ときなが指定した場所はときなの教室だった。
ときなが残り少ない時間を過ごす教室。
正面に黒板があって、整然と机が並べられているなんの変哲もない教室。
多分、どこでも同じようなものなんだろうに【その時】をすごし、あるいは過ごした人から見れば、なんの変哲もない空間が特別なものとなる。
それは、絵梨子にもときなにも言えることだ。
大切な人たちと過ごす時間は、何よりも愛おしい時間になる。そして、それはその時間が過ぎ去ってしまったとしても、一人一人の心に深く刻み込まれるものだ。
まして、それが恋人との時間であれば。
(そうでしょ? ときな)
一足先にときなとの待ち合わせ場所についていた絵梨子はときなの机を軽くなでながら、まだ姿を現さないときなに問いかけた。
その表情は明るくない。
原因はときなに誘いをかけた時のことだ。
あきらかにときなは絵梨子を避けようとしていた。それがわかっているのにその原因がわからないのが悔しかった。
(ただ、卒業が怖いっていうだけじゃない、わよね?)
わかるのはここまでだ。
所詮、一人ではここまでだ。どんなに想像してもわからないことはわからない。相手の気持ちを知りたければ直接聞く以外にはないのだ。
(……だから、聞かせてよ)
開け離れていた扉から待ち人が来たことを感じた絵梨子はくるっと回って、予想通りに表情の固いときなを迎え入れた。
「おはよ。ときな」
「……おはようございます」
ときなは言いながら、机をぬって絵梨子に近づきはしたものの
「それで、何の話でしょうか?」
いつも話すときよりもわずかに離れた距離で立ち止った。
「もうちょっと、こっち、来ない?」
「……話すにはここで十分だと思いますけど?」
「うん。でも、せめてもう一歩だけこっち来てほしいな」
少しでもときなとの【距離】を縮めたかった絵梨子はそう訴え、ときなはわずかに悩みを顔に出しながら素直に一歩近づいた。
「それで、何の話でしょうか?」
そして、同じ言葉を繰り返す。
「そうね。単刀直入に言わせてもらうわね」
まるで会ったときのように戻ってしまったときなに対し絵梨子からの距離は変わらず絵梨子は切り出した。
「ときなは何が、不安なの?」
「っ……」
明らかにときなは苦々しいという顔をした。それは、もちろん絵梨子に対してというわけではないのだろうが、目の前で恋人にそんな悲しそうな顔をされるというだけで絵梨子の胸は痛む。
「ときなが卒業を怖がってるっていうのはわかってる。でも、それだけじゃないわよね。ただ、卒業が嫌なんじゃないでしょ?」
「…………」
「ね、話して。私なんでもときなの力になる。私は、ときなの先生で、恋人、なのよ」
ときなは今自分の世界に閉じこもっている。すべてを自分で考え、自分で決めて絵梨子を遠ざけようとしている。それはきっとときなの本心の一部ではあるだろうが、こうして絵梨子に入ってきてもらいたいという本心もまた存在するはずだ。
だから、絵梨子は迷わずときなの世界に入り込み、ときなへと手を伸ばした。
「……話したら、何かが変わるんですか?」
「え?」
だが、ときなはその手を振り払った。
「先生に、話したら……これ、を打ち明けたら、変わる、ん、ですか?」
「え…………?」
絵梨子は驚愕していた。あまりにいきなりなことが起こったために。
「話したら、離ればなれにならなくて、すむんですか!?」
「とき、な……?」
ときなが、泣きそうになっていたから。
悔しそうに瞳いっぱいに涙をため、唇をかみしめている。
ときなの強さと弱さが一挙に表に出た表情だった。
「と、ときな……どうして、泣いてるの?」
ときなの泣いている理由が一切わからない絵梨子は、ただただ混乱するしかない。
「……先生の、せいですよ」
「え?」
「先生が、優しい、からじゃないですか」
「え、え?」
合判するようなことを言われ、絵梨子はさらに混乱する。優しさのせいで、恋人に涙を流させる。
そんなようなことは起きることもあると知ってはいても、今はその理由がわからなかった。
