それは、絵梨子がいつものように一日を終え帰ろうとしていたときだった。

(とき、な………?)

 駐車場に向った絵梨子は自分の車の前に生徒が、それもこの学校で一番特別な生徒、ときながいたことに意外の念を隠せなかった。

 この日も絵梨子はときなと休み時間に廊下ですれ違いやはり無視をされていたので、今日話を聞いてもらえるようには思えていなかった。

「先生……」

 ゆっくりと近づいていった絵梨子にときなは不安そうに声をかけてきた。

「ときな……」

 何故このような不安そう顔をされるのかわからない絵梨子はどうすればいいのかわからずに名前を呼ぶだけだったがときなの次の一言にさらに困惑させられることになる。

「この前は……すみませんでした」

「え?」

「……おかしかったですよね。先生が私のこと、大切に思ってくれてるっていうのはわかってるのに、あんな寝言くらいで先生のこと疑っちゃって……しかもあんなこといって。ホントバカみたいですよね」

(ときな……?)

 淡々と話すときなに絵梨子は違和感を感じた。それも心当たりのある違和感だ。

「……もう別れたんですから、気にすることじゃないんですよね」

 ときなは自分が姉であるという自覚があるからなのかもしれないが、弱音を見せようとしない。それはときなが心を許す絵梨子にもそうで、隠したい気持ちを一見理にかなう言葉の裏に隠す。

「ここ最近先生と疎遠になって、やっぱり私には先生が必要だって思い知りました。失ってから大切って気づくことありますよね」

 ときなは今隠そうとしている。おそらく、というよりもほぼ間違いなく柚子のこと避けようとしているのだろう。ときなもそのことで自分が愉快になれないことをわかっているのだ。

「………あんなこと言っておいて調子いいかもしれませんけど……あのことは、忘れて、ください。それで……また、これも調子いいですけど、戻れますよね……私たち」

 ときなはおかしなことを言っているわけではない。絵梨子がときなを怒らせる原因を作ったのは確かであり、その後絵梨子はときなへアプローチをかけてくれた。そして、ときなが怒った原因を水に流すという。

 経過だけを見ればおかしくないことかもしれなかったがときな自身は自分がいかに勝手なことを言っているかを自覚しており、これまで意識的に凪いでいた心が不安の風に揺さぶられていることが見とおせた。

「ときな」

 絵梨子はまずそんなときなを不安から解き放つため優しく自らへと引き寄せ抱きしめる。

「先生……」

 ときなはそれを素直に受け入れほっとしたように絵梨子の腕をつかんだ。

「ときな、今までごめんなさい。柚子のこと……ちゃんと話せなくて」

「っ……」

 抱きしめられ絵梨子から見えない顔を悲痛に変化させる。柚子の名前が出たことと、ごめんなさいに。

「そのことでちゃんと話がしたいの」

 絵梨子はときなの夕陽に反射して美しく光る髪を優しくなでながら、耳元で囁く。

「い、いいですよ。今先生が私のこと好きでいてくれるのなら……それだけでいいんです」

「ううん、私が駄目。ちゃんとときなに聞いてもらいたいの」

「……………」

 ときなは即答しなかった。

 ときな自身まさか本当に柚子の、昔の恋人の代わりだった、今でも柚子のほうが好きだなどと言われるとは考えていないはずだが、確信しきることはできずはるかに可能性の低い未来なのに、もしという恐怖に襲われてしまっていた。

「ときなのこと、大切だから隠したくないの……」

「…………はい」

 そんなときなの不安を知ってか知らずか絵梨子はときなを抱きしめる腕に力と想いをこめ、ときなは久しぶりに感じる愛しい相手の熱に頷くのだった。

 

 

