「う…あ…」
体が、重い。
「は…あ…」
心も、重い。
朝になって私は二、三口だけ朝食をとったけど、あとは水だけで済まして部屋に戻るとベッドの上で膝を抱えた。
(気持ち、悪い)
昨日から何も食べてないからって食べてきたけど、それもまるでゴムでも食べていたかのようで元気がでるどころか逆に気分が悪くなってしまった。
そもそも昨日からほとんど何も食べてないのにお腹なんて減った気がしない。
頭に霞がかかったような感じで頭はぼーっとするけど、寝てないのに寝ようとも思えないし。
(……おかしくなっちゃったのかな……)
ふふ、なっちゃう。なっちゃうよ……
全然おかしくないでしょ? おかしくだって……なっちゃうよ。
一番信頼していたはずのさつきさんと美優子に裏切られて、しかもその理由はあの女の味方をしたこと。
おかしくならないほうがおかしい。
悪い夢なら覚めて欲しい。
でも、そうだったとしても……怖い。
信じられないかもしれない。今が現実じゃなかったとしても、現実に戻ったときにさつきさんも美優子も信じられないかもしれない。
そんなことを思っちゃう。そのくらい今の私は傷ついている。疲弊している。心が消耗しきっている。
それでも、まだまだ終わらない。終わりも見えない。
それに、夢だったらなんて思ったところで……これは夢じゃない。
痛いもん、すごく痛いもん。痛んでいるところがもっと痛めつけられている。
コンコン。
「……………」
ノックがしている。それを耳では聞くけどそんなのに気を回せるはずもなく私は変わらず膝を抱える。
「おはよう、ございます」
私もせつなも何も返答をしないかったけど、ノックの主はそんなのに気にすることなく部屋に足を踏み入れてきた。
「…………?」
一瞬、周りへの注意力が落ちていた私はそれが誰なのかわからなかった。
だけど……
「っ!!?」
それが誰なのか気づいた私は心と体を大きく震わせた。
それは今私が世界で三番目に会いたくない相手。
私を裏切った相手。
「涼香、さん」
美優子、だった。
(…………あぁ、来た)
涼香を思いながら過ごした夜が明けて、朝、しかもこんなまだこちらが朝ごはんの時間のうちに。
美優子が、涼香の想い人が。
私にはできないことをしにきた。涼香を救いにきた。
固く決意を思わせる美優子の表情。
(……やっぱり、昨日声をかければよかった)
やってきた美優子を見てそんなことを思った。
美優子が来る前に涼香に声をかければよかった。だめで元々で何があったのか、何か力になれることがないかって。
もしかしたら、涼香の力になれたかもしれない。私でも涼香を救ってあげることが出来たかもしれない。
(……………外、でよっか……)
ありえない上に都合のいい妄想などをしていても意味はない。ここにいても二人の邪魔になるだけ。
……そして、なにより自分が美優子に負けているというところを見せ付けられるなど耐えられることではない。
(……まぁ、それでも涼香が元気ないよりは、いいわよ)
涼香の幸せは私の幸せでなくとも涼香の不幸は私の不幸なのだから。
私は諦観を装って、ベッドから立ち上がろうとした。
そのとき……
「帰って!!!」
(え?)
ベッドの上から涼香の怒号。
(……帰って?)
涼香が美優子に言ったの? え? どうして。
私は部屋から出なければいけないということも忘れ、すぐ上のベッドにさえぎられてみることのできない涼香を見上げた。
当然見ることはできないが、その代わり涼香はどんどん言葉を吐き出していく。
「何しにきたの!? 昨日のこと!? さつきさんのこと!? あの女のこと!?」
(????)
意味の取れない涼香の言葉に私は疑問を増やしていく。
「すずか、さん」
「嫌! 聞きたくない! ……聞きたくない! さつきさんのことも、あの女のことも、美優子のことも! 何も、何も聞きたくなんかない!」
「涼香さん、お願い、です。聞いてください」
「いや、いや………いやいやいやいや!!」
「さつきさんは……涼香さんのこと……」
「うるさい! うるさい、うるさい!!」
「大切に思って、だから………」
「黙って!!」
(…………………)
何が起きているのかわからなかった。
なぜ涼香がこんなにも取り乱して美優子を拒絶するのか。
こんなにも拒絶されているのになぜ美優子が何かを伝えようとするのか。
それすらさえぎるほど涼香はなぜ美優子を……きらっ…。
………なぜ美優子の話を聞かないのか。
まるでわからなかった。
私が目を丸くして二人のことを考えている間にも二人の会話とすらよべない会話は続き……
「……………………わかり、ました。今日は、帰ります。だけど……」
バン!!
