結局ご飯も、お風呂にすら入らないで私はベッドで丸くなった。

 せつなはお風呂から帰ってきた後に一言だけ、お風呂いいのかと聞いてきたけど私は小さくいいとだけ答えた。

 そして、夜がやってくる。

 私はベッドの中で震えていた。

 心細くて体を抱くけど、そんなの何も意味はもたず心は内側からどんどん崩れていく。

「っ……」

 わけがわからなかった。

 冷静になれるはずのない頭でも母親が私の居場所を突き止め、電話をしてくるというのは理由はともかく行為としてわからなくはないと思っていた。

 私がわからないのは……

(どうして……さつきさんが)

 宮古さんはさつきさんと話したって言ってた。そこに嘘があるとは思えない。その理由もない。

 つまり、あの女はさつきさんの家にいて、初めさつきさんが宮古さんと話しそれから電話を代わったということ。

 さつきさんの許可、どころかさつきさんの協力がなければできないこと。あの女が妹であるさつきさんの家を知っていることはさすがにおかしくない。もしかしたら、私のいないところで会っていたことだってあるのかもしれない。

 ただ、そうだったとしてもさつきさんはそれを私に勘付かれることもなかったし、そもそもあの女のことを私の前で口にだすのは極力避けていた。

 さつきさんはあの女から私を救ってくれた。その後も守ってくれてたんだと思う。想像でしかないけど、母親が私に会わせろといってきたことだってあってもおかしくない。そういうものからきっとさつきさんは私を守ってくれた。

 それだけじゃない。

 今でこそ、あの女の記憶にほとんど悩まされることもなく日々を過ごしていたけど、さつきさんの家にきたころはひどかった。

 ちょっとしたことでも、あの、虐待のことが思い起こされて泣き叫ぶこともよくあった。夜なんか、暗い部屋で一人になると唐突に思い出されて涙が止まらなくなった。

 そんなときさつきさんがいつも助けてくれた。優しく抱きしめてくれて、大丈夫って私が落ち着くまで手を握ってくれた。

 ただ怯えるしかできなかった私はそうされるだけで、むき出しになった傷を優しく包まれたような気になって心を保つことができた。

 辛いとき、苦しいとき、泣き出したいとき、いつでもさつきさんは私の手を握ってくれた。

 なのに………

 うら、ぎった……

 あの女にここのことを教えて、しかも協力して電話をかけてきた。

「っ……」

 頭に声が響く。思い出したくなかったのに。ずっと押し込めていたのにそれを押さえつけていた、【さつきさん】という存在が消えて噴き出してきた。

 今まで思い出されるようなことがあったとしても、さつきさんが私の味方だったから、その思い出があったから下にある母親にまで到達することがなかった。

 なのに、その私を守っていたさつきさんも、さつきさんとの思い出もすべて消えてしまった気がした。

 自分の中にぽっかりと大きな穴が開いたような喪失感。

 十年近い思い出がいっきになくなってしまったような気になって、そのなくなった先にトラウマが剥き出しになって風にさらされる。それはどんなに小さな微風でも私の心はそのたびに痛めつけられる。

(……い、や)

 体が震える。傷が痛むたび、さつきさんが私を裏切ったという事実を認識するたびに私はベッドの中で体を抱えて震えるしかなかった。

 怖い、怖い、怖い怖い怖い怖い怖い。

 どうして!?

 さつきさんは私を助けてくれたのに! あの女のところから連れ出して、地獄から救ってくれたのに! ずっと私のことを大切に思ってくれてるって思ってたのに! どんなことになったって私を助けてくれるんだって思ってたのに!!

 さつきさんがいるっていうだけで私は大丈夫なんだってどこか無意識に思っていた。

 何があったって最後に【さつきさん】がいるって思っていた、のに……

 どうして!!? 

