「……ふぅ」
屋上から、自分の部屋のある階に降りてきた私は軽くため息を突いた。
(……後悔はしてません、ね)
嘘、とは言わないけれど。
「…………」
今降りてきた階段を見つめる。
まだ、いるわよね。きっと。
「……泣かせちゃった、か」
可能性としては考えていたけれど、実際にされると思った以上に胸が痛んだ。
私は先輩のその姿を思い起こしながらふらふらとロビーのソファに向かっていった。そこは、先輩に告白をした場所だ。
泣かせてしまった。泣かすことが、できた。
それは私にとっては成功なのかもしれない。
先輩は考えたことがなかったはずはない。違う。考えるとか、考えないとかじゃない。
決まっている。友原先輩が今の朝比奈先輩が一生続いていくことを望んでいるはずはない。好きでいてもらうかは別としても、引きずって生きていることを朝比奈先輩の幸せだと考えているはずがない。
そのことから朝比奈先輩は逃げていた。頭にはよぎったとしても、絶対に考えようとはしなかったはず。独りで立ち止まってしまったら、きっとそこから動けなくなる。
でも、ずっとそれから逃げ続けることはできないし、してはいけない。今日のことで、先輩が前に進んでくれるのなら私は……満足だ。
「……いいのよね。これで」
声に出す必要はない。しかし、私はあえて言葉にした。音にして、自分に言い聞かせたかった。
そうしなければ、私のほうこそ泣いてしまいそうだったから。
きっともうだめ。ここで、私と朝比奈先輩の関係はおしまい。
あんなに傷つけた。朝比奈先輩が誰にも見られたくなかった部分を覗き、触れられたくなかった部分に触れ、心に土足で踏み込んだ。
例え、これをきっかけに前に進むことができたとしても私が傷を抉ったことに変わりはない。傷ついているあの人を、さらに深く傷つけた。それは事実だ。
「……いいのよ」
本当はもっと伝えたいことだってあった。
でも、あの先輩には……とど、かない。
遠すぎる、先輩と私の位置。私が何を言ったところでそれが朝比奈先輩の心に到達することができない。
そんな絶望感が感じてしまった。今の先輩には。
きっと私にできるのはここまで。
だから、これで……いい。
(…………これで)
心にある何かをそんな言葉で押し付けながら、窓からどんよりとした空を見上げる。
暗く、鬱蒼とした今の私の心のような空。
この心は空と一緒のように時間をたてば晴れるかもしれない。しかし、その先に朝比奈先輩の笑顔があるのだろうか。
後悔は、してない。
……つもり。
心にしこりはある。これで正しかったのか、もっと別の方法があったんじゃないか。そう考える部分はある。それは迷いで、後悔ともよべるものかもしれなくて……
「………先輩」
目を閉じ、屋上にいるであろう先輩の姿を思い浮かべる。
……あの時、朝比奈先輩もこんな気持ちだったのかしら……? ううん、そんなことないわよね。きっと、もっと……
好きになったときのことを思い出し、私はいつのまにか眠ってしまっていた。
ザー。
雑音のような音が聞こえる。
「ん……んん」
窓の外から聞こえるそれは、この時期よく聞くもので、これは……
「……雨、ね」
ぼんやりと寝ぼけ眼で窓の外を見つめた私は他人事のようにつぶやく。
(どのくらい寝てたのかしら?)
というか、なんで寝ちゃったのかしら。そりゃ、最近は疲れてたし、夜もあんまり眠れてなかったけれど、あんなことをしてきた後だっていうのに。
あんなことの後だからかもしれない、か。
いっきに緊張が切れた。今日の、あのことだけを考えてこの数日を過ごしてきた。それが終わったのだ。気が緩んでも当然かもしれない。
なにもこんなところで寝なくてもいいって話だけど。
寝たことで少し落ち着いたのか、冷静な部分がそんなことを考えて立ち上がった。
(部屋に、戻ろうかしらね)
一人でいたいような気もするけど、もし陽菜がいるのなら一緒にいたいかもしれない。
……朝比奈先輩が気にならないはずはないけれど、こっちはとても顔を合わせられる気分じゃない。
(っ……)
じゃあ、いつまでと考えそうになった瞬間、体に悪寒のようなものが駆け抜けた。
ボフン
「ふ、ふふ……」
立ち上がっていた私は倒れるようにソファに戻った。
今感じた悪寒。それは先輩が感じたものと同じ類のものだろう。そして、そこから逃げたのも先輩と一緒だ。
(……っ)
私は唇を噛むと立ち上がる。
立ち止まらない。私は立ち止まったりしない。だって、そうじゃなきゃ、先輩に偉そうにいう資格はないんだから。
私は今度こそ部屋に戻っていこうとした。
と、歩きだした途端会いたくない人に出会った。
「あ、渚ちゃん」
「……友原先輩」
会いたくない人だ。朝比奈先輩を傷つけ、朝比奈先輩の時を止めた人。そして、朝比奈先輩を想う人。
「ねぇ、せつな見なかった? 梨奈と夏樹と約束してたんだけど、見当たらなくて」
「……知りません。どうして私に聞くんですか?」
「どうして、っていうか、ただ聞いただけだけど……」
……やっぱり、この人は嫌いだ。今朝比奈先輩がどんな気持ちでいるかも知らないで。
今朝比奈先輩があなたに会えるわけがないじゃないですか。きっとどこか一人で、泣い……
「……なぎさちゃん?」
一人で……?
いえ、でも、まさか。いくら、まともな状態じゃないとしてもそんなことは、さすがに……
頭に嫌な光景を浮かべた私は
「っ!? なぎさちゃん!?」
友原先輩のことを無視して走り出していた。