撤退の言葉を残して、去ろうとする美優子に涼香は自分の枕を投げつけてまでその口をふさいだ。
(なっ……!)
すず、か?
夢でも見ているのかと思った。
まさか涼香が美優子に、直接手を上げたわけではなくても冗談や悪ふざけではなくこんな攻撃的なことをするなんて考えられなかった。
「失礼、しました……」
(………美優子)
さらにそうされてまで、小さいながらもはっきりとした美優子の声にも私は驚きを隠せなかった。泣き虫な美優子なら、涼香に、好きな人にこんなことをされれば泣き出してしまってもおかしくはないはずなのに。
だけど、今の美優子は声こそ小さかったが、なんというかこの部屋を訪れたときの決意は変わっていないように感じた。
そこまでの決意が美優子にあったということか……。
「……………」
嵐のような数分間が過ぎ去り部屋には静寂が戻る。
……何が起きているの。
美優子がいなくなった部屋で私は一週間前よりも、昨日よりも、美優子が来る前よりもさらに闇へともぐった涼香を見上げた。
暗い。
見えるはずもないのに涼香の闇が見えるような気がした。その黒い霧がベッドの上にあるみたいでそこを見ているとぞわぞわと背筋が震える。
「すず、っ……」
声が、かけられない。
見ているだけで、私までその闇にとらわれてしまう。それは私の心にまで侵食し体の内から声すら奪った。
(……何? どうしたの?)
どうして涼香が美優子にあんなことを言ったの? 敵意むき出しで、聞いていてこっちまでつらかった。怖かった。
涼香が、あの、美優子に。
信じられない。今まで美優子に限らず涼香はあんな風に誰かに敵意を向けることなんてことはなかった。そもそも、涼香が知人、友人、……恋人である美優子に対して敵意どころか悪く言うことすらほとんどない。
そんな涼香が……恋人の美優子にあんなことを……
それほどのことが二人にあったということなのだろうか?
(そういえば……)
どうして美優子はこんな時間に来たの? 涼香の様子がおかしいのは前からだった。しかし、それを美優子が……支えていた。苦しんでいる涼香を怯えている涼香を救っていた。なのに、今日になっていきなり。
涼香が今のようになったのは昨日。だけど、昨日は梨奈たちと出かけていたはず。はずなのに昨日帰ってきてから様子がおかしくなり、美優子が訪ね、涼香が怒り、嫌い……なのに美優子は泣くことなく出て行った。
好きな人にあんなひどいことを言われたというのに、あの泣き虫な美優子が。
(……喧嘩?)
仔細はともかくそのようなことがあったのは間違いないだろう。
そして私は……
「っ……」
腕に爪を突き立て、唇を噛んだ。
あまりにも下劣で浅ましい自分に嫌気がさして、そんな自分を止めるために咄嗟に自傷を働いた。
(……死にたい)
喧嘩しているのだろうと思った瞬間、私は涼香がどうして苦しんでいるかなんて頭から消し飛んだ。
これを気に涼香を…………………奪えるかもと思った。
そんなのは本気で考えたことじゃないかもしれない。一時の気の迷いかもしれない。だけど、そう思った。
(バカなの? 私は……)
そんなことしてどうするの? 大体涼香と美優子の仲が悪くなったって、私のことを好きになってくれるのとはまったく別問題じゃない。
……仮にそんな弱みに付け込むようなことをして好きになってもらって満足? それを私の矜持は許すの?
……ふふ、矜持? 満足か? そんなの関係ある? 好きな人に好きになってもらおうとして何がいけないの!?
そんなことあるわけない。
(そう…よ……涼香のことを……奪って、奪おうとして何が……)
悪いに決まっている。
いや、そもそもそんなこと意味がない。他のことで私を……ありえないだろうけど好きになってもらえるのならともかく、こんな喧嘩なんて涼香に私を好きになってもらったところでそれは涼香の本意ではない。
そんなのはきっとまた動いてしまう。気づいてしまう、私といることへの違和感に。
(……喧嘩くらい、誰だってするわよね……)
それが自然だ。
どんなに仲のよい恋人同士でも、長年連れ添った間柄でも喧嘩をしないなんて、そのほうが異常だ。
今まで人付き合いなんてしてこなかった私が偉そうにいうことではないのはわかっても、人はそういうものなんじゃないのかと思う。
だから……
声をかけてはいけない。何があったのか聞いてはいけない。……涼香を奪おうなんて考えてはいけない。
私がすることはただ一つ。
遠くから涼香を心配すること。それだけなの、よ。
自分にそう言い聞かせると私は先ほどとは異なる理由で腕に爪を突き立てるのだった。