子供の頃、あの女の顔を見るたびに体が震えた。

 暗く淀んだ瞳で私を見てくるあの女が恐ろしかった。

 口を開けば罵られ、恨み言を聞かされた。

 何か癇に障るようなことをすればすぐに叩かれ、殴られ、……そのたびに心に傷を作っていった。

 何時ごろからかあの女は恐怖の対象でしかなくなっていた。

 私はその度に、あの目で見られるたびに、罵られるたびに、虐待を受けるたびに、

自分がいけないからと思った。

生きているのがいけないと思った。

生まれてきたのがいけないのだと思った。

愛されていないんだと思った。

 私はそんな感情で埋め尽くされながら、あの女の家で子供自体を過ごしてきた。

 そして、今またその絶望へと身を落としていた。

 

 

 その日、帰ってきた涼香を見たとき、背筋が凍った。

 梨奈と夏樹に連れられて返ってきた涼香は今まで見たことがないほどに、なんと言ったらいいかわからない、表現する言葉がないほど暗く、深い深い奈落のそこにいるかのようだった。

 部屋に戻った涼香はベッドにあがるとそのままその日は降りてくることはなかった。

 何があったのか聞きたくないわけはなかった。

 だけど、私は何も聞くことはなかった。

 涼香の様子を見れば当然聞きづらいことではあるということはもちろんだったけど、それ以上にそれは私の役目ではなかったから。

 今、間違いなく涼香は苦しんでいる。それも尋常ではないほどに。今まで見たことないほど。

 比べられることではないが、私以上に苦しんでいるようにすら見えた。世界で一番不幸なのは自分というあつかましい思いすら思っていたけれど、それが揺らいでしまうほどに涼香は尋常ではなかった。

 助けたい。助けられないとしても、涼香のために何かをしたい。涼香に手を差し伸べてあげたい。

 心はそう訴えかける。

 だけど、それをするのは私ではない。

 【ただの友達】としてどうにか涼香の傍にいるだけの私にはその資格には……ない。

 それをするのは……涼香を助けるのは……………美優子、なんだから。

 今日、今この寮では涼香を助けられる人はいないかもしれない。

 だけど、明日になれば美優子がいる。

 涼香を助けるのは、支えるのは……美優子。

 私じゃない。

 私ではないのだ。

 涼香だって望んでなんかない。私なんかに心の中に踏み込まれることを。

 涼香を救えるのは涼香が誰よりも心を許す美優子。

 それが自然。

 涼香の異変が始まったこの日、私はそう思っていた。

 

 

(…………………………………………………………………………………………………)

 ベッドの上で私は膝を抱える。

 今すぐ泣き叫びたいような気もするのに涙すら出なくて、私はただ背中を丸めて怯えるようにそうするしかなかった。

(……………さつき、さん……)

 あまりにも重過ぎて何も考えたくないのに、考えようとしなくても……さつきさんのことが……私を裏切った人のことが思い浮かんでくる。

 わか、ってるよ……

 さつきさんの様子がおかしかったって。知ってるよ。冷静じゃなかったけど、それに気づけないほどバカじゃない。

理由があるって、わかるよ!?

 だけど、そんなの意味がない! どんな理由があったって、絶対ありえるわけないだろうけど聞けば私ですらある程度納得できる理由だったとしてもそんなの関係ない!

 この現実の前には、さつきさんがあの女の味方をしたっていう現実の前には、私よりもあの女を取ったっていう現実の前には理由なんて消し飛んでしまう。

「っ……」

 膝を抱える腕に爪を立てて、血の味がしてくるくらいに唇を噛む。

(……なんで、美優子まで……)

 さつきさんじゃなくて美優子のことが頭を支配した瞬間。私の頬に涙が伝う。

 どうして美優子まで私を裏切るの?

 さつきさんは……………あの女の妹なんだから百万歩譲って、あの女の味方をしたのは許せなくても……理解だってしたくないけど、味方する理由は付けられる。

 だけど、美優子は違う。あの女のことなんて、私から聞いただけしか知らなくて……それも……私が苦しめられたっていう話だけ。

 さつきさんが何を話したのか知らないけど……知りたくもないけど、そんなさつきさんの話だけで……美優子は私を裏切った。

(私のこと、好きっていったくせに……)

 美優子だけじゃない。さつきさんだって……私を愛してくれているって思ってたのに……信じてたのに。

 そんなの全部私の勘違いだった。

 勝手に私が好きでいてもらっているって思ってただけ。好きなら、愛してくれているのならこんなことするわけ、ないもん。

「ふふ……ふふふふ……」

 とめどなく涙をあふれさせて、自虐的な笑いをこぼす。

(…………………………………………………………………………………………………………………もう、やだ)

