三話
「……ん」
なにか物音が聞こえる。
(眠い……)
何故か目が覚めてしまったけど、時計を見るまでもなくまだ夜だということはわかる。
中途半端に目が覚めてしまったせいか目を開けるのもつらいほど眠い。下の方からわずかに聞こえる音のことは気になったけど私はまたすぐに目をつむりまた眠りに入ろうとしたその時、
「…………ずか」
微かに名前を呼ばれた気がした。
それで一瞬だけ頭が覚醒したけど、それ以上何か聞こえてくることもなかったので私はそのまま眠りに落ちていった。
抜けるような青空。
目を覆うほどの眩しい日差し。
時折吹く心地のいい風。
夏。
七月。
一学期の終盤。
そうくれば目の前には夏休み!
毎年色んな計画を立てるのに、その半分も消化できずに終わってしまうけれど、やっぱり楽しみな夏休み。
そんな夏休みがあと数週間後に迫っている。
今年はまだほとんど予定なんて立てていないけど、漠然とやりたいことなら考えてある。早く予定をまとめて今年こそ充実した夏休みを送らなきゃ。
ただ……
「あー、もうやだ」
私は今まで一時間は握り締めていたシャープペンをテーブルの上に乱暴においた。そして、体を伸ばしてながら体を後ろに倒す。
そう、今は期末テスト期間の真っ最中。今日は三日間あるうちの一日目で、今は明日のテストに向けて必死で勉強中。
「ふーん……」
向かい側に座って同じく勉強をしているせつなは馬鹿にするように私を見下ろす。
「何よ……?」
「別に、ただ涼香は補習受けるつもりなんだなって思って」
「う……わかったわよ、やりますー」
一つため息をついてから起き上がった。
補習のラインは結構厳しく、ちゃんと勉強しないと私の実力じゃ危うい。
「せつなはいいよね、勉強できるんだから」
「あのね、別に私だってやらないでできるわけじゃないの。ちゃんと努力してるんだから」
できるって言うところを否定しないのがせつならしい。実際できてるけど。
めんどくさいけど、やらないわけにもいかないので勉強を再開した。
「早く夏休みにならないかなぁ……」
しかし、三十分もたたないうちに私はまた愚痴をこぼした。今度は教科書を眺めながらなからサボってるわけじゃないけど。
「……そうね」
勉強中だというのにめずらしくせつなが反応してくれた。気のせいかちょっとだけ沈んだような声だ。
それからせつなは手を止めて、顔を上げた。
「涼香……」
「なに?」
私は教科書を眺めながらでせつなを見ない。
「涼香は、夏休み……」
何故かせつなはその先を続けなかった。
普通に考えれば夏休みの予定を聞こうとしてるんだと思うけど、それならなんでそこでとめるのかわからない。
別のことを聞こうとしてるのかな。
でも夏休みに関係してて、予定以外のことなんて思いつかない。
「……やっぱり、いい。とりあえず今は目の前のことに集中しよう」
「そう? ま、いいけど」
確かにここでサボって補習を受ける羽目になってしまったら夏休みの予定も何もない。少し陰鬱な気分になりながらも、私達は勉強を再開した。
「んー、いー天気だねぇ」
私は校舎から出たところで、空を見上げながら大きく背伸びをした。
周りでは私と同じように背伸びしたり、友達とじゃれあったり、それぞれの方法で開放感を表す人たちがいっぱいいる。
「そう? 昨日もこんなもんじゃなかった?」
「もー、せつなはわかってないなー。心が晴れやかになれば世界の見方だってかわるものなの」
そう、ましてテストが終わった日ならそれはなおさら。いつもは何気なく思っていることも、何故か新鮮に、そしてどこかなつかしく見えてくる。
「とりあえず、ここでこうしててもしょうがないから帰らない?」
「そだね、話は部屋に戻ってからでもいいし」
ここじゃ同じような人たちのざわつきがあって落ち着けない。
「そういうこと」
私たちは校門へ向かって歩き出す。
さっきのはなんとなく勢いで出た言葉だけど、今日は本当に天気がいいと思う。校門へ続く道でも、木々の合間から差し込む光が眩しく、美しい。
