誰にだって触れられたくない過去がある。

 それは小さな頃の恥ずかしい思い出だったり、自分でも嫌気がさすようなくだらない意地だったり。情けなくてたまらないようなことだったり、多かれ少なかれ誰にだってそういうものはあるはず。

 私にだって……ある。

 それは遠い遠い昔のこと。生きていることすらつらくてたまらなくて、自分が生きてちゃいけないんだなんて小さいながらも思っていたような気がする。

 その思い出……トラウマを思い出すことはない。その上には何重にも思い出を重ねて思い出したくないものに蓋をしてきたから。

 はじめの蓋はさつきさん。私をあの地獄から連れ出してくれて、大げさに聞こえるかもしれないけど、生きてていいんだって思わせてくれた。ううん、大げさじゃない。さつきさんのおかげで私は今生きているってはっきりいえる。それから、さつきさんとの思い出をずっと積み重ねた。

 さつきさんのところに来てから私の人生は始まった。楽しいことや嬉しいこと、生きててよかったっていうことをさつきさんが教えてくれた。

 さつきさんはいつでも私のことを大切にしてくれた、守ってくれた。

 最初なかなかなじめず、下を向くことしかできなかった私を優しく受け入れてくれて、まだ社会人になってすぐで大変だろうにお休みの日はいっつも私と一緒にいてくれた。私のために何かをしてくれる人がいるっていうことがすごく嬉しかった。

 ……結婚したことは悲しかったけど、それでもさつきさんが幸せになるっていうのは私も嬉しいことだった。みじめだったけど、さつきさんが私をすごく大切にしてくれるのは変わらなかったし、さつきさんが大好きっていう私も変わってない。

 それはずっと変わらない。変わるはずがない。

 例え、絶対にないって断言できるけど本当にもし、さつきさんが私のことを好きじゃなくなっても……嫌い………になったとしても私はさつきさんのことを誰よりも大切って思う。それは絶対に変わらない。

 …………変わらないって思っていた。

 

 

 地獄から救われたとき私には唐突だった。

 ある日突然、さつきさんが家にやってきたかと思うとあの女………………母親、とすごい喧嘩をして……いきなり私を抱きかかえたかと思えば車に乗せて、そのままさつきさんの家に連れて行かれた。

 唐突に地獄が終わりを告げたように、物事というのは唐突にやってくるんだ。

 ピンポンパンポーン。

『ん』

 平日の夕方。そろそろご飯に行こうかなと考えるような時間、放課後に来ていた美優子も帰ってせつなと二人で自然で不自然な時間を過ごしていたとき。

 寮内放送を告げるチャイムがなった。

 ほとんどの人が自分に関係があろうとなかろうとこれがなると耳をそっちに傾ける。聞き逃してても自己責任といわれてるからこれだけは以前から変わらない。それに私はさつきさんから寮に電話がかかってくるから他の人よりも集中して聞く。

「二年組 友原さん、電話が来ているので管理人室に来なさい」

 私、か。

「電話、だって」

 私が聞いていたことはもちろんわかっていただろうけどせつなはわざわざそう口に出した。

「うん、行ってくる」

 私も軽く答えると立ち上がって部屋から出て行った。

 さて、さつきさんだろうけど何のようだろ。まぁ、用なくてもかけてくるけどね。

「あ、涼香、電話だって」

「あ、うん、知ってるありがと」

 ケータイ買った方がいいのかな。いつまでもこれじゃ宮古さんにも迷惑だろうし。……それにあれば美優子といつでも話せるようにもなるし。

 なんて、雑多なことを考えながら数分で管理人室に着いた。

「失礼しまーす」

 軽くノックしてから返事もまたずに入っていくと宮古さんは電話の前で待っていてくれた。

「さつきさんですか?」

「えぇ」

「いつもすみません」

「ま、これも仕事だから」

 儀礼的な言葉を交わして私は受話器をとって通話ボタンを押した。

「はいはーい。なに〜さつきさん」

 できるだけ明るくそう告げると、いつもならちゃんと挨拶をしろと手厳しいながらも当然のことを言われるんだけど……

「……………」

 なぜか沈黙が帰ってきた。

「? さつきさん、電話変わったよ?」

「……………」

(??)

 どうしたの? 電話してきたくせに、何も言ってこないなんて。

 私は今がちゃんと通話になってるか電話の状態を確認したけど、ちゃんと通話になっている。

「もしも〜し」

「……………」

「用ないんだったら切るよ?」

 それでもう一回こっちからかけなおして見ようかな? それで電話に出るんなら問題ないってことだし。

 と、私はそんなことを考えるほどじれていたときだった。

「………………………………………………………………すず、か?」

 最初に思ったのはあれ? さつきさんと違う声だなってこと。

 そして次の瞬間には

「っ!!!!!!!!!!

