久しぶりに会うさつきさんはやっぱり、電話のときと同じく前にあったときとは違う印象を受けた。
涼香さんを太陽って思ったりなんかはしたけど、この人にもそんな風に思っていたのに今は雲にさえぎられている。
さつきさんはコーヒーを頼むと挨拶もそこそこにさっそく、だけど重苦しそうに口を開いた。
「……ねぇ、今、涼香ってどんな感じ?」
口に出すのは辛そう。表情にもそれは出ている。ただ、それでも私の目をしっかりと見くるのがこの人なのかなって思った。
「え、っと……その、ひどい、です」
「……そう。どんな風、に?」
わたしはうまく伝えられるか、伝えて良いのかって不安になりながらも最近の涼香さんの様子を伝えた。さつきさんはそれに耳をふさぎたがっているようにも見えたけど、苦しそうな顔で聞き続けてくれた。
大体のことが話終わると、さつきさんは小さくそうとつぶやいて、話している間に持ってこられたコーヒーを一口飲んだ。
「……当然、か」
カップを持つ手が震えてて、お皿に戻すのにカタカタって少し音を立てた。
「美優子、ちゃんは……涼香のこと、どれくらい知ってるの?」
「え?」
「何で私と暮らしてたかとか、知ってる?」
それは遠まわしだけれど、涼香さんが涼香さんのお母さんに虐待されてたことを知ってるか? って聞かれてるんだと思う。
「………………はい」
涼香さんにそんな過去があったっていうことを考えるだけでも胸が痛んでその胸を押さえながら小さくうなづいた。
「そう」
今日のさつきさんは口数が少ない。ただ、少ないけどその一言一言には重みがあって、今も相槌を打つだけだったけど、すごく真剣な目でわたしのことを見ていた。
「……………………」
しばらくの沈黙。
さつきさんが何かを考えながらわたしのことをじっと見つめてくるだけの時間が過ぎた。
(涼香さんの、お母さんが関係、してること、なのかな?)
だから、涼香さんのことを知ってるかなんて聞いたんだと思うし。
「………………………美優子ちゃんは」
「は、はい!?」
さつきさんが黙っちゃうからわたしも自分だけのことを考えてたのに急に話しかけられてびっくりしちゃった。
「姉さんの……涼香のお母さんのこと、どう思ってる?」
「え……」
相手が涼香さんだとしても、答えは決まっている。でも、この人にだけははっきりとそう伝えるのには抵抗があった。
「正直に話してくれて、いいわよ」
そのことを察したのかさつきさんはわたしが答えやすいようにそう言ってくれた。ううん、というよりもどうしてもはっきりといってもらいたかったんだと思う。
「…………………許せ、ない、です。どんな理由があったとしても、涼香さんにそんなひどいことするなんて、絶対許せないです」
「そう、よね。美優子ちゃんだってそう思うんだから、涼香なんて余計そうでしょうね」
(? それは、きっとそうだって思うけど……)
わざわざ確認することでもない、よね?
「ねぇ、美優子ちゃん」
「は、はい」
朝霧のようにはかなく不安気な瞳。さっき震えてたりしてたんだから、本当は今だってそうなのかもしれない。気のせいかもしれないけど目が潤んでいるようにすら見える。
それでも、さつきさんは紡ぐ言葉を止めることはなかった。
「涼香が虐待されてた原因が私にもあるって言ったら、どうする?」
「え……?」
突然の告白にわたしは目を見開いた。
「あ、の……?」
うまく意味が理解できない。ううん、出来なくはないけど……え? どういう、意味、だろう。
疑問だらけの視線をさつきさんに向けるわたし。
「そのままの意味よ。………涼香が虐待されてた原因、ううん、姉さんがああなって原因は私にもある。違う……私、なのよ……私がいなければ涼香が虐待される事だって、きっとなかった、のよ……」
「あ、あの……どういうこと、です、か?」
怯えるみたいに話すさつきさんにわたしは動揺しながらも素直に聞くしかなかった。
さつきさんはそのわたしの様子に先走っちゃったことに、ごめんねって言ってくれてから一つ深呼吸した。
「姉さんも、昔からひどかったわけじゃない。姉さんが涼香に、ひどいことするようになったのは、涼香のお父さんが亡くなってから、なのよ」
「……確か、涼香さんが生まれてすぐくらいに亡くなった、って……」
「………………うん、そう」
怖さをかみ締めるみたいにさつきさんは深くうなづいた。ずっと、わたしにはまだわからない【恐怖】に怯えているみたいだけれど、少なくてもわたしの前じゃ震えながらもそこから逃げようとはしてなかった。
「…………私の、せい、なの、よ」
「え……?」
