「……はぁ」
冷えた空気に、冷たい風。
嫌でも冬の寒さを実感してしまう中庭で絵梨子はベンチに座りながらため息をついていた。
空は絵梨子の心を現すかのように曇りきり、絵梨子の心はもちろん体すら温めてはくれない。
それでも絵梨子が今、ここにいるのは
「……ときな」
ここが、ときなとの思い出の場所の一つだからだ。
もっとも、この校内の至るところがそうではあるが、密会をする四階の踊り場と一緒に昼を取ることの多かったこの中庭中央のベンチはその中でも特別の場所だった。
(……はじめて、ときなのお弁当もらったのもここだったな)
金欠で昼食抜きの生活を続けていた絵梨子にときなが話しかけてきて、いじめられつつもおにぎりを恵んでもらった。
(……最初から、ときなは意地悪だったわよね)
何度か話したことはあるのに名前を忘れてしまった絵梨子に非があったのはもちろんだが、それでもときなは意地悪ないじめ方をしてきた。
それからずっとときなが意地悪だという印象は変わることはないが、
(………会わないように、しよう、か………)
絵梨子は何気なく空を見上げながら、朝のあの言葉がときなの本心から出た言葉だということを感じていた。
深く悲しみをたたえた瞳。息の詰まりそうな表情。
そして、取って付け加えたような受験が終わるまでという期限。
あの言葉を出すのに必死で本当はいつまで、なんていうのは考えていなかったんだろう。
絵梨子があまりにショックを受けていたから、少しでも安心させようと咄嗟にそう付け加えたのだ。
(……自分のことで精いっぱいのくせに……馬鹿よ)
気を使わせてしまった。余計な負担をときなにかけてしまった。
(……違う! バカなのは……)
「………私、じゃない」
ときなのらしい行動を思い返していた絵梨子は、それに対する自分の行為を思い出しあまりの愚かさに自分に激昂する。
(……何してるのよ! なんで、ときなに何も言えなかったの!? どうして、ときなのこと抱きしめてあげられないの!? 何が、そういうことなら、よ!)
ときなが不安に思っているのなら、苦しんでいるのなら、抱きしめるべきだった。
力いっぱい抱きしめて、心から好きだと伝えて、ときなの不安を塗りつぶすことができたはずだ。
(……これ、じゃ……また、同じじゃない)
一年前と、いや、初めての恋人である柚子と別れた時と、同じ。
相手が、そうだからと、望んでいないと……【口では】そう言っていたからといって、心の中に踏み込んでいこうとしない。
その過ちがあったからこそ、ときなには何があっても寄り添おうと決めていたはずなのに。誓っていたはずなのに。
心に、踏み込んでいけなかった。
「……なんで、繰り返してるのよ………」
こんなことにならないようにと、二人で過ごしてきたはずなのに、結局は繰り返している。
「……何を、してたのよ……」
情けなくてたまらなかった。悔しくてたまらなかった。
同じことを繰り返してしまっている自分が、ときなに不安を抱かせてしまった自分が。
こんなことになっても、ときなに無理やりにでも会いに行けない自分が!
(……ときなのこと、助けたいのに。助けなきゃ、いけないのに!)
