再び森さんがやってきたのは貸し出しをしてから一週間後のことだった。

 彼女と出会う数分前、二階の奥まった本棚の間で蔵書の整理をしていた。返却された本は一定期間は返却用の棚に置いておくけれど、時間が経てば定められた本棚へと戻すことになっている。

 今はその作業中。

 図書館の蔵書は基本的に日本十進分類法により定められた分類に区別されており、今私が整理しているのは区分0、総紀とされる部分でこのあたりはあまり利用者も少なく、私は人気のない中本棚に間へと入り慣れた手つきで図書を揃えていく。

(そういえば、あの人も森さんね)

 ふと、十進分類法を作った人の苗字がつい最近まで頭を悩ませられた相手が同じ姓であることに気づきその相手のことを思い浮かべ手を止める。

「まぁ、だからどうしたというわけでもないか」

 一瞬彼女のことを考えるものの、そう呟き作業を再開しようとすると

「貴女って結構独り言が多いのね」

「っ!」

 先ほどまでは頭の中にいただけの相手がいつの間にか本棚と通路の境目から私を見つめていた。

「森、さん、どうして……」

 ここに? と問おうとしたが

「すみれ」

「え?」

 私の言葉を鋭く遮り彼女は自分の名前を述べる。

「すみれって呼んで」

 勝気な表情で私にそれを要求する。

 何が何だかはわからなかったがそこには有無を言わせない迫力とそれに伴う強さと美しさを同居させており、私はそれに目を奪われながら

「すみれ、さん」

 とそう呼んだ。

「えぇ」

 満足気に頷くすみれ、さんに余計に状況が呑み込めなくなった私。

 対照的に彼女は不気味にも思える笑みを絶やすことはない。

「貴女は文葉、よね。確か」

「っ……はい」

 唐突にファーストネームを呼ばれ、わけもわからないまま頷く。

(一体何事?)

 初めて会った時のように化かされているような気分になりながら底知れぬ彼女……すみれさんの瞳に囚われる。

「えぇと、それで、なんでここに」

「本を返しに来たのに貴女がいないから探していたのよ」

 理由を告げる彼女に私は内心驚く。まさか本当に感想を伝えに来るなどとは思っていなかった。

 意外には思うもののこの人がどんなことを感じたのかは気になりどうでしたかと問う。

「んー、貴女には申し訳ないけど実はほとんど読んでないのよね」

「え?」

「数十ページくらいで飽きちゃったの」

「……そう、ですか」

 私は混乱する。

(どういうこと?)

 本を読んでいないのなら私に会いに来る理由はないはず。まさか貴女の薦めた本はやっぱり期待に沿わなかったと伝えに来たわけではないだろうし。

 いくら彼女が常識から外れた思考をしているとはいえそこまでのことをするとは思えず次は何が飛び出すのかと身構えていた。

「私がどうして本を探していたか知ってるわよね?」

「っ? えぇ。【退屈】だったからですよね」

 急に話が飛んでしまったもののそれを答える。

「そうね。だから本でも読もうかと思った。けど、正確に言うのならつまらない人生に興味を持ちたかったのよ。別に本である必要はないの」

「つまり、何か別のものを見つけたということでしょうか」

 そこでようやく多少合点がいった。

 ここには恐らく私への義理で来たんだろう。私の時間を使わせてしまったことへのせめてもの償いの気持ちを直接会うことで示そうとしているのかもしれない。

 ファーストネームを呼び合う理由にはならないが、一応手近な答えに私はすり寄る。

「そういうこと。別に興味のあるものを見つけられたのよ」

「そうですか。お力になれずに申し訳ありませんでしたが、おめでとうございます」

 司書として本以外にそれを満たされてしまったことは歯がゆくもあるが本人がいいというのならそれで納得するしかない。

「謝る必要なんてないわよ」

(……社交辞令くらい受け取ってくれればいいのに)

 力不足を感じたのは本音でも、謝罪の言葉を述べたのは話の流れだからなのに。

 だが、彼女がそんな通常の思考をすることはないとわずかながらでも彼女との時間を過ごしてきた私なら予想できてもよかったかもしれない。

「だって興味あるものっていうのは貴女だもの」

「えっ……?」

 一瞬意味が理解できず、呆けて彼女を見ると彼女はこちらへと近づく。

「貴女のことを知りたいのよ、文葉」

 誰に名前を呼ばれるのとも違う妖艶な響き。近づいたことで強くなる甘い果実のような彼女の香り。

「あ、のっ!?」

 さらにはその細く長い指が頬へと添えられるといよいよわけがわからなくなり体が経験のない発熱をしてしまう。

「意味が、よく……」

「わからない? 私はね、貴女に惹かれたのよ。貴女は私にとって新鮮な相手だったわ。見ず知らずの私のために一生懸命になってくれた。それに、あの時語ってくれた仕事へのやりがいと情熱、それは私にはない価値観だった。そんな貴女に私は興味と憧れを持ったのよ」

 猫の様な瞳を細めながら彼女は私の頬へと添えた手を動かし顎の方へと持っていき、中指と人差し指で顔を上向かせた。

「それは、買被りですよ」

 私の一面だけを見て都合よく判断した評価に冷めた心地で彼女の手から逃れ一歩距離を取る。

「貴女が自分をどう思うかなんて関係ないわ。私が勝手に文葉に惹かれたのだから。貴女がどんな人間かはこれから判断する」

 有無を言わせない彼女の雰囲気。自分の都合を伝えながらもそこに負の感情を感じさせない天性の力のようなもの呑まれ私はただ呆然と彼女を見返すことしかできない。

「そのために私は貴女と一緒にいたいの。同じ時間を共有して文葉のことをもっと知りたい」

 不思議と周りからの音が消え、静寂の中に彼女の声だけが響く。まるで世界には私達しかいないような錯覚を受けてしまいそうな気さえした。

「だからね、文葉」

 再びすみれさんが私へと迫る。

 鼻孔をつくのは本棚の香りではなく、彼女の匂い。

 触れずとも彼女の熱を感じられそうな距離に私の心は何故か焦燥感を持つ。

 目の前に迫る彼女の体。その瞳は妖しい光が灯っている。

「……ん、く」

 緊張と焦燥に心臓が早鐘を打ち、喉が渇いていく。

 そして彼女は体をこちらへと伸ばすと、その私を乱す唇と近づけて

 その距離を零にした。

「……っ」

 ちゅ、とした軽い水音と、柔らかな触感。

(え……?)

 キスをされたと頭では理解しても心では理解できないまま私は頬に手を当てて、彼女の言葉を耳にする。

 

「私の恋人になりなさい」

 

 これが彼女と私の物語の始まり。

 

1−4/二話  

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