一年前、二年生になるのなんて遠い未来のことと思っていた。
だから二年生や三年生の先輩は同じ寮に住みながらどこか遠い存在のように感じていたし、時が経てば自分もそうなるとわかってはいても結局その実感を得ることはないまま気づけば一年がすぎて、
「あ、朝比奈せんぱい」
自分も先輩と呼ばれるようになってしまった。
地下の浴場へ向かう廊下を歩いていた私は背後から声をかけられて振り返った。
「月野さん」
小走りに私へと近づいてきたのは、あの入試の日に出会った少女、月野陽菜さん。あの日には半泣きでもうだめといっていたけど実力なのか、運がよかったのかみごと合格して、まだ学校の始まる前、四月の頭にはこの寮に移り住んでいた。
「先輩、これからお風呂ですか?」
「うん」
「えへへ、私もなんです。一緒にいってもいいですか?」
「いいもなにも、すぐそこじゃない」
この寮に住む人間は基本的に中学以前の知り合いがいることは少ない。だから、普通は同室の人間と人間的に合わないということでもない限り同室の人間とはじめは関係を作っていくものだけど彼女は、入試のときの世話もあってから何かと私のそばに寄ってくることが多かった。
まぁ、慕われるのは悪い気はしない。
(にしても、この子はお風呂平気なのね)
私なんて、来たときは裸を見られるのに結構抵抗あったりしたからなるべく人のいない時間を選んだりしてたのに。
もっとも、当時は涼香が私の意向に関わらず付きまとってきてたから、見られないということはなかったけど。
「…………」
「? どうかしたんですか?」
「ううん、なんでもない」
また、涼香のこと考えてたか。
人前ですら涼香のことを考えてしまうのは情けない話と自覚しつつ私は月野さんと浴場へ向かっていった。
一緒に来ると、なぜか帰りも一緒になることが多くて、この日も帰りは月野さんと一緒になった。
「そういえば、明日入学式ね」
「はい。緊張します」
「別に緊張しなくてもいいじゃないの。ここに住んでればもう生徒になったのと同じみたいなんだし」
「それは、そうなんですけど。私なんてまぐれで受かったようなものだし、これから大丈夫かなって……」
月野さんは不安そうに顔をうつむけた。
「大丈夫って無責任にはいえないけど不安よりも、もっと楽しいこと想像したら? 憧れてたんでしょ?」
「は、はい! そうですよね!」
さっきまで不安そうだったのに今度は一転目を輝かせる月野さん。まだ、ちゃんと話すようになって一週間程度だけどなんというか感情の波が大きい子だ。
にしても一つ下なだけなのにずいぶん偉そうなことがいえる自分に少し驚く。今まで年下との交流なんて小学校以来なかったって言っていいからこんな風に振舞える自分がいるなんて知らなかった。
「あ、そうだ聞きたかったんですけど」
「何?」
お互い部屋のあるのは上の階なので当然階段へ向かっていた私たちだけどその階段の少し手前で月野さんは足を止めた。
そして、あるものを見つめて私にとって決して愉快ではない言葉をつむぎだす。
「この部屋ってなんなんですか?」
「っ!?」
それは、以前…雫ちゃんのときの罰で涼香と一緒に整理させられた倉庫だった。一瞬でそのときのことが頭によみがえってくる。
涼香と二人きりで閉じ込められて……今思い返せば涼香とあんなに密着したのはあの時が最後、だ。あの時もすでに美優子に負けてるって感じてはいたけど、それでも涼香のぬくもりを感じられてすごく嬉しかったな。
あれが最後……だったんならなんでもっとちゃんと覚えておかなかったんだろう。
涼香の熱を、涼香のにおいを、涼香を……
「さぁ? 倉庫みたいだけど、入ったことはないからよく知らない」
「そうなんですか。へぇ」
十分に納得のいく答えではないだろうけど、そこまで気にすることでもないはずなのに月野さんはまだ足を動かさない。
(やめて……そんなところのことなんて気にしないでよ)
思い出しちゃうから。余計なことを考えちゃうから。
「そうだ、月野さんよかったらこれから私の部屋に来ない? お菓子と紅茶でお祝いしてあげるから」
「え!? い、いいんですか!?」
こんな風に彼女を誘うのは三回目だ。この子は喜んでくれるみたいだけども、誘うときは私の都合だ。こんな風に涼香のことで勝手に沈んでしまっているときや、話をそらしてしまいたいとき、慕ってくれる後輩を利用していると思うと自己嫌悪に陥る。
「年長者の誘いは素直に受けておきなさい」
わかりながらやめない自分には虫唾が走る。
「は、はい!」