 ガチャン!! 

 壊れるんじゃないかっていうほどに激しく受話器をたたきつけた。

「っ!? 友原、さん?」

 当然、その様子に宮古さんは声をかけてくる。

「……………電話、さつきさんからだったんですか?」

「え、えぇ?」

「話、しました?」

「した、けど……どうしたの?」

「…………電話、もう取り次がないでください」

「え?」

 何が起きたかわからないまま宮古さんは呆けたように私を見つめるけど、私は無言で部屋を出て行った。

 震えだしてしまいそうな体を必死に押さえ込んだまま。

 

 

「……………」

 何も考えられない。何も考えたくない。

 私は宮古さんの部屋を出て、ふらふらと力のない様子で部屋に向かっていっていた。

(………………な、んで)

 わけ、わからない。わからない、よ……

 ダメ……考えられない。

 気を緩めるとそのまま体が崩れ落ちちゃいそう。心の中に黒い気持ちがじわじわと広がっていく。胸の中に渦巻いて体と心を蝕んでいく。思い出の中の大切なものが薄れていって、代わりに……

「っ……!

 立ちくらみ。

 体が心に耐えられなくなってふらふらと壁に寄りかかった。

 肩を結構強くぶつけたはずなのに全然痛みを感じない。いや、感じてる余裕がない。

「すーずかちゃん」

 そのまま再び歩き出すことすらできない私の背後から、梨奈の声がして……

 背中に軽く触れられた。

「ひっ!!?

 それだけだったのに私はひどくおびえた声を出して振り返ると同時に大きく後ずさった。

「っ!? す、すずかちゃん?」

「り、な」

「ど、どうしたの?」

 梨奈としては自分の存在を知らせるために私にただ、軽く触れただけなのにこんな反応を見せる私に目を丸くしている。

「ご、ごめん……」

「う、ううん。気にして、ないけど……どうしたの?」

「……何でもない」

「で、でも……」

 おせっかいなところがある梨奈ではあるけど、こっちが触れて欲しくないことを敏感に察知してそのことを優しく見守ってくれる。けど、今日の梨奈はめずらしく口に出してきた。

「……すごく、怖い顔、してるよ」

「あは、……そんな、ことないよ」

「…………涼香、ちゃん」

「ごめん、いくね」

「あ………」

 会話なんてできる気分じゃない。気分っていうよりも精神状態じゃない。私は心配そうにする梨奈をよそに部屋に帰っていった。

 無言でドアを開けて部屋に入る私。

「おかえり」

 いつものになってしまったせつなの空疎な出迎えの言葉。

 それにすら反応できない。

「……涼香?」

「…………」

「どう、したの?」

 あまり聞くことのないせつなの戸惑いを持った言葉。

 せつなも、二月に美優子と仲直りをして以来、普通の会話はしてもそれ以上、特に私に関して突っ込んだことを言ってくることはない。

 なのに、せつなは聞いてきた。

 ただの友達の枠から外れることをしようとしてこなかったせつなが。

「……………」

 私の様子が梨奈やせつなに沈黙することを許さなかったんだろう。

「せつなには、関係、ないから。……黙っててよ」

「っ」

 こういえば、聞けないでしょ。まして、せつなには……

 それが酷な言い方だというのはわからないでもなかったはずだけど、そんなことには気が回るはずがない。

 私はベッドに上がるとその隅にひざを抱えて座った。

「…………」

 せつなは何も聞いてこなかった。

 しばらくして、せつなはご飯を食べにか出て行って私一人が部屋に取り残される。

(な、んで……?)

 電話を思い出して、涙が出てくる。恐怖と絶対的な喪失感。

(どうして……?)

 さつきさんから電話、だったんでしょ……? なのに、なの、に…………

 記憶の奥の奥にずっと閉じ込めていたものが浮き上がってくる。

 忘れようとしてきた。ずっと忘れようと、忘れたくて、でも……できなくって、心に真っ黒の染みを作っている。それはどんなに別の思い出を積み重ねても、重ねても一番底にすくった闇は決して消えることはない。

「っ!!!?

 ひざを抱える手に力が入って痛いくらい。でも、もっと中が痛い。胸が、心が。

「な、んで……」

 あの、女、の……

 さつきさんからの電話だった、のに……

(どう、して……どうしてなの? さつき、さん……)

 

「………………………………………………………………すず、か?」

 

 涙を流す私の耳にあの声がリフレインされる。

 忘れられない、忘れたい記憶。恐怖の象徴。絶望の始まり。

 そう、電話から聞こえてきたのはあの、女……

 母親の声、だった。

 

 

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