思わず調子の外れた声になった。いきなり衝撃的なことを言われたせいでうまく飲み込めない。
「言い訳にしか、ならないだろうけど、本当は言い訳の必要もないのかもしれないけど……」
ひどく歯切れの悪い言い方。しかもさっきから目的に遠回りをしてばっかりなのにわたしはようやく気づいた。今から話してくれることがやっぱり、怖いんだ。
「不幸な偶然って言うのは、重なるのよね。……あの日、姉さんも旦那さんもどうしても出かけなきゃいけない用事があって、実家、私の家で涼香を預かることになったの。そしたら、親戚のおばさんが危篤だって電話がかかってきて両親が出かけることになった。そんな場所に赤ちゃんを連れて行けないから、私が面倒見ろって涼香のこと置いていったの。正直、困った。その時私は当たり前だけど学校に通ってて、丁度テストの期間中だった……」
話すまでは遠回りをしてきたのに話し始めてからは少し早口だった。そういう【弱さ】がこの人にもあるんだなんていう感慨を持つ暇もなくさつきさんは目を伏せながら続けていく。
「わた、しはその時まだ全然子供で、泣きわめく赤ん坊を笑顔で許せるほど大人じゃなかった。その前のテストは成績落ちて落ち込んでたし、……涼香が、邪魔、だった。まだ当時は携帯なんて持ってなかったから親に早く帰ってきてとも連絡できなかったけど、姉さんのところだけは連絡先を聞いておいてあった、から……涼香を引き取りに来て、って電話……した」
声が、震えだした。今すぐにでも嗚咽を漏らしたがっているようにも思えるほどに。
「それ、で……涼香のお父さんが迎えに来ることに、なって……事故にあった」
「…………………」
こんなお話をわたしなんかが聞いていいのって思うくらいに衝撃的な話だった。きっと、涼香さんも知らないお話。
(でも………)
「あの、でも、それは……」
事故、なんだから……さつきさんのせいっていうには…酷な話、って思う、けれど……
(それは、わたしが当事者じゃない、から、なのかな……?)
わたしもさつきさんの立場だったら、自分のせいって考えちゃうかもしれない。ちゃんと我慢して涼香さんの面倒を見てればって。
「……それ以上言わなくてもいい、わ。何が言いたいかわかってるつもりだから」
「っ。……はい」
こうして制止するって言うことはやっぱり、わかってるんだ。
「……姉さんは最初、気丈に見えた。実家に戻るかって両親は誘ったらしいけど、一人で涼香を育てるって。……私も姉さんや涼香といるのが怖いから反対して……両親はたまにあってたみたいだけど、私はほとんど連絡取らなくなってて……涼香が虐待されてるって知ったのは大学生のときだった。両親も引き取ろうとしてたみたいだけど、姉さんは渡さなかったらしいの。……今思うと浅はかだったけど、働き出したら、涼香のことを無理矢理にでも引き取ろうって思って、そうした」
それは、涼香さんにとってはもちろん、いいことだったんだろうけど……
「姉さんは、怒ったよ。すごく喧嘩もした。引き取った直後は何度も会わせろって言ってきたりしたけど、傷ついた涼香を見た私は絶対に了承しなくて、しばらくしたら連絡してこなくなった。けど、去年の終わりに連絡が来たのよ。涼香に会いたいって。断るのは簡単だった。でも、姉さんへの罪悪感は棘だったからまずは私が姉さんと会うようになって……ね、姉さんは反省、してる、って後悔してるって言ったし、そ、そうも見えた、から……この、前、寮に、電話、した、のよ」
(っ、だから涼香さん)
お母さんのことで怯えてたんだ。さつきさんから、お母さんに会って欲しいなんていわれたから。
そんな合点に気をとられる暇もなくさつきさんは苦しい胸の内をわたしなんかに話してくれる。
「いい、わけ、よね……反省してるって見えたのはあくまで私だし、実際にそうだとしても涼香にはそんなの関係ない、涼香が姉さんのことどう思ってるか一番知ってるのは私なのに……わた、しは……で、も…姉さんはやっぱり、会いたいって、会って謝りたいっていうから、私……姉さんのこと、断りきれなくて……でも、こんなこと、して……涼香に嫌われたら……ううん、嫌われてるわよね、もう……ぅぐ……」
泣いて、いた。今までずっと抑えていたんだろうはずの涙が不定期に雫となってテーブルに落ちていってる。
「私……涼香のこと、愛してる。妹みたいにも、本当の子供みたいに思ってる。涼香のことを守って、あげたい。あげたい、けど、私は、姉さんの、こと……」
罪の意識があるから、断ることができない。二人に挟まれて押し潰されそうになってるんだ……
「ぁ、の……」