今、ここでこうしている。
最愛の人を助けもせず、その方法すらわからず逃げて、いる。
(……………………)
しかも、心のどこかではどんなに考えても無駄なんじゃないかと考える自分すらいる。
今までだって、精いっぱいの時間を過ごしてきたはず。愛して、愛されてきたはず。
なのに【今のときな】を生んでしまった。
そんな現在があるのに、卒業までのわずかな時間で未来に決定的な何かをもたらす何かなんて、到底考え付かない。
いや、ときなに距離を置かれてしまった絵梨子にはそんなこと不可能だとすら考え始めていた。
(……今のまま、無理やりときなをつなぎとめたって………)
「……きっと、また、繰り返させちゃうわよね」
その言葉は絵梨子に思いがけないほどの絶望だった。心を無理やりはぎとられるような、筆舌に尽くしがたい痛み。
絵梨子にとってときなを悲しませるというのは、自分を傷つけるのと同義だった。
そして、ときなが感じている痛みはこんなものじゃないだろうということはわかっている。
あの性格だ。
絶対に自分だけが悪いと考えている。
そんなことはないのに。そもそも悪いとか悪くないではないはずだ。それでも悪い、というのなら、それは二人なのだ。
恋人を互いに今のようにさせている二人が、悪いのだ。
絵梨子はそう考えられているのに、ときなにそれを伝えることすらできない。それは、ときながそんなことはなく自分が全面的に悪いと考えてしまうのもあるだろうが、それを説得し切れない自分が想像できてしまうからだ。
「……ふふふ」
自然と自嘲気味な笑いが起きてしまう。
(……ほんと、情けないわね)
本当にときなのいうとおりにしかならないような気がしてきた。
今を解決しても、また同じことを繰り返させてしまう。そのたびにときなの傷は深くなる。
(……そんなのは、だめよ)
それはときなじゃない。
そんな風に自分を否定していくのはときなじゃない。きっとそれはときなの大切な何かを壊してしまう。
ときなは、自分を肯定しているから、自尊があるからときななのだ。
(……私のせいで、ときなが、ときなじゃなくなるなんて………絶対、だめよ。そんなの、絶対にときなの幸せじゃない)
自分がしてはいけない思考に落ちかかっているのを絵梨子は感じていた。考えてはいけないこと。
ときながあんな風になってしまったのに今自分が【こんなこと】を考え出しては……膨らんでいってしまう。
今はまだほんのわずかに空いているだけの隙間が……取り返しのつかないところまで行ってしまう。
(だから、駄目なのに……だめなのに)
心が焦った声を上げる。駄目だと思えば思うほど、いけないことがいくつも、いくつも頭に浮かんできて……
「っ……!!?」
言いしえない恐怖に襲われた絵梨子は自分の体を抱えながら空を見上げ
「…………とき、な……?」
ずっと頭を離れない恋人の姿を見た。
見上げた校舎の中、いつも密会をする四階の踊り場に。
小さく、はっきりとは判断できないが、絵梨子にはときなだという確信があった。
「……………」
どれだけ距離が離れていようとも、心が離れかかっていようとも、愛する人がそこにいるのなら、見つめて見せる。
(……授業中、なのに)
絵梨子とて授業中ではあるが、今が空き時間の絵梨子に比べときなにとっては出ていなくてはいけない時間だ。
(サボらせちゃったんだ………)
その原因が先ほどのことなのは明白だ。
ときなが授業をさぼったのなど、
「あ………」
ときなが授業をさぼった。それがときなの妹である、せつなのことだったのを思い出した絵梨子は、心の中で何かを探し当てた。
(……あの時もときなは……全部、一人で……)
妹に対する責任を全部一人で抱え込んでいた。本人はともかくも、両親や教師、友人たちに言おうと思えば言えていたはずなのに、一人で抱え込んでいたのだ。
絵梨子が手を引いてやらねばきっとときなはつぶれていた。自分で抱え込んだものに耐えきれなくなっていた。
今回だって、そうだ。
ときなは全部一人で決めた。勝手に、悲しい未来だけを見つめ、いつしかそれしかないのだと思い込んでしまった。
一人でそんなところに行かせるわけにはいかない。
「……ううん、行かせない」
そんなところになんか。自分の手の届かないところになんか。
一人の未来になんか。
(今まで通りだったら、また繰り返させる?)
「ふ……」
絵梨子は不敵に笑った。
きっとときなが見たら、かなわないと思う笑顔で。
(今までどおりが駄目なら………【先】へ行けばいい)
違うことをすればいい。
今まで通りが駄目なら、今まで以上のことをするまでだ。
離ればなれになってしまうとおびえていたのは絵梨子も同じだった。見つけてしまえば、ありふれた答えではあったのに、絵梨子も恐れてしまっていた。その答えを。
だが、気づけた。まだ、手遅れになる前に。
あと、行動すればいい。
(……覚悟しててよね、ときな)
「貴女を私のものにしてあげるから」
そう絵梨子は先ほどよりもはるかに近づけた心で語りかけた。
3/後編
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