「ど、どういうこと?」
絵梨子の問いかけにときなは涙をこらえたままバツの悪そうにうつむいた。
「だから、先生と話すのは嫌だったんです」
「だ、だから、どういうことなの? わ、私何か変なこと、言った?」
フルフルと小さくときなはそうじゃないと否定する。
「じゃあ、……どうして?」
ときなが何を思っているか、何を考えているのか絵梨子にはさっぱりわからなかった。それでも絵梨子はその焦燥を抑え、ときなの心によりそう。
「っ…………」
ときなはしばらく、情けない顔をしたままうつむいていたが絵梨子が黙って自分を待っていることを自覚しており
「……怖いんですよ」
どうせいずれは抑えきれなかったことを話し始めた。
「……卒業が?」
「先生と離ればなれになるのが、ですよ」
「うん………」
ときながそれを恐れているのは絵梨子にはわかっていた。それを二人で埋めてきたのだから。
しかし、今ときなが言っているのは絵梨子が想像しているものとは違うのだろう。
「……大丈夫だと、思ってたんです」
「……………?」
何を言おうとしてるのかまだわからない絵梨子だが、ときながきちんと話してくれることを信じており、真剣にときなを見つめる。
「一年前、先生と約束したんだからって。どんなに離れても、私は先生が好きだし、先生も私を好きでいてくれるって、そう信じられているのに…………十二月になって、受験がとか、卒業がとか、聞くたび、想像、しちゃう、んですよ……先生と、離れなきゃいけない日々のこと、先生と会えない日々のことを」
「ときな……」
「そのたびに、怖く、なるんですよ。大丈夫だって、信じてたのに……信じてるのに、どうしようもなく不安になっちゃうんですよ」
(ときな)
今度は心の中だけで恋人の名を呼んだ絵梨子は、震えるときなに手を伸ばしかけてから躊躇する。
年相応に、いや、恋する乙女として不安におびえる恋人を抱きとめたかったはずなのに、なによりその相手が望んでいないような気がして。
「情けない、ですよ。こんなに、先生のことは好き、なのに。先生が好きでいてくれるのもわかってる、のに」
初めてみるときなだった。
こんなに悔しそうにするときなは初めてだった。ときなが本気で悔しがってのるのが、絵梨子の考える何倍も卒業を重く感じているのがひしひしと伝わった。
同時に自分がときなと同じように、卒業を考えられていないということを思い知らされた。
それは、別に絵梨子がときなを信じているとか、ときなが絵梨子や、自分を信じられていないとかそういう次元ではないが、今絵梨子は自分がときなの心に届いていないのだということを知ってしまった。
「だから、私と話したくなかった、の?」
たとえときながどんな悩みを抱えていようと受け止めて見せる自信があった絵梨子は、それが揺らいだまま自分も情けない声を発してしまう。
「私のこと、信じてくれないの?」と聞こえかねない声を。
少なくてもそれは、嘘ではなかった。ほんの数パーセントにすぎなくても、絵梨子の声には無意識にそんな意味が込められていた。
悲しかったのだ。独りですべてを抱えられてしまったことが、二人で歩むはずのこれからを一人で抱えられ、その不安に押しつぶされそうになっている恋人が、悲しかった。
「違い、ます!」
そんな絵梨子の気持ちに気づいたのか、ときなは必死さをうかがわせる声でそう否定した。
「だっ、って! 先生は、優しい、から……話したりなんか、したら……優しくしてくれる。……また、大丈夫なんだって思っちゃう」
「そ、それの、何が………」
いけないのか? と問いかけようとして絵梨子は口をつぐんだ。
その理由、わかる気がするから。
「一年生の時からわかってたん、です。私は、卒業して、大学に行って、先生はここにいるままなんだって。離ればなれになるんだって。思ってた、思っては、いたんです」
「うん………」