 なんでさつきさんがあの女なんかに協力するの!? 私よりもあの女のことが大切なの!? 私のことなんてどうでもよくなっちゃったの!? さつきさんは私がどれだけ辛かったかって知ってるじゃない! あの女のことをどれだけ憎んでいるか、嫌っているか……恐れて、いるか知ってる、じゃない……

 何度も、何度も同じような疑問を繰り返しては心を無限に沈めて行く。どこまでもどこまでも心が闇に沈んでいって、涙が枯れることなく溢れていく。

 ベッドの中で涙を流して、体を震わせる私。

 さつきさんのところに来たときにはこんな夜が頻繁にあった。そんなときさつきさんが手を握ってくれた。

 大丈夫って、守ってあげるからって

 本当はこっちに来てそういうことがなかったわけじゃなかった。ふとしたことからあの女のことが思い出されてせつなに気づかれないよう体を震わせていたこともあった。

 そんなときにはいつもさつきさんのぬくもりと優しい声と穏やかな笑顔を思い出して耐えていたのに、今は何も感じない。

 声はあの女の声にかき消されて、あの笑顔は涙でにじんで見えることはない。

(たす、けて……)

 そんなそれを求める相手すらいないのに私は心でそう呟いて眠れない夜を過ごしていった。

 

 

「う……あ……」

 眠れないと思っていたけど、気づくと寝てて朝もいつもどおりの時間に起きちゃった。

 それでもいつもの通り、顔を洗って身だしなみを整えて、ご飯を食べて、いつも通りに学校に向かっていった。

 いつも通りにしていたつもりだけど、せつなはもちろん梨奈や夏樹、他の人たちも私にほとんど私に話しかけてくることなかった。

 たぶん、それほど今の私は普段と違っていて、近寄りがたく映っているからだと思う。ちょうどさつきさんの家に来たときみたいに世界のすべてを受け入れられなくて、自分の中の世界へと自分を追いやっている。

 大げさに聞こえるかもしれないけど。大げさじゃないんだよ……

 さつきさんは私に世界をくれたのに、そのさつきさんにもらった世界は音を立てて崩れ去った。さつきさんはきっかけをくれただけで今ある私の世界は、私だけのものでさつきさんのことはその一部でしかないって頭じゃ思っても、さつきさんに裏切られたって言う事実の前にはそんなこと何の意味も持たない。

 不安になるほど広く感じる澄んだ青空の下、私は心につられて倒れそうになるのをこらえながら歩いていく。

「…………」

 もし、あの女がここに来たら……

「っ!!?

 その可能性がないなんていえない。さつきさんはあの女の味方なんだからここにあの女を連れてくることだってあるかもしれない。

(いや!

 そんなことになったらどうすればいいの!? 絶対に会いたくない! 会いたいわけない! だけど、戸籍上あの女と親子であるのは事実でさつきさんが宮古さんにでも言葉添えすればあの寮にだっていれるかもしれない。

 そうなったらどうすればいいの?

 誰も私を守ってくれない。もしかしたら、【理由】を話せば寮の人たちは私のことを心配してくれるかもしれないけど。……そんなの信じられない!

 そんなことする人たちじゃないっていくら思っても。さつきさんですら私を裏切ったのに他の人なんて信じられるわけがない!

「……たす、けてよ……」

 心から本音があふれてくる。

「涼香さん、おはようございます」

「……………」

 助けて……そう叫びたいのに。叫んでも求めても無駄だって、私の中の私が訴えてくる。

 だっていないから。さつきさんを失った今私を助けてくれる人なんて……

「あ、あの! 涼香、さん?」

 不意に手を取られた。

「っ!?

 驚いて顔を上げると、そこには美優子がどこか不安そうに私を見ていた。

「あ、美優子……おは、よう」

(あれ……?)

 怖く、なかった。

「お、おはようございます。あ、あの、どうか、したんですか?」

 昨日、梨奈に触られたときは怖くて思わず悲鳴を上げちゃったのに。今美優子に手を取られてもなんとも思わなかった。

 ううん、むしろ。

「…………」

 そうだ。

 昨日から下を向くことしかできなかった私は、目の前にあるわずかな希望を見つけて心を上向けた。

 美優子がいるじゃない。

 美優子は私のこと好き。誰よりも、世界で一番私を好きって言ってくれる。

 それに……あの女のことだって話した。

 美優子はきっと私を守ってくれる。

 そうだ、美優子がいた。

「ね、美優子」

「はい?」

「このまま、手、握って?」

「え? あ、あの!?

 校門から校舎へと続く道。そんな周りが人であふれかえっているところで私がこんなこと言い出すなんて思ってもいなかったのか美優子は恥ずかしそうに顔を赤くした。

「お願い」

「は、はい」

 けど、私がもう一度訴えると美優子は私の手を包み込むように握ってくれた。

(…………)

 昨日はもう笑うことなんてないんじゃって思うくらいに心が沈んだ。

 だけど、美優子の暖かな手に握ってもらっている手だけじゃなくて心まで優しく抱きしめてもらったような気分になって自然に笑みがこぼれた。

「ありがとうね」

「は、はい!

