翌日、最初の休み時間になると絵梨子は教室からときなを連れ出し、最上階の踊り場に来ていた。

 学年の教室がなく、理科室や音楽室などの特別教室しかない最上階は人通りは少なく、こうした密会には好都合の場所で、絵梨子はときなをここへ連れ出すことが多かった。

「それで、何の御用でしょうか?」

「ときな、昨日のことなんだけど」

 まだ授業時間内であるが、絵梨子はときなをそう呼ぶ。昔は、いくら二人きりだろうと学校のある時間はときなと呼ばれると怒られていたが、何度注意しても絵梨子が気を付けられなかったこともあり、二人きりであれば許すようになっていた。

「昨日? 何かありましたか?」

(……………)

 変だったということを確信してはいる絵梨子だったが、あえて何があったかとは聞かずに昨日とだけ口にして、それをごまかすようなことをいうときなに疑念を覚える。

「何か、変じゃなかった?」

 何かを悩んでいるのか、隠しているのかそこまではわからないが絵梨子は迷いなくそう口にした。

 ときなにその気があるかどうかは分からなくとも、こちらから救いの手を差し伸べるのにためらいはない。

「何か、とは抽象的な表現ですね。どこかおかしかったでしょうか?」

「うん。変だった」

 そして、ときなが差し伸べた手を取ってくれなかったとしても、こちらからときなを掴むことにもためらったりはしない。

「だから、どこがだと聞いているのですが」

「電話……手元に無かったんじゃないんじゃない?」

「っ………どうして、そう思うんでしょうか?」

「だって、こんなに鳴らさなくてもって言ったでしょ。つまり、なってるのは気づいてたったことよね。それに、電話出たときもいつもと声の感じが違った」

「………まったく、先生は変なところで鋭いんですから」

 ときなはあきれたような、困ったような顔で顔をそらす。

「違うわよ。ときなのことなら鋭いの」

「……ふぅ。……かない、ませんね」

「それで、どうかしたの?」

 今度はときなの心によりそいながら尋ねた。

「………いろいろ、不安なんですよ」

 くるりとその場で回転したときなは踊り場の出窓を見つめながら小さく言った。

「………そつ……受験も目の前だし………」

「……………」

 まだ、続きがあるであろうことを確信した絵梨子は黙ってときなの続きを待つが、ときなが言い出す前に

 キーンコーンカーンコーン

 授業の開始を告げるチャイムが鳴ってしまった。

「あ、っと、行かなきゃですね。すみません、失礼します」

「あ、ときな」

 まるでそれを待っていたかのようにそう言って歩き出すときなを呼び止めることはできるわけもなく絵梨子は、わずかに漏れたときなの本音を考えていた。

 

 

(まったく、先生は)

 絵梨子から逃げるようにして去って行ったときなは次の授業を受けながらそのことを考えていた。

(……かなわないな)

 授業中で、しかも受験生であるというのにときなは前ではなく窓の外を見ては絵梨子のことを考える。

 ときなは自分がこれまで通りではないことを自覚してはいる。だが、それを表に出してはいないつもりだった。

 絵梨子の言うとおり、携帯は絵梨子が電話をかけてきたときから手元にあった。コールしてきた相手の名を見て固まっていただけだ。

 話したくないなんてことはあるわけはない。絵梨子の前では絵梨子が子供っぽくなることもあって、ことさら常識人ぶるが本音ではときなも絵梨子といつまでも話していたいとは思っているし、会える時間があればいつでも会いたい。

 少しでも多くの時間を絵梨子と過ごしたいと思っているのだ。

 それでも、絵梨子の言うとおり電話に出なかったり、絵梨子に対して淡泊になってしまったのは……

(………卒業、か)

 それが、もう意識をしなければいけないところまで迫っているからだ。

 いつも通りが、いつも通りでなくなる時が迫っている。

 この三年間の終わりが迫っている。

 クラスメイトや寮生、友人たちとの別れが迫っている。

 大好きな恋人との別れが迫っている。

 はっきり言ってときなはそれが怖かった。

 一年以上前から、その現実に怯えていた。

 それが原因で一時は絵梨子との関係さえ危うくなった。

 その時には、絵梨子の歩み寄りとときなの素直な気持ちによりより強固な絆を紡ぐことはできた。

 二人で、やがて来る別れに向かって行こうと誓い、これまでそれを実践してきた。

 数えきれないほどの大切な思い出が二人の間には存在する。

 だが、それがいくら積み重なろうと現実が変わるわけではない。卒業という現実には抗いようがなかった。

 十二月になった今、ときなはそれを思ってしまい絵梨子との関係に戸惑っていた。

 そして、絵梨子はそんなときなの迷いを一瞬で気づいてしまった。直接会わずに、電話で話しただけだというのに。

 かなわない。

 ときなが不安の中思うのは、そのことだった。

 絵梨子は、ときなを愛している。ときなも絵梨子を愛している。

 今のときなにとっては、それが枷だった。

 かなわない。

 これまでもときなは絵梨子にそう思い続けてきた。

 それは年の差とか、人生経験の差とかそういうものではなくて、人としてときなは絵梨子の太刀打ちできないと考えている。

 包み込む優しさ、わずかな差から本心を見抜く機微への鋭さ。

 今ときなが絵梨子の心の内を話してしまえば、絵梨子はときなを救ってくれるだろう。

 二年前の、せつなの時と同じように。

 一年前の、別れに怯えていた時のように。

 ときなを優しく包み込み安らぎと勇気を与えてくれる。

(また……まるめ、こまれちゃう)

 苦々しく心で思うのはときなの絵梨子への本心ではあった。

 言葉はともかく、ときなはあえてそう思っている。

 救われることの同義の意味として。

(やっぱり、電話になんかでなければよかった)

 どうせ時間の問題だったということはわかっていても、おびえるときなはそう思わざるを得なかった。 

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