「これで後は夏休みを待つばかりかぁ」
「結果はまだだけど? 大丈夫だったの?」
「まぁ、なんとか補習はない、と思う。そっちは? って聞くまでもないだろうけど」
「一通りはできたと思うけど」
「いいねー、できる人は。ま、でも終わったことよりもこれからの考えよ。せつなは夏休みなんか予定あるの?」
どうせ真面目はせつなのことだから、そんなことより宿題を終わらせるほうが先とかいうのかもしれないけど。
「別になにも、ただ……」
「ただ……なに?」
せつなが足を止めたので私もそれと一緒に止まる。
「お姉ちゃんと実家に帰らなきゃいけなくて……」
「あ、そうなんだ」
「涼香は、帰らないんでしょ? 前言ってたもんね」
何故かせつなが実家に帰るっていうことはまったく考えてなかった。私自身帰る気はないから夏休みは寮でせつなと一緒に過ごせると漠然と考えていた。
「そっか……」
別にショックっていうわけじゃないけど、せつなとはこの学校に来たときからずっと一緒だったから、せつながいない生活っていうのはなんかちょっと想像できない。
「いつ帰るの? どれくらい?」
「夏休み入ってすぐ……たぶん、一週間くらい」
「そっか……でもいいんじゃない? たまには家族水入らずで、せつなも色々変わったでしょ? それを親に見てもらういい機会なんじゃない? 『優秀なお姉ちゃんの妹』じゃなくて『せつな自身』のことをさ」
「うん、わかってはいるけど……」
どことなくせつなは元気がない。そりゃ、髪を切ったことだって言ってないかもしれないし、私からすればせつなはいい方向に変わったって思ってるけど、それがせつなの両親に受け入れられるかは別問題。
せつなが元気なくなる理由もわからないでもない。
「ほら、色々不安なのもわかるけど、そんなんじゃせっかく帰ってもつまんないでしょ。たった一週間なんだし、何かあったらすぐこっちに戻ってくればいいんだし。とりあえず今度こそ戻ろ」
「……そう、ね。戻ろうか」
言うや、せつなは歩き出してしまった。私もすぐに追いかけたが、それには少しだけ間があったのでせつなが何をか呟いたことには気づけなかった。
私はせつなが実家に帰るというのは、さびしいといえばそうだけど、たった一週間だし。すぐにまた会えるようになるくらいにしか考えてなかった。
だから、さっきの私の心配は見当違いだということにも、どうしてせつなが元気なかったかという本当の理由にも気づくことはなかった。
そして、もちろん。
せつなの想いにも。
たった一週間、涼香はそう言った。
私と会えないのは「たった」一週間だって。
確かに、何事もなく過ぎる一週間は早いものかもしれない。いや、一週間どころかどんなに長くたって、その間に何かがなければあっという間に過ぎてしまうものなのかもしれない。
涼香にとって、私と会えない一週間は「たった……」もちろん涼香がそんなに深く考えないでいった言葉だというのはわかっている。
それでも、涼香が何気なく言ったはずのこの言葉は、私の気持ちを沈ませるのには十分だった。
私は一週間「も」会えなくなるって思っていたのに。
実家に戻るのが嫌なわけじゃない。涼香の言ったようなことは思っているし、お姉ちゃんと一緒にたくさんの時間を過ごせるのはうれしい。
だけど、今はそんなことより涼香に「たった」と言われたことが悲しかった。私は涼香にとって所詮その程度の存在なのだろうか。
考えないようにとは思うのにこういう時どうしても悪いほうへ、悪い方へと考えてしまう。この二ヶ月で多少は変われたって思っていたけど、このクセは直っていない。
別に涼香が「行かないで」なんて言ってくれるとは全然期待してなかったし、実際に言われても困ってしまう。ただ、少しは寂しいっていう素振りを見せて欲しかった。少しでも同じ気持ちを共有したかった。
今、私の中に漠然とした感情がある。いつからか私の中に芽生えた感情。それは、輪郭はあるけど、ぼけやけていてはっきりとわからない。
この感情の整理も、正体もわからないまま時は過ぎていった。