私のことを【彼女】と称する彼女と友人になったことは私の中では大きなことだった。

 まず新しい友人というだけでも新鮮だった。私はこれまで碌に新しい人間関係も作らず、閉じた世界の中で生きてきたから。

 ほとんど決まったルーチンを繰り返すだけの日々の中で、彼女との時間は刺激的だった。

 彼女は良くも悪くも普通とは違っており、退屈だった私の日々に少しだけ起伏をもたらしてくれる。

 もしかしたらいずれはそれにも慣れてしまうのかもしれないけれど、少なくても今は彼女と友人になれたことは私にとって幸福なことに思えた。

 今はまだその程度の認識。

 けれど、これからがどうなるかはまだまだ未定の二人の物語。

 

 ◆

 

 土曜日の昼下がり。

 この日はまだ六月も上旬だというのに日差しが厳しく、外に居ればじっとしているだけでも汗が滲んてしまいそうなそんな陽気。

 図書館の中から見える外の木々は青々と眩しく夏の景色を思わせた。

(まぁ、暦の上ではとっくに夏だけれど)

 季節の移ろいを感じると、その分時が経ったのだと自覚せざるを得ない。

 彼女、すみれと出会ってから一つの季節が過ぎたということを。

「文葉、なにぼーっとしてるの?」

 受付窓口で友人のことを思っていた私の耳に正面からそんな声。

「いくら人がほとんどいないからって仕事中にそういうのはよくないな。まして、これからさぼりに行くんだし」

 カウンターに肘をつきあまり大きな声で言って欲しくはないことを言ってくる、数少ない友人の一人。

「さぼりじゃなくて休憩。というか、あんたには言われたくないんだけど」

 不穏当な発言に訂正を加え早瀬に厳しい視線を向ける。

「うーん。まぁ、それは言いっこなしということで。ところで、そろそろ行ってあげた方がいいかもしれないよ」

「すみれがとの約束までには三十分くらいはあるけれど?」

「あぁ。もう来てる」

「え?」

「さっき偶然会ったんだけど、文葉に会いたくて早く来たんだって。ここは代わってあげるから行って来たら?」

「サボりはよくないんじゃないの?」

「私的には綺麗な女の人を悲しませる方がよくないことだし」

 会話をしながらも早瀬はカウンターの内側へと周り、私の背を叩いては席を譲るように促してくる。

 私の為なのか、それとも面白がっているのかはわからないけれどとりあえずは引くつもりはないらしいことを察して「わかったわ」と席を立った。

「それじゃ、すみれちゃんによろしくね」

 そして、私は本人の前で口にしたら怪訝な顔をしそうな言葉を受けて彼女の元へと歩き出していく。

 もう説明するまでもないけれど、今早瀬と話題にしていたのは自称私の恋人で、友人のすみれのこと。

 ちゃんとした友人になってから、こうして図書館で密通をすることが常になっている。

 理由としてはやはりなかなか会えないからということ。

 図書館は業務の性質上、一般的な休みである土日にも開館しなくてはならない。当然ながらすみれと休みが合うことはなくて、それでもすみれが会いに来たいということで土日にはこうして業務中に少し抜け出し密会をすることになっていた。

 場所は、図書館の三階、奥まった場所の本棚の間。袋小路にもなっていてあまり利用者の近づかない場所。

 その性質もあって、早瀬なんかはよく逢引きに使っている場所。

 さすがに早瀬みたいな用途にはならないけれど、場所としては都合がよくて私も利用させてもらっている。

「………?」

 その場所へとまっすぐに向かっていた私は目的をあと少しのところにして思わず脚を止めた。

「……………」

 意外なものが見えるわ。

 すでに私は目的の場所も、目的の人物も視線に捕らえている。

 相も変わらぬ美しい姿。通路から見るすみれは私に背を向けており後ろ姿と横顔くらいしか見えないけれど、それでもここからでも映える黒髪と不思議なほどに惹かれてしまう肩。

 と、見惚れているわけじゃないわ。

 私が気になったのは彼女の手にしているもの。その端正な横顔が見つめるもの。

(本を……読んでいる?)

 そう彼女は文庫本を手にしていた。

(あの、すみれが……?)

 最初に会った時には、面白い本を紹介しろなどと無茶苦茶な要求をしたうえ、こちらが進める本には一切興味を示さなかったあのすみれが本を?

