、私の目にせつなの姿が飛び込んできた。
帰ってきたのに変わらない制服のままで、いつもとは違ってテーブルの前で……こっちを見ていた。
「おかっ……美優子」
(え……?)
せつなは私を見た瞬間、おかえりといいかけ、私の隣にいる美優子を見た瞬間そっちに意識を奪われた。
『…………』
三人とも黙って私はせつなを、せつなと美優子は黙ったまま互いに見詰め合った。
(おかえり、って言おうとした?)
せつなが部屋に戻ってから一度もそんなこと言ってくれなかったのに。昨日の、ことが届いた、の?
私はそれにばかり気をとられて美優子とせつなが何を思って見詰め合ってるか考える余裕もなかった。
「……朝比奈、さん」
口を開いたのは美優子。重苦しい声ではっきりとせつなのことを呼んだ。
「……何、美優子」
感情ののらないせつなの声。
「涼香さんと、二人きりにしてもらっても、いいですか……お話、したいんです」
敵意、じゃないけど美優子の言葉はせつなにとって容赦なかった。せつなの心をえぐる言葉なのはわかっているはずなのに。
「………………好きに、して」
せつなは長考したあと立ち上がると、私たちのほうに歩いてくる。
「せつな……」
名前を呼ぶべきじゃない。そう思ったはずなのに、勝手に口が動いていた。
せつなはそれにすぐには反応を示さないで部屋に足を踏み入れた私と美優子の横を通り過ぎようとして、
「っ!」
一瞬だけ、私に視線をくれた。
その瞳に何か感情がこもっていたはずなのに今の私にはそれが何かをわかることができなかった。