 絵梨子はあのままときなを車へと乗せてときなを自らの部屋へと連れ込んだ。

 車内では特に話をすることもなかったがときなは少なくても表面上は冷静な瞳をたたえていた。

 しかし、久しぶりに訪れた絵梨子の部屋の中では所在なさげで座ることもなく、立ち尽くしていた。

「………………それで、柚子さんのことで話すってどういうことですか?」

「あ、うん」

「うん、じゃないですよ」

 ときなは絵梨子に背中を向けたまま少し不機嫌そうにも思えた。

 やはり、可能性が低いというのがわかりつつ、柚子に関する様々な不安がときなをそうさせているのだろう。

「前に、柚子のこと今でも好きかって聞いてたわよね」

「……はい」

「好きかって言われれば、今でも……好きだと、思う。」

 思う、と評したのはときなへの斟酌を求めたものではなく、絵梨子自身はっきりしていなかった。

「それに、未練があるかって言われれば……ある」

 未練は確実に存在し、その未練が今でも柚子を好きなのかという疑問を絵梨子の中で複雑にさせていた。

「そう、ですか」

 予想をした最悪ではないだろうが、悪いほうの想像にときなは絵梨子から見えない位置で服を掴み、悔しさを現わすかのような皺を作った。

「でも、今も柚子のこと完全には忘れられてないかもしれないけど……ときなを柚子の代わりに思ったことはないわ」

「……それをどうやって信じればいいんですか?」

「……ときなに信じてもらうしかないわね」

「信じなかったら、どうするんですか?」

「信じてもらえるように頑張る」

「……勝手、なんですね」

「かもしれない。けど、私にはそれしかできないから」

 結局のところそれ以外にはありえなかった。極端なことを言えばこのことに限らず、言われたこと、伝えられたことを信じるかどうかは本人しだいでしかない。絵梨子にできるのは、自分なりにまっすぐ気持ちを伝えることだけなのだ。

 ときなもそれを頭ではわかっているのだろう。そして、同時に絵梨子が言っていることがおそらく真実であるとわかってはいるつもりだった。

「一つ、聞かせてください」

 しかし、頭でわかりつつも一度胸に巣食ってしまった気持ちは簡単には消し去ることはできない。

「何?」

「…どうして、柚子さんと別れたんですか?」

「っ……」

 絵梨子は衝撃を受けるには受けたが、予想をしていた質問でもあった。ただ、それを話すということは二人が、特にときなが触れてもらいたくも逃げていた【卒業】に目を向けなければならず、絵梨子は一瞬閉口した。

「今度は内緒じゃすみませんよ」

「わかってる」

 いつまでも逃げてはいられないのだ。たとえ柚子のことがなくとも、卒業から目をそむけ続けたとしてもその日はやってくるのだから。

 絵梨子は今まで微妙な距離があったときなとの間を詰めた。

「それは……」

 そして、柚子との別れを話し始めた。

 思い出せる限りありのままに。柚子が追いかけてもらいたかったんじゃと今でも後悔していることも含め、隠さずにお互いが耳に痛いことを実直にときなへと伝えた。

「…………」

 話を聞き終えたときなはしばらく無言だったが、少しすると小さくそうですかとつぶやいて絵梨子のベッドに背中を預けて座った。

 ただし、それでも絵梨子から逆方向を見るのは変わらない。

 絵梨子はどうするべきか迷いつつもときなの隣に座る。

「……この前、ときなが進路どうするかっていう……ううん、ときなは卒業のことが不安だった、のよね。それで、私は柚子のこと思い出しちゃって……夢見ちゃったんだと思う。言い訳に聞こえる、ううん言い訳でしかないわよねこんなの」

「そうですね」

「っ」

 自分で言い訳と認めることと相手にそういわれるのでは差が生じる。絵梨子はときなに言われ心を沈むのを抑えられなかったが、

「けど、私も……悪くなかったわけじゃない、です、から。仕方ないって済ませたくはないですけど、仕方ないですよ」

 ときなの言葉に安心すると同時に悲しくもなった。

 それは偽りのある気持ちではないのかもしれないが、まだ子供のときながまるで大人のように物分りのよい態度を見せるのはときなにとっていいことではないような気がした。

 もっと撒き散らして欲しかった。まだときなは子供なのだから。

 なにより

(私は、ときなの恋人なんだから……)