「……………」

 何とも言えない気持ちが胸に湧く。何事かという戸惑いは大きいし、私が勧めた時には興味ないとか言っていたくせになんて考えてしまうことは多いけれど、それでも今一番大きな気持ちを述べるのなら、

(嬉しい、かもしれない)

 やはり私は司書で、興味ないと言っていた人間が本を読んでくれるというのは喜ばしいことだった。

(どんなものを読んでるのかしら?)

 すみれの興味を引くものというとまるで思いつかない。これまで様々な小説や、時には学術書なども勧め、そのすべてを無視してきたあのすみれが読む本、それはどんなものなんだろう。

(いっそ哲学書とかある意味らしいわね)

 なんて思いながら私はふとした好奇心からのぞき見をしようかと、足音を立てずにすみれの背後に迫っていって肩越しに手にした本を覗こうとすると

「人の本を覗き見するなんてあんがいいい趣味をしているのね」

「っ」

 こちらを見ずにすみれの冷静な声が響いた。驚きつい固まってしまう私の前で本を閉じて、こちらへと向き直る。

「気づいてたの?」

 そう問うとすみれは細長い指を鼻に当てる。

「文葉のいい匂いがしたから。そのくらいわかって見せるわよ」

「っ……」

 すみれがこういうことを言うのはよくあることなのだけれど、早瀬に言われるのとは違い妙に照れてしまうことがある。

「そ、それよりその本どうしたの?」

「あぁ、これはあなたのお友達に押し付けられたのよ」

「お友達って……早瀬?」

「そ。さっき偶然会って話してたの」

「へぇ」

 実はこの二人は意外と話すことが多くなっている。彼女と友人になった日には、犬猿の中かとも思ったけれど私がきちんとすみれを友人と見なしてからはたまに話をしているみたい。

 そのこと自体はわるいことではないのだけど

「……私が勧めた本は読まないくせに、早瀬からのは読むんだ」

「やきもち?」

「別にそういうわけじゃないけど、そうなんだって思っただけよ」

「心配しなくたって浮気したいなんかしないわよ」

「だから、違うって言ってるでしょ」

 ……少しだけ面白くないのは本音だけど。

「照れなくてもいいのに」

 噛み合わない会話にため息をつきそうになる私は次のすみれの一言に首をかしげることになる。

「これは勉強にってもらったのよ。確かに言われてみるとその通りだと思って見てたってだけよ」

「勉強?」

 とすれば、何かの指南書? でも文庫サイズでそういうものってあるかしら? などと益のないことを考えていた私にすみれは本をぱらぱらとめくると

「こういうの」

 何故か楽しそうな声をあげて私に開いたページを突き付けてきた。

「……………」

 反射的にそのページを読む私は……

「っ……これの、どこが勉強、なのよ」

 少女じゃあるまいし顔を染めたりはしなかったが、そこに書いてあった内容に顔をしかめる。

 まぁ、平たく言えば官能小説だ。それも女同士の。

「必要でしょ? 私たちは付き合ってるんだからいずれはこういうことだってするでしょうし」

「……本当に、恋人、ならね」

「だから、恋人だって言ってるじゃないの。盲点と言えば盲点だったわね。確かに勉強というか、知識は得ておくべきかもしれなかったわ。そういう経験はないし、文葉は?」

「ノーコメントで」

 それはなるべく避けたい話題で私は口元を手で隠しながらすみれから一歩距離を取った。

 それが失敗だった。

 すみれは意外に目ざとくその動作の裏を探ろうとする。

「ふーん。経験はありそうね。まさかあの女じゃないでしょうね」

 それはもちろん、早瀬のことだろう。

「………………だから、ノーコメントで」

 心に浮かべた相手の名を出され、一瞬動揺してしまうものの変わらず表情を読み取られぬようにもう一度それを繰り返すのだが。

「ねぇ、なによ。今の沈黙は。まさか、本当に……?」

「…………………………すみれの考えるようなことじゃない。今はそれだけで勘弁して」

「………ふーーん」

 すみれには珍しくないことだけど不満を一切隠すことなく告げる姿に考えされられないでもないけれどいくらすみれが粘ろうとそのことを告げるつもりはない。

 陳腐な言い回しだけれど、誰にだって思い出したくない過去はあるということ。

 この後、明らかに不審を持たれたままではあったけれどとりあえずこの日はそれを追求されることなくすみれとの逢引きの時間を終えることが出来たのだった。

 

2−6/3−2  

ノベル/ノベル その他TOP