「でも、大丈夫だって思ってた、信じてたんです。先生が本気でいてくれることは、わかってたから。離ればなれになっても、大丈夫だって……。けど、二年生のとき初めて本気で大学を意識して、怖くなって……先生に……助けてもらって、今度こそ大丈夫だって思えた。でも……」
また、不安になってしまった。
それは誰にでもあることだろうし、逆に言えば、それはそれだけ好きだということはときなもわかっているだろうけれど、そんなことを感じることすらときなは嫌、というよりも耐えられないことだったのだ。
「今なら……先生が助けてくれる。どんなに不安になっても先生が安心させてくれる。でも、卒業しちゃったら、そんなこと、できないじゃないですか」
「そ、そんなことないわよ。いつだってときなのこと助ける」
「だめ、ですよ。こうして、直接会えるから、助けてもらえるんですよ……会えなかったら、きっと不安に思ってることだってわからない」
「わかるわよ! 今回だって、気づいたじゃない!」
電話応対のわずかな差だけで気づいた。わかって見せる。好きな人のことなのだから、どんな些細な変化だって見逃さず、どんな小さな不安だって見つけて、取り除いて見せる。そう絵梨子は思い込みだとしても確信している。
「……わかりませんよ。わからないように、しますから。ばれない様にして見せますから」
「っ……」
ときなのそれは、絵梨子を信じていないからではなく、絵梨子に心配をかけたくないため。そして、そんな自分が嫌なため。だが、おそらくできるだろう。ときなが本気になれば、直接会うならともかく、電話やメール程度では隠しとおせるだろう。
それに……
「大体、気づいたからってなんなんですか。気づけたからって、会えないのは変わらない。……助けてもらえないのは、変わらないじゃないですか」
「あ、会いに行くわよ。いつだって、ときなのためなら」
「……馬鹿、言わないでくださいよ。そんなこと、できもしないのに」
「ぅ……」
言葉でならいくらでも言える。だが、実際にそれができるとは限らない。立場がそれを許さない。
また、実際に会いに行ったとして、ときなはそれを喜ぶだろうが、同時に怒りもする、心配もする。
怒られるのはいいとしても、会いに行くことでときなを自分のことで心配させるわけにはいかないのは絵梨子にもわかっていた。
「で、でも!」
ときなのいうことは間違ってはいない。おそらく、絵梨子の言うことのすべてにときなは反論できるだろう。
それが、わかっても絵梨子は逆接の接続詞を口にする。
「私は、ときなを」
言いながら、絵梨子はときなへと手を伸ばす。何も、言えなくても、言葉じゃ伝えられなくても、言葉じゃない方法で気持ちを伝えるために。
が。
「やめて、ください」
ときなの言葉は絵梨子の心を刺す。
「今、抱きしめられたら……きっと、受け入れる。また、繰り返すだけになっちゃうから」
「とき、な……」
ここに来た直後ならときなの作り出した境界を超え、手を伸ばせただろう。あるいは、ときなと同様に卒業を考えられていたのなら。
しかし、今はときなの気持ちを聞き、また、ただ話してみようとしか思えずここに来てしまった絵梨子には……
「すみません」
自失ぎみの絵梨子にときなは、本当に心から申し訳なさそうにそう言った。
「こんなの、自分でも馬鹿らしいって、杞憂なんだって、わかってます。でも、やっぱり、駄目です。今は……先生にそうされたくない」
「ときな……」
心から自分を悔いているときなに絵梨子の声は自信と力を失う。
「すみません……ごめん、なさい。……………ごめん……なさい………」
繰り返される謝罪は、流れ落ちる涙は、そのまま絵梨子の心の重圧となる。
「……………」
「……………」
しばらく、お互いうつむいたまま沈黙が流れ、
「……しつれい、します」
それに耐えきれなくなったときなが逃げていくのを絵梨子は
「ぁ………」
引き留めることができなかった。
3/中編1
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