言いたいって思うことがないわけじゃない。でも、何を言ったらさつきさんの胸に届くのか、どうすることがさつきさんや……涼香さんのためになるのか今はまだわからなくて……言葉が出なかった。
(痛い、な……)
わからないけど、想像することはできて、さつきさんと涼香さんの苦しみを考えるだけで胸が痛んで、無意識に胸をぎゅってつかんだ。
「は、はは……だめ、ね……私」
「え?」
突然自虐的な笑いを漏らすさつきさんに首をかしげる。
「本当は、美優子ちゃんに涼香のこと説得してもらいたいって思ってた……」
「……【お母さん】に会って、って、ですか……?」
(……そんな、こと、わたし、は…………)
今のさつきさんを見せられても……わたしには、
「………そう。ほかに頼める人なんて、いない、し。涼香は美優子ちゃんに心許してる、みたい、だから。涼香って中学生のとき、あんまりそういう友達いなくて、家でもほとんど友達のこと話したりしなかったのに、美優子ちゃんのことは電話でもたまに言うし、春休みに帰ってきたときも話したりなんかしてたから……美優子ちゃんの言うこと、だったら、なんて……最低よね」
あぁ、わたしすごく不謹慎だ。さつきさんは今すごく苦しんでるのに、辛いことを話してくれてるのに、涼香さんのお話に嬉しいって思っちゃう。
「だけど、だめ、よ。できない。姉さんは本気だって、思えたし、叶えてあげたいっていうのも私は本気で思ってる。でも、涼香を守りたい……違うわね、嫌われたくない! あんな電話しておいて今さらだけど、ううん、しちゃったからこそ、やっぱり涼香に嫌われたくないって思った。怖い……涼香のことに嫌われるのが」
(っ! わたしはなにを……)
さつきさんはこんなに真剣なのに……自分のことだけしか考えられないなんて。
きちんと聞かなきゃ。聞いても結局何もいえないかもしれないけど、せめて想いを受け止めなきゃ。
「……ねぇ、美優子ちゃん……どうしたらいいって思う? 私どうすればいいの?」
「っ!?」
いきなりたずねられた答えようのない質問。答えようがないっていうよりも、わたしが答えていいのかすらわからない。
(けど、涼香さんなら……?)
涼香さんの立場、だったら……? 涼香さんはどう、されたいだろう。
もちろん、【お母さん】になんて会いたいわけがないって思う。だけど、わたしはさつきさんが涼香さんのことを本当に大切に思ってるっていうことを知ってる。同時に、【お母さん】に応えたいって思っていることも。
涼香さんにはつらいことだってわかってるけど、このままにはならないって思う。今はさつきさんが【お母さん】のことを断ることが出来るかもしれないけど、このまま永遠にそれが続くなんていうことはないって思う。
さつきさんはわたしに説得してもらいたかったなんていったけど、涼香さんは……
「あの……すごくあつかましいこと、言うみたいですけど……わたしじゃない、って思います」
「え?」
「わたしよりも、直接涼香さんに全部話すべきって思います」
「だ、だめよ! そんなこと、……できない、涼香に、自分で、なんて……」
その怯えようはまるで命乞いをするかのようにも見えた。そうなっちゃうのかもしれない、涼香さんが大切であればあるほど……嫌われなくないっていう反動が大きくなるのはわかるから。
「それでも! ……涼香さんはわたしじゃなくて、さつきさんに直接話してもらいたいって思うと思います」
「っ……そ、れは……」
さつきさんはわたしに会ってから初めて別種の動揺を見せた。
そんなことわからないわけじゃないはず。二人の間にはわたしなんかじゃ太刀打ちできない大きな絆がある。
「……それに、本当にわたしが話して、後悔、しませんか?」
大切なことであればあるほど、その絆が他人の入ることを許さない。
「するって思います。話しても、後悔するかもしれません。……ううん、たぶん、するんだと思います」
ひどいこと言ってるってわかってる。すごく失礼だって。
「だけど、わたしになんか任せたら、きっと話したときよりも後悔します」
「………美優子、ちゃん……」
わたしの話を少しはさつきさんの心に届いたのか、さつきさんはわたしの前に来て初めて少しだけ前向きな表情を見せた。
それは、まだ心に灯った小さな火かもしれない。強風に吹き消されちゃうようなか細い気持ちかもしれない。
それでも……
「…………………」
胸に宿った気持ちは簡単には消せない……はず、だった。
「っ!」
さつきさんがわたしの後ろを見て、驚愕したのに続いて
「すず、か……」
ありえないはずの名前が飛び出してきた。
そう、わたしの振り返ったその先に涼香さんが立っていた。