 そう心を奈落へと沈めていく私。

 だけど、こんなのは私の地獄の始まりに過ぎなかった。

 

 

 私はせつなが電気を消して暗くなった部屋でベッドに横になっていた。

(…………さつき、さん)

 思い浮かぶ。

(…………美優子)

 大好き、だった人たちのこと。私を好きだなんて嘘をついて、私を裏切った二人のことが。

 考えたくもないのに勝手に頭に浮かんでくる。考えたって心を傷つけるだけなのに。

 自分の心なのに、言うことをいかなくて勝手に二人のことが思い浮かんでくる。

「…………っは、ぁ」

 苦しい。他に表現しようもなく、ただ苦しい。一切の救いを見つけられない心が押し潰され、中から食い破かれ、むき出しにされたトラウマが私を追いつめてくる。

 逃げようとしても、私に逃げるところなんてない。助けてくれる人も、いない。

 追い詰められた場所で、過去に襲われるしかない。

(………寝よ)

 寝ちゃえば何も考えないですむ。その間だけでも忘れられる。さつきさんのことも美優子のことも、あの女のことも全部忘れられる。

(そうだよ、寝ちゃえば大丈夫)

 寝なきゃ……寝て全部忘れなきゃ。起きている限り悪夢のような現実に苦しめられるんだ。寝ちゃえば逃げられる。

楽になれる。

(寝よう……寝なきゃ……)

 そう思えば思うほど眠気は訪れず、私は結局裏切られたという現実と、むき出しの心の傷と恐怖と不安に苛まれてその日一睡もできることはなかった。

 それが、私にとってある意味幸福であったことに気づかず私は闇の中、それよりはるかに深い闇に身を置いて恐ろしい夜を過ごし、救われることのない次の日の朝を迎えるのだった。

 

 

「…………」

 涼香が苦しんでいる。

 この暗闇の中、私の上で今涼香が苦しんでいる。

 私はベッドに寝そべってベッドの天井を見つめる。

 薄い木の板で仕切られた私と涼香の距離。

 何度も、何度もここからは見ることのできない涼香を見つめてきた。

 ある時はただ涼香を焦がれ。ある時は悲しみを抱えながら。ある時は涙を流しながら。

 毎日、毎晩。そのときの気持ちは同じじゃなくても涼香を好きになってから涼香を思わずに眠れたことはない。

 今、私は深い無力感を感じて涼香を見ている。

 きっと今涼香は眠れず、何か苦しんでいる。見えないけど、そんな風に感じる。私の思い込みかもしれないけど、そう感じる。

(……涼香)

 声をかけたいのに、何があったのって聞きたいのに、力になってあげたいのに……

 何も言えない。

 言ってはいけない。

 私じゃない。それをするのは私じゃない。

 今なぜ涼香が苦しんでいるのかわかっている、と思う。詳しくはわかるはずなくても、少なくてもそれは涼香の過去に関係することだ。

 今日さらに様子がおかしくなったが、それ以前に、一週間近く前に涼香への電話がかかってきたときそのときから涼香はおかしくなった。

 まるで何かに怯えていた。

 想像で答えがわかるわけじゃないが、おそらくは雨宮さつきという涼香の恩人と何かあったのだと思う。

 だとすればなおさら。

 私は何も知らないのだ。涼香の過去を、涼香の闇を。

 幾度となく想像はした、こんなことがあったんじゃないかって。だとしたらこんなことをしてあげられればいいんじゃないかないかなんて、勝手涼香の闇を晴らそうとしたりもした。

 だが、いくら考えようと想像の羽ではあくまで想像でしかなく真実へと飛んでいくことは出来ない。

 そんな私では涼香の力になるなどもってのほかなのだろう。

 何も知らない私には闇へと埋もれてしまった涼香をそこから引き上げるなんてできない。

 美優子だけなのだ。

 涼香を想う気持ちなら負けていないとしても、涼香の力になれるのは美優子なのだ。

 私は無力。力になれない自分を恥じ、憎み、力になれる美優子を嫉妬するしか私にはできない。

 いや、そもそもしてはいけないのだ。たとえ、美優子がいないとしても、私は涼香の心に踏み込む資格などないのだから。

「…………っは、ぁ」

「っ!!?

 上段からかすかにもれた涼香の呻き。

 衝動に駆られる。

 何があったのか聞きたい、力になりたい。今すぐに涼香のベッドにあがって涼香を抱きしめてしまいたい。つらいことがあったのなら私の胸で泣いて欲しい。

 でも、それは……

(私じゃ……ないの、よ……)

 そして、私は無力感と悔しさに耐えながら私はいつの間にかに眠ってしまっていた。

 

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