 絵梨子は無言でときなの肩を抱くと体を引き寄せた。

 震えてはいないはずだがときなの体はいつもより心細く思え絵梨子は抱く腕に力をこめる。

「……私、柚子さんのこと、わかる、気がします」

「え?」

 ふと、ときなはポツリと呟いた。

「柚子さんが私が考えたようなこと思ったのかはわかりませんけど……でも、わかる気がします。怖い、ですよ。卒業、しちゃったら、毎日先生と会えなくなったりなんかしたら……」

「ときな……」

「私、先生と離れる、なんて……考えられない。考えたくもない、です」

(あ………)

 絵梨子はまた自分を恥じた。ときながさっき聞き分けのよいことを言ったのは本当の気持ちだったのだろうがときなの思考はすでにこちらに飛んでいたのだ。

 卒業という別れに。

「駐車場で言ったこと、本当ですよ。私には先生が必要なんです。去年までだったら、そんなこと思わなかった。けど、もう先生といるのって当たり前で、先生がいるから私前を向けているんです。先生が支えてくれるから」

 ときなは恐る恐る肩にある絵梨子の手に自分の手を重ねた。

(ときなが、こんなこと言うなんて……)

 ときなが完璧な人間でないことはわかっていた。ただ、それでも強い人間であるとは思っていた。いや、事実ときなは他の同年代の子供と比べれば強いのだろう。

 それは絵梨子と恋人になる前もそうであったが、今は絵梨子がいるからこそ強くなれているのだ。絵梨子がいなくなったらときなは立っていられなくなるのかもしれない。

 その意味ではときなは弱くなったのかもしれなかった。

 それは何もときなに限った話ではなく、誰だって好きな人ができれば、頼れる人がいるならば強くなれる面、弱くなってしまう面もあるのかもしれない。

 そして、それは絵梨子も同じで、だからこそときなとこれからも歩んで生きたいと思うのだ。

「ときな」

 重ねられた手に絵梨子は指を絡める。

「ときながこの先どういう進路を選ぶのかはわからない。けど、いつまでもこの天原にいられるわけじゃないのは、絶対で……こうして毎日会ったり出来なくなる日はくるわ……」

「……はい。わかってます」

「だけど、私たちがお互いに想いあうことはできるのよ」

 言葉の裏で絵梨子は戸惑いを覚える。

 それが出来なかったから柚子とは別れたのだということが胸を支配していくが

「……私はときなを信じる。離れても私を想ってくれるって、好きでいてくれるって。だから、ときなも私を信じて。会えなくなったって、ときなを好きだっていうことを」

 それがあったからこそ、今度こそときなへちゃんと想いを伝えなければいけなかった。それは決してときなが柚子の変わりということではなくときなが大切だから。

「……どうやって先生のこと信じればいいんですか」

「ときなが信じてくれるしかない」

 そして、それを判断するのは絵梨子でなくときななのだ。絵梨子は信じてもらうため自分の気持ちを言葉にし、行動するしかない。

「……勝手、ですね」

「かもしれない、だけど」

 絵梨子は肩に回していた手をはずし、代わりにときなの正面にまわって今度は二つの手を取り、指を繋げた。

「ん、ちゅ……」

 了承もなしに唇を奪った。

「ちゅく……ちゅぶ、くちゅ」

 ときなからは何もしてこないまま絵梨子だけがときなの熱さを感じながら暴れまわった。

「ハァ……」

「ふ、はぁ……はぁ」

 久しぶりの熱烈なキスを終えた絵梨子はときなを安心させるように微笑んだ。

「こうして、信じてもらえるように気持ちを伝えるのはできるわ」

 息を整えているときなはその絵梨子の顔を見つめる。

「これからもっとときなと思い出を作って、好きって伝える。ときなにずっと好きって想ってもらえるように、ね」

 絵梨子が時折見せる、ときなにはできない優しい強さを持つ笑顔。

 せつなのときにも見た、ときなが好きな表情だ。

「……やっぱり先生はずるい」

 絵梨子の言っていることは理想かもしれない。しかし、それゆえに正しくも聞こえときなは絵梨子の胸に顔をうずめて幸せそうな微笑みを浮かべるのだった。

 

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