 何も聞かないでこうしてくれる美優子の優しさに私は心の底から感謝しながら美優子と一緒に校舎までの道を歩いていった。

 

 

 それからはできうる限りの時間を美優子と過ごした。今年もクラスは別々だけど、休み時間、お昼休み、放課後だってずっと一緒にいた。

 一人のときはやっぱり考えちゃったけど、美優子といる時間だけは忘れるわけじゃないけど辛くなかった。

 美優子は何も聞いてくれない。他の人たちが私の様子に気づいてるんだから美優子がわからないはずはない。っていうよりも私が自分から美優子にべたべたするというか、自分から美優子に触れようとするのはあまりないから、それだけでも美優子も何か私にあったんだってわかっているはず。

 だけど、それを聞いてこない。

 美優子は聞きたいって思ってる。そういう風にも見えた。だけど、それを我慢してただ私を包んでくれるのがすごくありがたいのと同時に嬉しかった。

「ね、美優子」

「はい」

「よかったら明日も朝、寮に迎え来てもらってもいいかな?」

「……はい」

「ありがとう」

 寮の滞在の門限になった美優子をバス停まで送っていく途中、私はその約束を取り付けて一安心をする。

 その間も美優子は私の手を握ってくれていて、そうしてくれている時間は剥き出しになったトラウマを薄いベールで包んでもらっているかのようで楽になれた。

 春の日差しが照らすバス停で私たちは口数を少なくただ美優子に甘えながら私はこれから美優子と別れてしまうという恐怖と戦っていた。

 美優子がいなくなったら明日美優子が来てくれるまでまた一人、昨日と同じ恐怖に怯えながら過ごさないといけない。昨日と違って美優子がいるっていうのを認識しているけどそれでも恐怖がなくなるわけじゃない。

 かといって美優子に泊まってっていうわけにもいかない。理由も話さないで都合よくそこまでお願いするのも気が引ける。

(どうしよう、かな)

 美優子が今私がこんな風にしている理由を聞きたいのを我慢して私に何も聞かないでいてくれるっていうのはわかる。

 美優子は話して欲しいって思っているんだろうし、私も打ち明けたいって思う気持ちはないわけじゃないの。

 だけど、悩みや苦しみは話したってどうにかなるわけじゃないというのは実感しているし、そんな理由付け以前に、いくら美優子相手にだってあの女のことを話すのはつらい。

 なにより……さつきさんが私を裏切ったっていうことなんて、絶対に言葉にしたくなんかない。

「涼香さん」

「な、っに!?

 美優子に手を握ってもらいながらも下を向いてうつむいてしまう私を美優子は急に抱き寄せてきた。

 柔らかな美優子の胸に顔を導かれて頭を抱えられる。

「……少し、こうしててもいいですか?」

 わざわざ美優子はそんな言い方をする。言いたい事、聞きたいことがあるはずなのに、美優子はそれを抑えて私をただ優しく抱きしめてくれた。

「……うん」

 いい、におい。美優子の体から甘い香りが鼻腔をくすぐってそうすると少し心に平静を取り戻せる。

(……美優子の、におい)

 ぷにっとした優しい感触を感じながら美優子に包んでもらっている。

 付き合い始めた頃なら、勝手にこんなことすると(まぁ、了解とってからするのじゃないかもしれないけど)すみませんって謝ってきたけど今は何も言わないでただ苦しんでいる私を支えてくれてる。

 体だけじゃなくて、心も美優子に寄りかかって倒れそうな私を支えてくれている。

 ずっとこうしていてもらいたいような気もしたけど、後ろからバスが近づいてくる音がした。

 私はあえて自分から美優子の手から逃れると、自分を押さえつけてまで私に気を使ってくれる美優子に感謝と一緒にちょっとした罪悪感を覚える。

「……ありがと、えへへ、やっぱ、美優子って胸おっきいね」

「っ!

 その優しさに素直になれない私はちょっといじわるかも。美優子が真っ赤になってうつむいちゃった。

「あはは、ごめん……。ちょっと時間頂戴、そしたらきっと、話す、から」

「……はい」

 軽口の後にそう伝えると美優子もわかってくれたようで、少し寂しそうだけど別れ際には笑顔になってバスに乗っていった。

 私はそれを見送ると、一人になった現実に怯えながら寮に戻っていった。

 

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