私の部屋ということは当然涼香がいる。二人きりということにはなれているが、ご飯やお風呂が終わって就寝時間までの間は私のもっとも苦手な時間だった。毎日他の部屋に行くこともできないから必然的に涼香と二人きりになることが多くなってしまう。
「はぁ、やっぱり朝比奈先輩の紅茶っておいしいです」
だから、こんな風に利用していることに虫唾が入ったとしても誰かがいてくれるのはありがたかった。
「あーあ、陽菜ちゃんも紅茶派なんだ。緑茶のほうがいいと思うけどねぇ」
涼香もこうしていたほうがいいって思うし。私と二人きりでいるよりも、口数も多くなる。
……それに涼香の声の楽しそうな声を聞けるだけで、私も……嬉しいから。
「緑茶も嫌いじゃないんですけど、紅茶は香りがよくて好きなんです」
「そう、なかなか見る目があるわね。何か、好きなのとかある?」
「うーん、あんまりこだわりはないんですけど。そうだなぁ、種類じゃないですけどローズマリー入れると香りがよくなって好きかな?」
『っ!?』
私と涼香に囲まれている月野さんは用意したクッキーを手に取りながら無邪気にそういった。
その言葉に私は持っていたカップを落としそうになり、涼香は悲しげに目を伏せた。
それは私たちの間ではタブーなのだから。
「? どうかしました?」
部屋の空気は一変してしまったが彼女に罪はない。いや、そんなことよりも今は普通を装わなければ。変にかんぐられてしまわぬように。
「ううん、なんでも。そうなの、でも私はちょっと苦手ね」
「あ、そうなんですか。残念です」
何も知らない彼女に罪はない。ないのだ。今日彼女をここに連れてきた後悔も、何がすきなの? と聞いた後悔も今は隠そう。
心ではそう思うのに、私も涼香もそれからは口数を少なくしてしまった。それでも月野さんは気づかないのか楽しそうにしており、時間はすぎていく。
そして、そろそろ就寝時間近くになったころ。
コンコン、カチャ。
ノックがするとこちらの返事もまたずにドアが開けはなれて
「失礼します」
透き通りながらも不機嫌そうな声が聞こえてきた。
「……やっぱりここにいた」
入ってきたのは長い髪の少女。整った顔で、眼鏡の奥からするどい眼光で部屋にいる私たちをにらみつけてきた。
「わっ、っと……渚ちゃん」
その少女の名前は水谷 渚。この子も一年生で月野さんのルームメイト。
水谷さんは一通り私たちを見つめると、真っ先に月野さんに向かっていってさっき私たちをにらんだのとは比べ物にならないほどに眼光を鋭くした。
「もどるわよ。もう時間」
「えー、まだ大丈夫だよー、ちゃんと時間には戻るから」
「この前もそう言ってたわ」
「だ、だから今日はちゃんと……」
月野さんと水谷さんは私と涼香を無視して言い争いをする。
解説しておくと、今は就寝時間のことで二人は論争をしている。この寮では就寝時間が決められており基本的にそれ以降は他の部屋に行ってはいけない。
もっとも……
「ま、まぁまぁ渚ちゃん。別に宮古さんもそこまで厳しくしないし」
そう涼香の言ったとおり、あまり遅くなったりしたのがばれると怒られたりはするけど五分や十分程度なら大目に見てくれる。
「少しくらいなら大丈夫だってば……あ、ほら渚ちゃんも紅茶飲む?」
ただ、この水谷さんのことをそれほど理解しているわけではないけど涼香のこの提案を飲むような人間ではないと思う。
「…………」
その証拠に今度は月野さんではなく先輩である涼香にも容赦のない目をしてきた。
「先輩たちがそんなだから、陽菜が増長するんです!」
「っ!!」
「陽菜、来なさい」
あまりの台詞に私たちは動けないでいると水谷さんは月野さんの首の後ろをつかんで引っ張った。
「わ、わかったよぅ。すみません先輩、失礼しますね」
「あ、うん。片付けはやっておくから」
「陽菜」
「わ、わかったってば」
母親が駄々をこねる子供を連れて行くみたいに月野さんは水谷さんに連れて行かれてしまった。
「…………」
残された私たちはしばらく呆然とする。
どちらともなくずっとカップに残っている紅茶を一口飲むと涼香が口を開いた。
「すごい、よね。渚ちゃんって」
「そう、ね……」
「先輩風吹かせるつもりはないけど、私たちにあの態度できるのは、真似できない、かな」
「……まぁ、来たばっかりで緊張してるんでしょ」
「ま、そうかもしれないけど。……増長とか普通は出てこない言葉じゃない」
「そう、ね。……少なくても私は言ったことないし」
私は二人がいなくなった途端歯切れ悪くなったのを寂しく思いながらも、変わった後輩が入ってきたものだと思うのだった。